第51話 知りたくない


 「また、お残しになったのか」

プリンスの部屋から下げられた手つかずの皿を見て、料理長はため息をついた。

「ただでさえ、弱っておられるのに、これでは……」

「生臭いにおいがすると、おっしゃっておいででした」

配膳係の少年が言った。

「プリンスはひどく、お怒りで」

 それは、クラウスが、自分の血を混ぜたからだ。配膳係の彼の目をかすめ、少量だけこっそりと混ぜた。

 そのことに気づき、激してエドゥアルドは、皿を遠ざけた。


「生臭い?」

 そうとは知らない料理長は、むっとしたように繰り返した。だがすぐに、悲しそうな顔になった。

「味覚や嗅覚が、常にも増して鋭敏になっておられるのだな。お体もそうだが、心がひどく弱っておられるのだ」

重く湿った息を吐いた。

「なんとおいたわしい……」



 もうこの頃には、エドゥアルドの食事は、ごく僅かになっていた。たとえクラウスの血を口にしたとしても、実際に摂取できる量は、ほんの微かだったろう。蘇らせるには、とても足りない。

 もっと早く、口をこじ開けてでも自分の血を流し込めばよかったとクラウスは悔やんだ。

 ためらったのには、理由がある。

 血を媒介としたゲシェンクとの関係は、一生涯続く。エドゥアルドは、クラウスに守護され、その命を託される。

 それは、重すぎる関係ではないのか?

 エドゥアルドにとってクラウスは、クラウスにとってのギルベルトと、同じ存在になる。

 クラウス自身は、ギルベルトの存在が重いとは思わない。子どもだった自分を生かしてくれたことに感謝している。

 ただ、あの時の自分は、あまりに幼かった。ゲシェンクの意味することを理解せず、そのまま受け容れた。

 今、ギルベルトを殺すことを考えると、体が震える。そこに愛があろうがなかろうが、人を一人殺すのだ。それも、命の恩人を。

 エドゥアルドが拒否して当然だと思う。

 エドゥアルドの重荷になりたくない。だから、彼の意思を尊重してきた。納得して、血の盟約を受け入れて貰いたかった。


 もうひとつ、クラウスの心には重い引っ掛かりがあった。

 ……「あの子は、お前の中のゲシェンクの血を認識した。それを、あの子は愛だと勘違いしている」

 もしギルベルトの言葉が、真実だとしたら? 二人の身分は違い過ぎる。クラウスと違ってエドゥアルドには、結婚という義務がある。それにより、ウィスタリア王家の版図を拡げるのだ。ベルヌ国との縁組は、エドゥアルドが断った。けれど彼の元には、これからも同じような話がたくさん転がり込んでくるだろう。


 ただ、そうした逡巡は、青ざめた顔を見ると、霧消していく。

 彼が求めているのが、ゲシェンクの保護であってもかまわない。彼の気持ちが、本能に根差した偽りの愛であっても構わない。

 この人を死なせたくない。

 理屈ではない。心の底からそう思うのだ。


 病状は危機的だった。医師団は匙を投げ、皇帝に、孫の死が近いことを進言した。

 けれどプリンスは、決して絶望しなかった。いつだって、生き抜く意志で満ち溢れていた。

 青白くやつれた顔に柔らかい微笑を浮かべ、彼はこの上もなく優美だった。この期に及んでも、周囲の人間に対し、礼節を失わなかった。見舞客の訪れが告げられると、ベッドから起き上がり、顔を洗って髪を櫛削り、フロック(昼用の上着)を羽織った。そうした些細なことが、病んだ体にどれほど苦痛であってもだ。

 もう、待てない。

 ここが、ぎりぎりだ。

 ……プリンスにご負担はかけまい。

 クラウスは決意した。

 血を捧げたら、自分は姿を消そう。彼の手で死なせてもらえなくても構わない。たとえ肉体が消滅した後も、苦痛に苛まれる魂となろうとも。その場合は、ただずっと苦しみ続ければいいだけだ。だって、苦痛こそが、自分にはふさわしい。

 ……「おかえり、クラウス」

 姿を変えて帰ってきた自分に、エドゥアルドは、すぐに気がついた。無条件で受け容れてくれた。今も、全身を委ね、信じ切っている。

 もちろん、嬉しかった。だが、それ以上に、苦しい。

 ギルベルトとのことを、なかったことにはできない。エドゥアルドには、厳しい審判を下してほしかった。

 そして、とにかく、彼には生きてほしい。

 計略が必要だ。クラウスにためらいはなかった。どのような手段を用いても、彼に自分の血を飲ませる。



 「プロシュ・オース大使が、任地へ旅立っていかれました」

窓際の花瓶に花を活けながら、クラウスが言う。

「知ってる」

ベッドで本を読んでいたエドゥアルドが答えた。

「彼とは……」

「何? クラウス、聞こえない」

「いえ」

一度挿した花を、クラウスは抜き取った。

「匂いが強うございますね。他の花に変えましょう」

「その花でいいよ。メリッサが持ってきてくれたんだろ?」

 出産を控えた大きなお腹を抱え、彼女は、ちょくちょく見舞いに訪れていた。本当に見舞いだけなのは、プリンスの身の回りに仕える者なら、誰でも知っている。6歳下の孤独なプリンスに、今では彼女は、姉のような感情を抱いていた。

 しかし口さがない連中の中には、お腹の子の父親は、エドゥアルド・ロートリンゲン公だと噂する輩がいた。

 誇り高いメリッサは、我関せずとばかり、知らん顔をしている。否定することさえしなかった。それがいっそう、噂に拍車をかけている。

 あるいはそれは、ベルヌの薔薇と讃えられた彼女の、今に続く、プリンスへの思いなのかもしれない。

 クラウスには、彼女の気持ちまでは否定できない。

 「ですが、薔薇は、香りがきつく、病室向きではありません」

背を向けたまま、クラウスが答える。

「珍しいね、クラウス」

エドゥアルドが本から顔を上げた。

「お前が花とか……服とか調度とか……そういうものに、口を挟むなんて」

「いえ」

 会話が途切れた。

 エドゥアルドは再び、本に戻った。


 最初に口を開いたのは、クラウスだった。

「レティシア姫ですが……分家筋のエルヌ公爵とご婚約なさったそうですよ」

「ああ、それはよかった!」

 本当に嬉しそうな声だった。振り返り、クラウスは眉を吊り上げた。

「よかった? なぜ?」

「エルヌ公は、民衆からとても人気があるんだ。狩猟や釣りにたけ、詩作もなさると聞く。レティシア姫は、きっとお幸せになれるよ」

「……ご自分はどうなんですか? あなたは、エルヌ王家の庇護のもと、ウィルンから出ていくこともできたのに! そうしたら、病気だってぶり返すことはなかったんだ」

「クラウス、お前がいるのに?」

「そうですとも! あなたには、たくさんの未来があった。今だって、たくさんの国が、民が、あなたを求めている。それなのに……なぜ……」

 近寄ってきたクラウスの手を、エドゥアルドは掴んだ。振り放そうとするのを許さず、袖口から指を滑り込ませる。

「大丈夫だよ。僕は、死なない。ずっとお前と一緒にいる」

「それが、ダメだというんです」

小さな声で鋭く、クラウスは叫んだ。

「僕にはそんな、あなたが思ってくださるような価値なんて、ないんです! お願いです。お願いですから、」

エドゥアルドの手を振り放した。

「さっさと僕の血を採って、そしたらすぐに僕を殺して下さい。お願いだから、前へ進んで下さい!」

クラウスの剣幕に、エドゥアルドは眉を寄せた。

「クラウス……どうしたの? お前、変だよ?」

「僕は、あなたが、ひとつひとつ可能性を潰していくのが堪らないんです。あなたには、あなたの人生を生きて欲しい」

「お前と一緒の人生だ」

 静かにエドゥアルドが言った。

「違う! 僕はあなたに、ふさわしくない!」

「それは……」

ためらいながら、エドゥアルドは言った。

「聞くまいと思っていたが……やっぱりお前は……」

「ええ、そうです」

 傲岸に見えるよう願いつつ、クラウスは胸を張った。全身に力を込めて、仁王立ちする。声の震えを、懸命に抑えた。

「僕は、ギルベルトと寝ました。あなたと離れ、宮殿から出ていた時に……。僕は、あなたを裏切って、」

「もういい」

 きつい声だった。青い目が、怒りに燃えている。

「知りたくない。部屋から出て行ってくれないか、クラウス」



 これで、プリンスは自分に愛想を尽かしたろう。それがいつのことかわからないが、自分を死なせる時に、躊躇いはなかろう。ならば、この血を取り込み、ゲシェンクの加護に身を委ねることは、むしろ必然でさえある。



 夜になると、ぽつぽつと雨が降り始めた。

 雨はみるみるうちに豪雨となり、白い雨脚が、降り注ぐ矢のように家々の屋根を叩き始めた。

 眠れぬままクラウスは、暗くした部屋で、雨の音を聞いていた。


 深夜、豪雨を衝いて、クラウスの下宿に、宮殿からの使者が訪れた。

 使者は、エドゥアルド王子が、宮殿を出たきりお戻りにならないと告げた。夕方、外の空気を吸いたいからと、御者と二人、馬車に乗って散歩に出かけたというのだ。

 「お心当たりはあるまいか?」

 使者の言葉に被せるように、遠雷の音が聞こえた。雨はいっそう、その激しさを増していく。








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