第50話 口の形
エドゥアルドは、寝台に横になって、目を閉じている。侍従のモーデル男爵……クラウスは、本を読んでやっていた。
静かな部屋に、クラウスが本を読む声だけが、
エドゥアルドが目を開いた。
「もういい。クラウス、お前は何でも器用にこなすが、朗読だけは、本当に下手だね」
「プリンスと違って、私には学がありませんから」
読んでいた本を、クラウスは膝の上に置いた。字を追って読んではいたが、何が書いてあるのかは、さっぱりだ。
「これは……何の本なんですか?」
「経済学の本だよ」
「経済! 学!」
「そうだ、経済学だ。僕はね、クラウス。お前のその目が気になったんだ」
エドゥアルドは生真面目な表情を浮かべていた。
「宮殿へ来たばかりの頃、お前は、決して僕を見てくれなかった。笑わない、表情のないその目が、僕はとても気になった」
「……」
「僕は、何も知らなった。経済や貿易、それらの上に、父上がもたらした
「……殿下」
クラウスの声が震えた。
「私には、そのような価値はありません。あなたがそこまでなさるような価値は……」
「何を言うのだ」
「たったひとつ、価値があるとしたら……それは、私に流れるこの血だけです」
「……その話か。断ったはずだ。僕は、お前の血を欲しくない」
それは、二人の間で何度も繰り返されたてきた議論だった。言い争いと言っていい。ゲシェンクの加護を申し出たクラウスを、エドゥアルドはきっぱりと拒絶した。しつこく勧めるクラウスに、激怒さえした。
けれど、クラウスも負けない。だってその為に、変装までして宮殿に帰ってきたのだ。
クラウスは必死だった。
「しかし、テュベルクルーズは、不治の病です。今は小康状態を保っておられますが、いつまたぶり返すか……今度そうなったら危険だと、医師団の先生方もおっしゃっています」
「わかってる」
静かな声で、エドゥアルドは言った。
「わかってるよ、クラウス」
「なら! なぜ!」
「僕には、お前を殺せない。お前をゲシェンクにするわけにはいかない」
エドゥアルドに己の血を分け与えた時点で、クラウスは、ゲシェンクになってしまう。
彼は、死ねなくなる。エドゥアルドが、殺さない限りは。
クラウスが叫んだ。
「でも、それじゃ、全く無意味になってしまう。僕が、潜在的なゲシェンクであることに、何の意味もなくなってしまう!」
「それでいいんだ。お前は、普通に生きればいい。普通に生きて、普通に死ぬんだ。そうでないと、僕が困るんだ」
「殿下、お願いですから、」
「だめだ」
「お一人でいかれるつもりですか?」
湿った声で、クラウスが尋ねる。
「僕を置いて?」
「僕だっていやだよ。そんなことしたら、また、お前は行ってしまうんだろ? あの……」
エドゥアルドは言葉を途切らせた。
すぐに続けた。
「……僕とお前の関係は、そんなものとは、全く違う。僕にとってお前は、お前にとってのあの男とは、全く違う存在なんだ」
エドゥアルドが何を言っているのか、クラウスにはわからなかった。必死で食い下がった。
「とりあえず今は、生きることをお考えになって下さい! 何より確かな薬が、目の前にあるのです。あなたはただ、頷いてくれさえすれば……、」
エドゥアルドは首を横に振った。
「とにかく、僕は、この手で、お前を殺したくない。そこが、《《お前たちと違う》ところだ。いいか、クラウス。僕には、そんなことはできない」
「まだ、ずっと先の話です!」
クラウスは叫んだ。
「明日より先のことを考える必要はありません!」
「クラウス……」
「今だけ考えていればいいんです!」
「それは、お前はそうかもしれないけど……」
「僕は、あなたを死なせたくない!」
「強引に飲ませようとしたら、舌を噛み切ってやるからな」
不意に、エドゥアルドは、びっくりするほど冷たい目をした。
「僕の意思に逆らってはいけない」
「そんな禁止に意味はありません!」
「この話は終わりだ」
きっぱりとエドゥアルドが言い放つ。
「大丈夫だ。僕は死なないから。こんなことで、死ぬわけがない。それより、もっと楽しい話をしよう。もう少し良くなったら、馬に乗りたい。お前と一緒に。その髪、」
くすりと笑った。
「あんまり似合ってないね。僕は、黒い髪のお前の方が好きだ。でも、プラクターの森の緑には、栗色も合う気がする。……連れて行ってくれるね?」
