第56話 これは救済だ


 「ギルベルトが死なない」

クラウスの姿を見ると、半狂乱で、ロッシは叫んだ。

「死なないんだ」

 負傷したギルベルトを、ロッシたちは、なんとか家まで運んだ。それを、彼が望んだからだ。

「恐ろしく苦しんでいる。血がたくさん出て、意識も朦朧として。胸を撃たれてあれだけ血が出たら、普通ならとっくに死んでいる! ……それなのに……死なないんだ!」

 ロッシの眼には、明らかな怯えが宿っていた。

「彼は、お前の名は出さなかった。でも、来てほしがっていることは、一目瞭然だった。どうしてわかった?」

「エマが呼びに来た」

クラウスは答えた。

「エマ……ああ。ハンナの姪か。ハロルドの子守の……」

蒼白の顔を、ロッシは上げた。

「ギルベルトは向こうの部屋だ。悪いが、一人で行ってくれ。俺は、……とてもじゃないが……」

ロッシが絶句する。

 頷いて、クラウスは、ギルベルトのもとへ向かった。


 ギルベルトは、低いテーブルの上に横たえられていた。

 呻き声は、クラウスが近寄ると、ぴたりと止まった。

「なぜお前が。不要だと言ったろう?」

 苦しい息の下から、ギルベルトは言った。

「見くびらないで。ちゃんとできるから。だから、安心してほしい」

「そうか。大人になったな、クラウス」

「……」

 何か言おうとして、声が出ない。

「いろいろして、すまなかったな、クラウス」

 息の音が激しく、聞き取りづらい。

 ギルベルトは、激しく呻き、目を閉じた。意識を失ったようだ。

「僕のため、ですよね」

 聞こえているとは思えなかった。それでもクラウスはささやき続けた。言わずにはいられない。

「強引にしたのは、裏切り者として、ロッシ達から狙われないようにするためだ。現に同情が集まり、僕はここを出、シェルブルンに戻ることができた。手首のあざを見て……」

……エドゥアルドも、強引な性交であったことを理解してくれた。

「あなたの計略だったのでしょう?」

「違う」

 目を閉じたまま、ギルベルトは言った。

 はっきりとした声だった。

「お前を抱きたかったから、抱いた。愛している、クラウス」

「ギルベルト……」

「殺せるのか? この俺を」

「はい」

「そうか」

ギルベルト微笑んだ。

「少し遅れたけど、これでやっと俺は、仲間たちのところへ行ける。戦争で死んだ戦友たちのもとへ……」

 その遅れた時間に、ギルベルトはクラウスと出会った。彼の命を救い、共に生きた。

 ギルベルトは僅かに顎を上げ、戸棚を指し示した。

「あそこに……毒がある」

 そんなものまで、ギルベルトは用意していたのだ。クラウスに、少しの負担もかけまいと。

「あれを、……飲ませてくれるだけ、で、いい。そうしたら俺は、安らかに……死ね、る」

 頭の中が、白く発光した。操り人形のように、クラウスは、戸棚へ向かった。

 毒の壜は、すぐにわかった。うまく動こうとしない指で、なんとかそれを掴む。

 ……落としてはいけない。落としたら、壜が割れてしまう。だから絶対、落としてはダメだ。

 それだけを考え、ギルベルトのところまで戻った。

 「クラウス」

 微かに笑った。

 恐ろしい痛みの中で、まだ笑うことのできる強靭な精神力に、クラウスは戦いた。

 しかし彼はもはや、体力を使い果たしていた。

 身を苛む激しい苦痛の中、クラウスを見つめる。淡い水色の瞳が、せかすように揺れた。

 震える手で、クラウスは壜の栓を抜いた。


 ……やらなければ。

 ……やり遂げなければ。


 ギルベルトの上半身を、僅かに起こす。恐ろしい獣のような声で、ギルベルトが呻いた。胸から大量の血が噴き出し、テーブルを汚した。

「これは、救済だ。クラウス。決して、後悔してはならない」

 突如、大きな声で、ギルベルトは叫んだ。

 クラウスの全身に震えが走った。壜を、ギルベルトの口に当てる。

 何も考えなかった。

 ゆっくりと、傾けた。



 エドゥアルドは起きていた。

 クッションを重ねて、上半身を支えている。目が潤み、頬が赤い。

「どこへ行ってたんだ、クラウス」

彼は不機嫌だった。

「昼間、メリッサと主任司祭が来たぞ。……明日、最後の秘跡を受けることになった。断り切れなかった。けど、もしもお前がいてくれたなら、」

「……」


 最後の秘跡を受けることになって、エドゥアルドは動転していた。いよいよ自分は死に瀕している。客観的にその事実を把握したのだ。

 覚悟はしていた。でも彼はまだ、若かった。ひどく動揺していた。

 心の揺れは攻撃となって、たったひとり、甘えることのできる相手へ向かう。クラウスの顔を見るなり、甘えは、わかりやすい疑惑へと姿を変えた。

「まさかお前、ギルベルト・ロレンスの所へ行ってたのか?」

「……」

 かすかに、クラウスは頷いた。

 エドゥアルドは、激高した。怒りのあまり声が震える。

「お前……、僕が死にかけているというのに、お前ってやつは……」

 クラウスが目を上げた。蒼白な顔をしている。彼は、真正面からエドゥアルドを見据えた。

「ギルベルトは死にました」

「なんだって!」

「ギルベルト・ロレンスは死にました」

 機械仕掛けのように同じ言葉を繰り返す。エドゥアルドは絶句した。

「死んだって、……」

「ええ、僕が殺しました」

 不意に、クラウスの顔から、無表情という仮面が剥がれ落ちた。

 ベッドに近づいてくる。

 病床の、エドゥアルドの襟首を掴んだ。ぐいと引いて、顔を近づける。

「だから、あなたにもできますね。この僕にできたんだ。あなたにできないわけがない」

ふっと笑みを浮かべた。

「まだずっと先のことだ。それに、出来なくたって構わない。とにかく僕は、貴方のゲシェンクになります」









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