第52話 悪魔・天使・精霊 1
真っ先に向かった丘の上の砲台のところには、エドゥアルドの姿はなかった。雨に打たれ、白くしぶく砲台を後に、クラウスは丘を駆け下りた。
……どこだ。
……プリンス、どこへ?
病の身でこんな雨に打たれたら、命に関わる。一刻も早く見つけ出し、安全な場所へ連れ帰らねばならない。
なぜ、自分は、あのタイミングで、ギルベルトとのことを口にしてしまったのか。返す返すも悔やまれた。いつかは、告白しなければならないことだ。だが、彼がもっと健康を取り戻すまで、なぜ、待てなかったのか。
だが、クラウスは、限界だった。
自分に寄せられる全幅の信頼。何よりも誰よりも大切にされているという自覚。全身を包み込んでくるような、無私の愛。
もう、黙っていることはできなかった。
……あんなにきれいな心で自分を愛してくれる人を、
……あんなに純粋で、汚れのない人を、
……自分は、裏切った。
許してくれなくても、構わなかった。それどころか、許しは、恐ろしかった。
彼に許されたら、自分が壊れてしまう気がする。きっと天地の道理が崩れ、全てが瓦解してしまうだろう。
そう考えると、体が震えるほど、恐ろしかった。
謝罪ではない。クラウスは、断罪してほしかった。醜い自分を裁き、その上で、彼に審判を下してほしかったのだ。
自分に、それほどの価値があるのか。自分は、彼にふさわしい存在か。
捨てられたってかまわない。殺されたっていい。
ただ、彼が生き延びてくれるなら。
自分の血を糧とし、自分を踏みつけて、生き延びてほしい。
彼にとって自分は、それだけの存在だ。愚かな執着を捨て、彼にふさわしい人生を選択してほしいのだ。
◇
雨に濡れ、坂道で転び、クラウスは走り続けた。
突然、目もくらむような光が、空をじぐざぐに切り裂いた。続いて、どーんという、耳をつんざくような音。
雷だ。近い。
……プリンス。
クラウスは、何も考えられなくなった。一刻も早くプリンスに会いたい。その無事な姿を見たい、という他は。
……「約束だ、クラウス」
不意に、耳元でプリンスの声が蘇った。
……そうだ。プラクターの森だ!
一緒に行く約束をした。二人で一緒に……。
丘を下り、クラウスは、森に向けて走り始めた。暗い森の中、少しだけ雨脚が鈍ったように感じられた。
楡の大樹を回り込んだ時、。大きな枝から、受け止めきれなくなった大量の雨水が落ちてきた。樹上にたまっていた水がクラウスを直撃した。口と鼻が塞がれ、窒息しそうになった。
このどこかにプリンスがいるかと思うと、ぞっとした。
水なぞに構っている暇はない。ぶるんと頭を振って、再び走り出す。ぬかるんだ道を、時々滑って転びながら、走っていく。
遠くに、物影が見えた。大きな木に寄せるようにして止まっている。
宮殿の馬車だった。
「プリンスは!?」
思わず叫ぶと、ひっという悲鳴が聞こえた。
「ああ……モーデル男爵。そんなずぶ濡れで顔まで泥まみれになって、……森の悪魔かと思いました」
怯えた顔の御者が顔を出した。
「殿下なら、この先の水車小屋に」
「水車小屋だって!?」
「ご気分が優れなくなって、水車小屋でお休みになっているうちに、雨が降り出して……」
見る間に川は増水し、小屋から出られなくなったという。助けを呼ぶ為に、御者はひとりで川を渡り、馬車のところまで戻った。なんとかここまで走らせてきたが、さきほどの雷で馬が怯えてしまい、立ち往生してしまった……。
「雷ならもう来ない。一刻も早く、助けを呼んできてくれ」
再び走り出しながらクラウスは叫んだ。
プリンスの居場所は分かった。少しの間も惜しい。
彼が走り出した途端、空が、ぴかりと光った。直後、森の木々を揺るがし、大音響が轟いた。
川から溢れた水が、水車小屋に続く橋を、水浸しにしていた。足首まで水につかりながら、欄干を頼りに、クラウスは、進んでいった。流れてきた木っ端が足にぶつかり、危うく倒れそうになった。それで、意外と、水の流れが速いことに気が付いた。
転んだら、危険だ。川に落ちて流されてしまう。
それでも、足を緩めることはしなかった。プリンスが、心配だ。少しでも早く、彼のもとへ辿り着きたい。
プラクターの水車小屋は、二階建てだった。今にも崩れそうな古い石組みの建物の、二階部分から、わずかな明かりが漏れている。
……あそこに、プリンスが。
何も怖くなかった。まるで天の底を切って落としたかのような驟雨の中、クラウスは明かりを目指して、まっすぐに進んだ。
水車小屋の、一階は水浸しだった。軸を外された臼の間を通り、急な階段を注意深く登っていく。
水は、上階にまでは届いていなかった。
部屋の真ん中に蹲って、エドゥアルドはいた。無事だし、見たとところ、ずぶ濡れでもない。
クラウスの全身から力が抜けた。
足音を聞いて、エドゥアルドが、のろのろと顔を上げた。彼がひどく赤い顔をしていることに、クラウスは気づいた。熱があるのだ。
「……夢?」
物憂げに、彼は尋ねた。
「違います、殿下」
……「出て行ってくれないか、クラウス」
宮殿で言われた言葉が、もう何十回目だろうか、脳裏を過る。
それでも、彼は、エドゥアルドに近づいて行った。
熱のある顔が微笑んだ。
「そうか。僕は、天使が来たのかと思ったよ。とうとう、僕を迎えに、」
「さっきは悪魔と間違えられましたよ」
彼を遮り、クラウスは言った。
素早く室内を見回す。
狭い二階部分は、挽いた粉を貯蔵しておくための貯蔵庫であるらしかった。建物が古いわりには雨漏りもしておらず、室内は乾いていた。
ひとまず、ほっとした。
「もうすぐ迎えが参ります。それまでの辛抱です」
部屋の隅に、藁の束が積み上げてあるのに気が付いた。せっせとそれらを抱えて運ぶ。床板の上に敷き重ね始めた。
体を動かしている方が落ち着く。
上着を脱ごうとして、クラウスは、自分のそれが、ひどく濡れていることに気が付いた。水が絞れるほどだ。おまけに泥だらけだった。
……使えない。
上着を諦め、きょろきょろと辺りを見回す。空の麻袋をいくつか見つけた。藁の上に広げる。
「こちらへいらしてください。横になって、少しでもお楽に」
エドゥアルドは頷いた。だが、一向に動こうとしない。立ち上がるほどの力も残されていないのだと、クラウスは気が付いた。
役立たずの上着を脱ぎ捨てた。シャツも濡れていたので、それも脱ぐ。下着はいくらかましだった。丸めて自分の体を拭った。
「失礼致します」
抱き上げた体は、驚くほど熱かった。
エドゥアルドは、クラウスに素直に抱かれている。首筋にしがみつき、目を閉じた。
「初めてだよ。こうして誰かにだっこしてもらったの」
たゆたうような声がそう言った。
息が、詰りそうだった。
なぜこれほどまでに、この人は孤独なのか。この美しく壊れやすい、優しく繊細な魂を、なぜ神は、たった一人でこの世に置き去りにされ給うたのか。
大事な荷物を、そっと藁の布団に下す。幸い、エドゥアルドの外套は濡れてはいなかった。丁寧に脱がし、横たえたエドゥアルドに掛けた。
「寒い」
目を閉じたまま、エドゥアルドがつぶやいた。
「クラウス、寒いよ」
「ひどいお熱です、殿下」
顔をよせ、クラウスは囁いた。
「迎えが来るまで、少しお眠り下さい。体力を少しでも回復させて下さい」
「寒くて眠れない」
見れば、歯ががたがたいうほど震えている。
「ここへ来て、クラウス」
「でも……」
「お願いだから」
拒むことはできなかった。
クラウスは濡れたズボンを脱ぎ捨てた。
静かに、エドゥアルドの隣へ潜り込んだ。
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