第49話 神の領分


 何週間ぶりかで、プリンスの熱が下がった。しつこく続いていた咳も、全くなくなったわけではないが、今は、影を潜めている。

 ……やっぱり、あの侍従を雇ったのは、正解だった。クラウス・フィツェックに似た、あの……。

 ディートリッヒは、自分の英断を褒めてやりたい気分だった。プリンスの熱が下がって、浮かれ踊り出したいくらい、彼は嬉しかった。


 ちょうどその時、新しく雇った侍従……アルフレート・モーデル男爵が、プリンスの部屋から出てきた。

 即座にディートリッヒは、彼を呼び止めた。

「モーデル男爵」

 両手に盆を捧げ持った彼は、ディートリッヒの姿を認めると、恭しく頭を下げた。

 ……本当によく似ている。

 ディートリッヒは近寄り、盆をのぞき込んだ。粥の器は、空になっていた。女帝の時代からある、オーリオスープも半分ほどに減っている。これは、各種肉や野菜、豆などをよく煮て裏ごしした、滋養たっぷりのスープでだ。

 「次は、スミレのシャーベットもお持ちするとよい。あれは、さっぱりしているから」

うきうきとディートリッヒが言うと、モーデル男爵は眉を潜めた。

「冷たいものは、まだお体に障ると存じます」

「ああ、そうだ。そうであったな」

 機嫌を損ねることもなく、ディートリッヒは頷いた。

 なんといっても、この青年のお陰で、プリンスはもち直したのだ。彼のいうことなら、何でも聞いてやるつもりだった。

「それなら、コンポートなど、どうであろう。果物を軟らかく煮た甘い菓子なら……」

「調理方に相談してみましょう」

モーデルは言うと、ぐっとディートリッヒに身を寄せた。

「それより、伯爵。お聞きしたいことが」

ディートリッヒは、彼を家庭教師の控室へ連れて行った。



 「宮殿に上がる前、閲兵式でプリンスを拝見しました。殿下は、ひどく弱っておられて、息をするのも苦しそうでした。失礼ながらディートリッヒ伯爵。貴方がついていながら、なぜ、あんなになるまで放っておかれたのですか。なぜ一刻も早く軍務を辞めさせ、宮殿に連れ帰らなかったのです!」

 いきなりの抗議だった。

 皇帝を含め、ディートリッヒは諸方へ苦情を吐き散らしてきた。今、逆の立場に追い込まれ、思わず首を竦める。

「それは、プリンス自身が拒絶されたからだよ。危急存亡の国家を救おうと刀を手にかけた瞬間に、その地位を去るような真似はできない。それでは敵前逃亡と同じだとおっしゃって。オーディン・マークスの息子がなんたることか、あまりに不甲斐ないと」

「オーディン・マークスの息子……」

モーデルがつぶやいた。

「そうだ。だが、頑丈だった父親と違って、プリンスは硝子のようなお体をしておられる。それなのに、意思は鋼鉄なみだ。このまま頑張りすぎると恐ろしいことになると、主治医も何度も釘を刺したのだが」

「プリンスは、決してひ弱な方ではありません」

 きっぱりとモーデルは言い切った。にわかにその頬が赤く染まるのを、ディートリッヒは不思議な面持ちで眺めた。

 モーデルが咳払いする。

「ディートリッヒ伯爵。プリンスはいったいいつ、この恐ろしい病に感染されたのですか?」

 テュベルクルーズは、感染してすぐに発症するとは限らない。体の中に内在したまま、何年も無事に過ごすことができる病だ。


「ちょうど、10年前のことだ。プリンスはある音楽会に招待されて……どうも、その場で感染したらしい。数日後、ひどい咳と高熱が出た。その時は、すぐに治まったのだが」

「音楽会?」

「家庭音楽会だ。メトフェッセル宰相の屋敷で行われた」

「メトフェッセル!」

 モーデルが青ざめた。彼がこの国の宰相の名を呼び捨てにしたことを、ディートリッヒは咎めなかった。

「当時の侍医は、感冒かカタルだと診断した。だか、プリンスは丈夫な子どもだった。このような高熱は、それまでもその後もを出したことがない。テュベルクルーズに感染したとしたら、この時の発熱を措いて、考えられないのだ」