「もちろんです。もちろんですとも」
「約束だ、クラウス」
「約束です」
クラウスは、エドゥアルドの手をぎゅっと握った。
「初めて会った時、」
エドゥアルドは微笑んだ。茫洋とした笑みだ。これだけのやり取りで、既に彼は、疲れ果てていた。
「お前は僕に魔法をかけた。覚えているかい?」
今ではクラウスにもわかっている。エドゥアルドと初めて会ったのは、ダンス講師として宮殿を訪れた時ではない。それよりずっと前、馬車に乗ったエドゥアルドを、クラウスが救った時だ。
「魔法?」
「忘れちゃったの? 薄情だな」
ベッドの中の病人に問い詰められ、クラウスは返答に窮した。
「申し訳ない、殿下」
「いいんだ。どうか自然に思い出してほしい。二人で年を重ね……いつか、ふっと思い出してくれたなら……それが、僕の、楽しみのひとつなんだ」
青い目が、ぼうっと霞んだ。柔らかく微笑み、目を閉じる。すぐに、すやすやと寝息を立て始めた。
エドゥアルドが完全に眠ってしまったのを確認してから、クラウスは立ち上がった。寝巻着などの洗濯物を抱え部屋を出る。これも、侍従の仕事だ。
ドアの外に、黒髪の筋肉質の男が立っていた。さっきエドゥアルドが言っていた、ウスティン大使だ。オーディン・マークスを擁護したエドゥアルドの「友達」、つい先ごろ教皇庁大使に任命されたが、まだ出立していなかったとみえる。
ウスティンが、つかつかと歩み寄ってくる。
「クラウス」
胸がどきりとした。
「……私は、アルフレード・モーデルです」
さりげなさを装って答える。ウスティンは首を横に振った。
「いや。お前は『クラウス』だ。その髪は染めているな。本当は黒いはずだ。俺のこの髪と同じく」
「ご冗談を……」
冷や汗がにじむ。
「プリンスは、ずっとお前を待っておられた」
クラウスを遮り、ウスティンは言う。冷たい目をしていた。
「プリンスは、何度も俺のことをお前の名で呼びそうになった。決して声に出されることはなかったけれども。口の形でそれがわかった。『くらうす』とな。お前のことだ」
「……」
同じ高さにある黒い瞳を、たじろぎもせず、クラウスは見返した。
「私が誰であろうとも、あなたには関係のないことです。それに私は、クラウスなどという名ではありません」
「いいや、お前は、『クラウス』だよ」
ゆっくりとウスティンは言った。
「お前が帰ってくるのでなければ、俺は、あの方をさらっていくつもりだった」
「……は?」
呆気にとられた。
「殺されたっていい。あの方を、わが手に入れることができるなら!」
「……」
ウスティンは、クラウスから目線を逸らせた。向かい合ったまま、ゆっくりと前へ進み、肩を並べた。互い違いに逆の方向を向きながら、ゆっくりと彼は言った。
「わが祖国の王に据えることができるのなら。わが民族の独立の礎にすることができるのなら」
ウスティンは、イリータ人だ。イリータでは今、民族自決の名のもとに、ウィスタリア帝国からの独立の機運が高まっている。彼はエドゥアルドを、新生イリータ国の王にしようというのだ。
「あの方は、素晴らしい方だ。生まれついての帝王だ。だがそれは、オーディン・マークスの息子だからでは決してない。あの方自身が持つ、心の気高さなのだ」
「わかってます、そんなこと」
一言のたじろぎもなく、きっぱりとクラウスは言い切った。
「初めて会った昔から、私は、あの方の
「初めて会った昔? ほう。自分が『クラウス』であることを認めるんだな」
振り返り、ウスティンはおもしろそうな顔をする。がすぐに、その笑顔を引き締めた。
「あの方は、死ぬつもりなんかさらさらない。生きるつもりなんだ。生きて、父君のなされなかったことをやり遂げるおつもりだ。それにはクラウス。お前の力がいる。多分」
どん、と、胸を突かれた。ひどく強い力だ。
「随分待たせたじゃないか。だが、間に合ってよかった。俺は、明日、任地へ赴く。俺の代わりにお前、プリンスを守れ。なんとしても守り抜け」
言われるまでもないことだ。自分の存在意義は、プリンスを守ることにある。
他人の口から言われると、ひどく不愉快だった。ウスティンの真剣さが、クラウスを一層、苛立たせた。
口をへの字に曲げたクラウスの顔を覗き込み、ウスティンは豪快に笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます