第54話 ……ヤりたい
宮廷の人たちが、次々に見舞いに訪れた。
中でもメリッサ大公妃は、一時間以上もの時間を、エドゥアルドと二人きりで過ごした。
病室から出てきた時、彼女は泣いていた。
次に部屋に入ったディートリッヒ伯爵は、絶句した。プリンスの、彼の大事な教え子の頬に、赤い線が鈍く浮き出ている。
……いよいよ、末期だ。
大変なショックを受けた。ディートリッヒは、一言も発することができぬまま、教え子の顔を眺め続けた。
◇
「冷たい水をくれ」
見舞客の訪れが途絶えると、エドゥアルドは言った。
壁にはりついていた影が、滑り寄ってきた。優しく力強い手が、エドゥアルドの背を抱いて起こした。
口元に、厚手の陶器が当てられる。
「これ、なまぬるいよ。冷たい水が欲しいんだ」
「冷たいものは、体に毒です」
「そうか……?」
「あなたは、回復なさるのです。絶対に、絶対に。だから、お体に無用の刺激を与えてはいけません」
「……お前がそう言うのなら」
エドゥアルドは、白湯を口に含んだ。
多くを飲むことはできなかった。影は悲しそうに器とプリンスを見比べ、俯いてしまった。
「秘跡を受けるように言われた」
かすれた声で、エドゥアルドは言った。
「メリッサに。最期の秘跡を受けるようにと。彼女は、主任司祭に言われて、僕のところに来たんだ」
影……クラウスの顔が、青ざめた。
最期の秘跡。
それは、ウィスタリアの宗教で、人の死に際して行われる儀式である。天国での安寧と、来るべき復活を祈って行われる。
「早すぎます!」
クラウスは叫んだ。
「あなたはまだ、死にません!」
「そうだ、クラウス。僕は、まだ死なない」
エドゥアルドは微笑んだ。
「秘跡は、だから、断った。メリッサは明日、司祭と二人で来ると言った」
説得に来るのだ。ちゃんと、秘跡を受けるように、と。
秘跡を受けずに死んだ者の末路……それは、恐ろしいものだとされていた。地獄に落ち、復活も望めない。
秘跡を受けさせる。
とりもなおさずそれは、エドゥアルドの病状が、絶望的であることを物語っていた。
「殿下……」
「何か楽しい話をしてくれ」
エドゥアルドが遮る。なりふり構わず、クラウスは詰め寄った。
「私の血を、どうか召してください」
「その話はもう、終わった」
「終わっていません。何度でも言います。時間がないのです。どうか私の血を……」
「だから、他の話を」
「他の話をしている余裕などございません!」
「せっかくお前といるんだ。明るくて楽しい話で、笑わせてくれ」
「できません」
「人の優しさとか気高さとか、……愛に関する話がいい」
「強情っぱり!」
不意にクラウスが叫んだ。
「強情はお前だ、クラウス」
穏やかにエドゥアルドが返す。
「いやなものはいやなんだ。できないことはできない。僕にお前は、殺せない」
「ずっと先の話です。今お考えになることではありません」
「必ず来る未来だ。考えないなんてことはできない。はっきり言っておく。愛する人をこの手にかけることは、僕にはできない」
……愛する人。
クラウスの胸が震えた。
「いいんです。できないのなら、殺してくれなくていい!」
とうとう、彼は口にした。ギルベルトと同じことを。
「僕は……僕だって耐えてみせる。不死なんか、怖くない」
悲しい顔で、エドゥアルドは首を横に振った。
「お前に不死の苦しみを与えることを、僕は望まない。それに、僕は、どう考えても……」
「……?」
クラウスが首を傾げる。
「僕は、お前に守護される立場にしか、なることができないんだ」
「それで、いいじゃないですか」
「いいや。それでは、ダメなんだ」
「僕じゃ、ダメなんですか?」
「違うよ、クラウス。それじゃ、……だって、勝てないから」
「勝つ? 誰に?」
「……わからなくていい。とにかく、お前は、間違っている」
「間違っているのは、あなただ!」
「もうやめよう」
不意にエドゥアルドは語調を変えた。
「本当に。何か、楽しい話を。頼む」
「……」
「な。お願いだから」
「……馬に乗ったあなたを見ました」
懸命に心を落ち着け、クラウスは話し始める。
「白いズボンに青い上着。腰に三日月型の剣を帯び、双頭の竜の旗の下、金色の髪が輝いて見えました」
「閲兵式に来てたのか!」
エドゥアルドは頭を抱えた。
「今まで黙っているなんて。ひどいな、クラウス。僕、かっこ悪かっただろ?」
「最高に素敵な騎士でした。凛々しくてハンサムで。あれが私のプリンスです。誰かに自慢したくて、しようがなかった」
「もう、止めてくれ」
熱ではない赤みが、エドゥアルドの頬に浮いた。
「僕は、ろくに号令の声も出せなくて、」
「私の血を取り込んでください。そして、あなた本来のお声で、勇ましく、敬礼! 奉げ筒! と叫んで下さい」
エドゥアルドは答えなかった。
「……僕も、話していいか?」
暫くして彼は言った。
「はい」
「天敵の話をしよう」
「天敵?」
「そうだ。あのね。ギルベルトは、アルベルク将軍に似ている。僕からお母さまを取り上げた、あの護衛官に」
ギルベルトとアルベルク。ひたすら避けていたふたつの名を、エドゥアルドが口にする。そのことは、クラウスを戸惑わせた。
エドゥアルドは続けた。
「傲慢で偉そうで、腹が立つほど不埒で。でも、ある種の魅力があるんだ。それは否定できない」
目線を下げた。
「お前の、その、手、」
袖を下したままのクラウスの手首を指し示した。
「
「これは、」
言いかけたクラウスを、エドゥアルドは遮った。
「あの日、僕は気がついたんだ。あの、……最後にプラクターの森へ行った日」
「最後じゃありません! これからも、何度も、何度も、行くんです! 二人で。今度は馬を並べて!」
悲鳴のような金切り声をクラウスがあげる。宥めるようにエドゥアルドは頷いた。
「うん。森へ行く前ね、僕は気がついた。お前の手首。それ、ひどいあざだな。……無理やりだったんだろ?」
「え……」
一瞬、何のことかわからなかった。
森へ行く前……。あの大雨のあった日。あの日、エドゥアルドは、クラウスの手を取った。強引に袖口から手を差し入れ……、
そんな彼に、クラウスは、ギルベルトとのことを告げた……。
ぽかんとするクラウスに、エドゥアルドは微笑んでみせた。
「わかってたんだ、僕には。無理やりやられたんだ、って。お前は、ひどく抵抗した。今でも手首の、縄の跡が消えないくらい。うぬぼれていいか? それは、僕のためだ。僕のためにお前は、捨て身になって抵抗した。はっきりとわかった。それなのに……やっぱり、どうしても許すことができなかった。お前の体を、他の男が自由にしたなんて。あのギルベルトが!」
「僕がいけないんです……」
クラウスの口からするりと出た言葉に、エドゥアルドは目を怒らせた。
「ギルベルトを庇うな!」
きつい声だった。クラウスは息を飲んだ。
うってかわって、弱々しい声で続ける。
「いやだよ、クラウス。僕を一人にしたら。お願いだから、そばにいさせて欲しい。ずっとずっと、いつまでも」
「もちろんです」
クラウスは叫んだ。
「そばにいたいのは、僕の方だ。だから、お願いだから、僕のこの血を……あなたが死んだら、僕も生きていかれない。だから……」
「いいや。お前は死ねない」
表情をなくした笑顔を、エドゥアルドは浮かべた。エドゥアルドの、こんな無機質な笑顔を、クラウスは初めて見た。
「だってお前は、彼を殺さなくちゃならないから。その大仕事が、まだ残っている。……彼がいれば大丈夫だ。お前は生きていけるよ、クラウス」
ギルベルトのことを言っているのだと、すぐにわかった。
「いやだ! いやだいやだいやだ!」
身を揉んで、クラウスは泣き喚いた。
「そんなのいやだ! あなたがいなかったら、僕はもう生きていたってしょうがないんだ。どうしてそれを、わかってくれないんです?」
「クラウス……子どものようだな」
エドゥアルドが苦笑した。豊かな表情が戻ってきている。でもそれは、とても悲しそうだ。
「本当にお前は、僕より年上なのか? そんな風にダダをこねるなんて。ダメじゃないか、クラウス」
「ダメでいい。ダメでいいじゃないですか……僕は、あなたがいないと、ダメなんです。元々ダメだったけど、もっともっと、ダメになるんです……」
エドゥアルドが手を伸ばした。精一杯の力で、その頭を掻き抱く。
「ああ……ヤりたいよ。お前を抱きたい。お前、ひどいよ。水車小屋の中で、あんな風に僕を抱くなんて。全部脱いで、肌を晒してさ。僕はひどく熱があったのに」
「……」
クラウスには、下心はなかった。ただひたすら、熱を下げたい一心だった。水をかけ、冷えた体なら、高熱を冷ますことができるかもしれないと思ったのだ。
「今だって、どんなにお前とヤりたいか! その衣服を脱がし、滑らかな白い肌をこの手で思いっきり汚したい。入っていきたいんだ、お前の中へ。熱く、吸いつくような、その……。何回も何十回も。……もっともっと、お前を抱きたい……のに……」
「抱いて欲しい」
涙と鼻水でぐずぐずの顔を、クラウスは上げた。
「この体が、どろどろなるまで。あなた自身が、溶けてしまうまで! 二人の体が、溶けてひとつになるまで。何百回も、何万回も」
「欲張りだな」
「はい。欲張りです」
エドゥアルドは、切なそうな眼をした。
たまらない罪の意識が、クラウスの全身を駆け抜けた。
「でも、僕は、あなたにふさわしくない。だって、あなたを、う、裏切り……あなた以外の……、だから、殺されたい。他でもないあなたに。それが、僕の本望です」
「そんなことはない!」
「ただあなたの獲物でありたいだけなんだ!」
激した声に、エドゥアルドが息を飲む。だが彼は負けなかった。静かに言い渡す。
「ダメだ。殺せない。お前は僕の大切な人なんだよ。ずっとずっと、最初から」
「だったら、生きてください。生きて、あなたであり続けてください」
「もちろんそのつもりだ」
きっぱりとエドゥアルドは言った。
「お前がそばにいてくれるんだもの。病なんかで、僕が死ぬわけがない」
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