第54話 ……ヤりたい


 宮廷の人たちが、次々に見舞いに訪れた。

 中でもメリッサ大公妃は、一時間以上もの時間を、エドゥアルドと二人きりで過ごした。

 病室から出てきた時、彼女は泣いていた。


 次に部屋に入ったディートリッヒ伯爵は、絶句した。プリンスの、彼の大事な教え子の頬に、赤い線が鈍く浮き出ている。

 ……いよいよ、末期だ。

 大変なショックを受けた。ディートリッヒは、一言も発することができぬまま、教え子の顔を眺め続けた。



 「冷たい水をくれ」

 見舞客の訪れが途絶えると、エドゥアルドは言った。

 壁にはりついていた影が、滑り寄ってきた。優しく力強い手が、エドゥアルドの背を抱いて起こした。

 口元に、厚手の陶器が当てられる。

「これ、なまぬるいよ。冷たい水が欲しいんだ」

「冷たいものは、体に毒です」

「そうか……?」

「あなたは、回復なさるのです。絶対に、絶対に。だから、お体に無用の刺激を与えてはいけません」

「……お前がそう言うのなら」

 エドゥアルドは、白湯を口に含んだ。

 多くを飲むことはできなかった。影は悲しそうに器とプリンスを見比べ、俯いてしまった。

 「秘跡を受けるように言われた」

かすれた声で、エドゥアルドは言った。

「メリッサに。最期の秘跡を受けるようにと。彼女は、主任司祭に言われて、僕のところに来たんだ」

 影……クラウスの顔が、青ざめた。

 最期の秘跡。

 それは、ウィスタリアの宗教で、人の死に際して行われる儀式である。天国での安寧と、来るべき復活を祈って行われる。

 「早すぎます!」

クラウスは叫んだ。

「あなたはまだ、死にません!」

「そうだ、クラウス。僕は、まだ死なない」

エドゥアルドは微笑んだ。

「秘跡は、だから、断った。メリッサは明日、司祭と二人で来ると言った」

 説得に来るのだ。ちゃんと、秘跡を受けるように、と。

 秘跡を受けずに死んだ者の末路……それは、恐ろしいものだとされていた。地獄に落ち、復活も望めない。

 秘跡を受けさせる。

 とりもなおさずそれは、エドゥアルドの病状が、絶望的であることを物語っていた。

「殿下……」

「何か楽しい話をしてくれ」

 エドゥアルドが遮る。なりふり構わず、クラウスは詰め寄った。

「私の血を、どうか召してください」

「その話はもう、終わった」

「終わっていません。何度でも言います。時間がないのです。どうか私の血を……」

「だから、他の話を」

「他の話をしている余裕などございません!」

「せっかくお前といるんだ。明るくて楽しい話で、笑わせてくれ」

「できません」

「人の優しさとか気高さとか、……愛に関する話がいい」

「強情っぱり!」

不意にクラウスが叫んだ。

「強情はお前だ、クラウス」

穏やかにエドゥアルドが返す。

「いやなものはいやなんだ。できないことはできない。僕にお前は、殺せない」

「ずっと先の話です。今お考えになることではありません」

「必ず来る未来だ。考えないなんてことはできない。はっきり言っておく。愛する人をこの手にかけることは、僕にはできない」

 ……愛する人。

 クラウスの胸が震えた。

「いいんです。できないのなら、殺してくれなくていい!」

 とうとう、彼は口にした。ギルベルトと同じことを。

「僕は……僕だって耐えてみせる。不死なんか、怖くない」

 悲しい顔で、エドゥアルドは首を横に振った。

「お前に不死の苦しみを与えることを、僕は望まない。それに、僕は、どう考えても……」

「……?」

クラウスが首を傾げる。

「僕は、お前に守護される立場にしか、なることができないんだ」

「それで、いいじゃないですか」

「いいや。それでは、ダメなんだ」

「僕じゃ、ダメなんですか?」

「違うよ、クラウス。それじゃ、……だって、勝てないから」

「勝つ? 誰に?」

「……わからなくていい。とにかく、お前は、間違っている」

「間違っているのは、あなただ!」

「もうやめよう」

不意にエドゥアルドは語調を変えた。

「本当に。何か、楽しい話を。頼む」

「……」

「な。お願いだから」


 「……馬に乗ったあなたを見ました」

懸命に心を落ち着け、クラウスは話し始める。

「白いズボンに青い上着。腰に三日月型の剣を帯び、双頭の竜の旗の下、金色の髪が輝いて見えました」

「閲兵式に来てたのか!」

エドゥアルドは頭を抱えた。

「今まで黙っているなんて。ひどいな、クラウス。僕、かっこ悪かっただろ?」

「最高に素敵な騎士でした。凛々しくてハンサムで。あれが私のプリンスです。誰かに自慢したくて、しようがなかった」

「もう、止めてくれ」

熱ではない赤みが、エドゥアルドの頬に浮いた。

「僕は、ろくに号令の声も出せなくて、」

「私の血を取り込んでください。そして、あなた本来のお声で、勇ましく、敬礼! 奉げ筒! と叫んで下さい」

エドゥアルドは答えなかった。


「……僕も、話していいか?」

暫くして彼は言った。

「はい」

「天敵の話をしよう」

「天敵?」

「そうだ。あのね。ギルベルトは、アルベルク将軍に似ている。僕からお母さまを取り上げた、あの護衛官に」

 ギルベルトとアルベルク。ひたすら避けていたふたつの名を、エドゥアルドが口にする。そのことは、クラウスを戸惑わせた。

 エドゥアルドは続けた。

「傲慢で偉そうで、腹が立つほど不埒で。でも、ある種の魅力があるんだ。それは否定できない」

目線を下げた。

「お前の、その、手、」

袖を下したままのクラウスの手首を指し示した。

宮殿ここに戻ってきてから、お前は決して、袖を上げようとしない」

「これは、」

言いかけたクラウスを、エドゥアルドは遮った。

「あの日、僕は気がついたんだ。あの、……最後にプラクターの森へ行った日」

「最後じゃありません! これからも、何度も、何度も、行くんです! 二人で。今度は馬を並べて!」

悲鳴のような金切り声をクラウスがあげる。宥めるようにエドゥアルドは頷いた。

「うん。森へ行く前ね、僕は気がついた。お前の手首。それ、ひどいあざだな。……無理やりだったんだろ?」

「え……」

一瞬、何のことかわからなかった。

 森へ行く前……。あの大雨のあった日。あの日、エドゥアルドは、クラウスの手を取った。強引に袖口から手を差し入れ……、

 そんな彼に、クラウスは、ギルベルトとのことを告げた……。


 ぽかんとするクラウスに、エドゥアルドは微笑んでみせた。

「わかってたんだ、僕には。無理やりやられたんだ、って。お前は、ひどく抵抗した。今でも手首の、縄の跡が消えないくらい。うぬぼれていいか? それは、僕のためだ。僕のためにお前は、捨て身になって抵抗した。はっきりとわかった。それなのに……やっぱり、どうしても許すことができなかった。お前の体を、他の男が自由にしたなんて。あのギルベルトが!」


「僕がいけないんです……」

クラウスの口からするりと出た言葉に、エドゥアルドは目を怒らせた。

「ギルベルトを庇うな!」

 きつい声だった。クラウスは息を飲んだ。

 うってかわって、弱々しい声で続ける。

「いやだよ、クラウス。僕を一人にしたら。お願いだから、そばにいさせて欲しい。ずっとずっと、いつまでも」

「もちろんです」

クラウスは叫んだ。

「そばにいたいのは、僕の方だ。だから、お願いだから、僕のこの血を……あなたが死んだら、僕も生きていかれない。だから……」

「いいや。お前は死ねない」

 表情をなくした笑顔を、エドゥアルドは浮かべた。エドゥアルドの、こんな無機質な笑顔を、クラウスは初めて見た。

「だってお前は、を殺さなくちゃならないから。その大仕事が、まだ残っている。……がいれば大丈夫だ。お前は生きていけるよ、クラウス」

 ギルベルトのことを言っているのだと、すぐにわかった。

「いやだ! いやだいやだいやだ!」

身を揉んで、クラウスは泣き喚いた。

「そんなのいやだ! あなたがいなかったら、僕はもう生きていたってしょうがないんだ。どうしてそれを、わかってくれないんです?」

「クラウス……子どものようだな」

 エドゥアルドが苦笑した。豊かな表情が戻ってきている。でもそれは、とても悲しそうだ。

「本当にお前は、僕より年上なのか? そんな風にダダをこねるなんて。ダメじゃないか、クラウス」

「ダメでいい。ダメでいいじゃないですか……僕は、あなたがいないと、ダメなんです。元々ダメだったけど、もっともっと、ダメになるんです……」

 エドゥアルドが手を伸ばした。精一杯の力で、その頭を掻き抱く。

「ああ……ヤりたいよ。お前を抱きたい。お前、ひどいよ。水車小屋の中で、あんな風に僕を抱くなんて。全部脱いで、肌を晒してさ。僕はひどく熱があったのに」

「……」

 クラウスには、下心はなかった。ただひたすら、熱を下げたい一心だった。水をかけ、冷えた体なら、高熱を冷ますことができるかもしれないと思ったのだ。


 「今だって、どんなにお前とヤりたいか! その衣服を脱がし、滑らかな白い肌をこの手で思いっきり汚したい。入っていきたいんだ、お前の中へ。熱く、吸いつくような、その……。何回も何十回も。……もっともっと、お前を抱きたい……のに……」

「抱いて欲しい」

涙と鼻水でぐずぐずの顔を、クラウスは上げた。

「この体が、どろどろなるまで。あなた自身が、溶けてしまうまで! 二人の体が、溶けてひとつになるまで。何百回も、何万回も」

「欲張りだな」

「はい。欲張りです」

 エドゥアルドは、切なそうな眼をした。

 たまらない罪の意識が、クラウスの全身を駆け抜けた。

「でも、僕は、あなたにふさわしくない。だって、あなたを、う、裏切り……あなた以外の……、だから、殺されたい。他でもないあなたに。それが、僕の本望です」

「そんなことはない!」

「ただあなたの獲物でありたいだけなんだ!」

 激した声に、エドゥアルドが息を飲む。だが彼は負けなかった。静かに言い渡す。

「ダメだ。殺せない。お前は僕の大切な人なんだよ。ずっとずっと、最初から」

「だったら、生きてください。生きて、あなたであり続けてください」

「もちろんそのつもりだ」

きっぱりとエドゥアルドは言った。

「お前がそばにいてくれるんだもの。病なんかで、僕が死ぬわけがない」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る