第53話 悪魔・天使・精霊 2


 雨の音が、遠く聞こえる。がったんがったんと、外から規則正しく壁を伝わる音は、水車の回る音か。

 エドゥアルドは目を開けた。

 さっき、熱の合間の朧な闇に、クラウスの影を見た気がする。その声を聞いた気がする。

 急いで隣を見た。

 誰もいなかった。

 やっぱりあれは、夢だったのか。

 もう何度、自分は彼の夢を見たことか。宮殿から姿を消した彼を、探しにも行けない……。

 失望と諦めのないまぜになったまま、目を閉じた。

 頭が締め付けられるように痛み、疲れて苦しいのに眠ることができない。

 誰かが部屋の中へ入ってきた。足音を忍ばせ近づいてくると、エドゥアルドの隣に滑り込んだ。

 強い力で、彼を引き寄せる。

 ひんやりとした肌が、服の上から抱きしめてきた。

 ……冷たい。

 その冷たさが、熱のある体に心地いい。

 自分の熱を吸い込み、相手の肌が、温まっていく。

 いい匂いがした。

 ……ああこれは、クラウスの匂い……。

 すうーっと、眠りに落ちた。



 雨はだいぶ小降りになったようだ。

 浅い眠りが、隣に寝ていた人が起き上がる気配で目が覚めた。

「行かないで」

 夢見心地で囁いた。

 舌がもつれ、うまく言葉にならなかった。その人は外へ出ていった。

 はっと目が覚めた。

 寝床の隣は、空だった。

 ……また、置いてかれた。

 苦い澱のように湧き上がって来る思い。

 その時、窓の外から水の跳ね返る音が聞こえた。

 雨の音とは違う。

 エドゥアルドは起き上がった。壁に縋って立ち、窓から外を見た。

 薄明りの中、誰かが川の水を浴びていた。

 川べりに屈み、小さな手桶で水をくむ。流れるような動作でそれを、肩からわが身に浴びせかける。何杯も何杯も。

 音もなく降り注ぐ雨が、全てを静かに湿らせていた。

 その中で、飽くことなく川の水を浴び続けている。ほっそりとした、だが、鋼のように強靭な姿。

 まるで、精霊のようだった。

 エドゥアルドは、その場に崩れ落ちた。

 積み重ねられた藁が、熱のある体を柔らかく受け止める。


 やがて、小屋の扉が開く音がした。

 階段を上り、クラウスが姿を現した。

 ごそごそと、丸めた布で、体を拭いている。

 そのまま藁の寝床へ近づいてきた。

 エドゥアルドに密着して身を横たえ、背中に手を回した。

 ひんやりと冷たい、水の気配がした。


「クラウス……」


 つぶやくと、後頭部に手が回った。

 エドゥアルドの顔を胸に寄せ、優しく頭を撫でる。

 いつまでもいつまでも、彼が眠りに落ちるまで、撫で続けた。


 宮殿に戻ったエドゥアルドは、翌日、喀血した。



 「いよいよか」

 メトフェッセル宰相はつぶやいた。

 南の荘園にいる母親のマリーゼには、ずっとエドゥアルドの症状は落ち着いている、と報告し続けてきた。

 おせっかいな家庭教師が、プリンス重篤につき、至急帰ってくるようにと、ひっきりなしに手紙を書いていることは知っている。

 情報が洩れ、ウィルンではやじ馬たちが、プリンス危篤の噂に興じている。その噂が、知人を通じてマリーゼの耳に入っていた。

 問い合わせてきたマリーゼに、メトフェッセルは、プリンスなら大丈夫だ、治療に最善を尽くすことを保証する、とまで書き送った。

 言葉通り彼は、新しく医師を雇った。有名な医学博士だ。彼は、メトフェッセルに恩義を感じていた。

 彼の仕事は、マリーゼに報告書を書くことだった。プリンスの熱は下がった、咳も今まで通りだ、内親王に於かれては、どうか、無責任な噂に耳を貸されませぬよう、と、医学博士は、彼女に書き送った。


 一向に帰ってこない母親に、ディートリッヒ先生は激怒した。

 「症状の深刻さを考えられよ。医師の報告には、信頼性が欠如している。私をお疑いなら、信頼できる人をウィルンに派遣して、確かめてほしい」

 矢継ぎ早に、彼は、早馬を飛ばした。

 「率直に申し上げるが、プリンスは危機的な状況にある。もし、彼が生きているうちに会いたいとお考えなら……」


 マリーゼがなかなか帰ってこなかったのは、ひとつには、息子に対する罪悪感からだった。

 エドゥアルドに内緒で、子をなしていたこと。……彼の父、オーディン・マークスの生存中に。そして、極秘に結婚までしていたこと。

 エドゥアルドがそれを知ったのは、新しい夫、アルベルク将軍が亡くなった時だ。

 ……「母上のお苦しみを考えますと、私の苦しみは倍加します。アルベルク将軍は、傑出した人柄の、素晴らしい方でした」

 案に相違して、エドゥアルドからは、母を労わる優しい手紙が書き送られていた。


 マリーゼが、息子に対して気遅れを感じていたことは事実だ。ディートリッヒ伯爵からの度重なる催促に対して、彼女が重い腰を上げなかったのは、そうした事情もあった。

 それに、メトフェッセルが新たに雇った医師の報告書が拍車をかけた。


 ……だが、さすがに、そろそろ帰ってくるだろう。

 ……もはや、手遅れであろうが。

 メトフェッセルは、卓上のベルを取り上げた。

 ベルに答えて、事務官が現れた。

「ユートパクスにいる我が国大使に伝えよ」

 ユートパクスのルマン王朝への国民の支持は、落ちていく一方だ。失望した民衆は、新たに台頭してきた軍部と結びつつあった。彼らは、依然として、「オーディン・マークスの息子」に期待していた。


 在ユートパクス大使に向けての伝言を、メトフェッセルはそらんじた。

「すでにプリンスは亡くなったも同然である。今、彼は、テュベルクルーズ病の末期にある。年齢を問わずに襲うこの病気に罹る人は、あっという間に亡くなる。ロートリンゲン公爵は、19歳だった……このように、声明を出すのだ」

 雷に打たれたように、事務官は立ち竦んだ。だがすぐに頭を下げ、宰相執務室を出て行った。


 誰もいなくなった部屋で、メトフェッセルは一人、祝杯を挙げた。これで、ユアロップ大陸の平和は保たれる。 選ばれた賢明な為政者の元、真の平和が。

 愚かな民衆は、自分たちだけで完結する、小さな幸せを楽しめばよい。

 前世紀末のような革命騒ぎは、二度と、起こしてはならない。


 赤いワインが、血のように揺れる。


 ただひとつの懸念。

 黒髪の青年の生存に関する情報は、未だない。

 末期のテュベルクルーズ病であるプリンスを救える、たった一人の人間。クラウス・フィツェックは、ふっつりとその姿を消していた。

 或いは、本当に彼は、死んだのかもしれない。

 だが、油断はできない。プリンスの息の根が完全に止まるまで、決して、気を抜かないことだ。





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