 モーデルの顔は、今では蒼白になっていた。怒気を孕んだ口調で彼は糾弾した。

「メトフェッセルの音楽会? なぜ……なぜ、あの方がいらっしゃるのを、止めなかったのですか!?」

「そりゃ、わかっていたらそうしたよ。だが、ちょうどその時、私はウィルンにいなかった。ゴーレムで行われた会議に出席していたのだ。メトフェッセル宰相の家には、娘さんがいてな。音楽会から間もなくして、亡くなられた。後からわかったのだが、テュベルクルーズ病だった」

「ディートリッヒ先生!」

「ああ。貴殿の言いたいことはわかる。だが、神ならぬ身で、どうしてそんなことがわかろうか。あの時は、宰相夫妻も、娘は風邪をひいているくらいにしか、思っていなかったのだ。それに、当時の侍医は既に亡くなっている。彼女がプリンスにテュベルクルーズをうつしたと、言い切ることはできない」

「……」

「なんにしても、宰相ご夫妻は、愛娘まなむすめを失われたのだ。この上、プリンスに同じ病を感染させたと非難することは、誰にも……祖父であられる皇帝陛下にも、できなかった」

「いいえ! それは間違いなく、」


「モーデル男爵!」

いきり立つ彼を、ディートリッヒは叱りつけた。

「親身になってプリンスを心配してくれているのはわかる。だが、そのように言うものではない」

「でも!」

「皇帝だって、いや、……」

ためらい、ディートリッヒは続けた。

「社交界にデビューされた頃、陛下はプリンスを捕まえては、こうおっしゃっておられた。『メトフェッセルの家の舞踏会に行ってはいけないよ』と」

 皇帝は、娘の「不幸な結婚」でできた、孫を愛していた。だが、彼には限界があった。佳き皇帝は、メトフェッセル宰相に逆らうことができない。彼のおかげで、この国に、いや、この大陸に、平和が齎されたからだ。

 ……メトフェッセルの家の舞踏会へ行ってはいけないよ。

 それは、この皇帝が孫を守るためにできる、全てだったのかもしれない。


 「ディートリッヒ先生。私は、プリンスを死なせはしません」

決然と、モーデル男爵が言い放つ。その声のあまりの強さに、ディートリッヒは、はっとした。

 ……それは、神の領分だ。

わかっている。

「貴殿なら……できるやもしれぬな」

だが、気がつくと、彼は口にしていた。

「プリンスを助けてやってほしい。もっともっと、生きさせてやってくれ。生まれてきて良かったと思わせる人生を、どうか、楽しませてやってくれ」

 力強く、モーデルは頷いた。



 プリンスの顔が見たい。一刻も早く、彼の待つ部屋へ帰りたかった。

 ところが、どこかの角を曲がり間違えたようだ。気が付くと、見知らぬ部屋の前に立っていた。

 人気の少ない、寂れた一角だった。部屋のドアは大きく開け放されている。吸い込まれるように、クラウスはその中へ入っていった。


 何かの展示室のようだった。珍しい石や押し花。呆れるほど細密な、植物のスケッチもある。

 クラウスの目を引いたのは、壁に掛けられた蝶の標本だった。赤や黒や紫。ウィスタリアで見かける蝶とは、まるで違う。はっと息をのむほど、鮮やかだった。

 立ち止まり、見惚れていると、控えめな咳払いが聞こえた。振り返ると、痩せて貧相な男が立っていた。

「見事なものでしょう」

 男は、学芸職員の腕章をつけていた。

「マリアン内親王のコレクションです。内親王について、遠くアメリア大陸まで渡った学者達が持ち帰ったものです。ユアロップ大陸広しといえど、これほどのものは、なかなかありませんよ」

「マリアン内親王?」


 それは、エドゥアルドの叔母である。彼女は、エドゥアルドの母、マリーゼと同じく、「売られた」花嫁だった。本人たちや、父親のフランティクス帝の意向を無視して、結婚させられた。やり手の宰相、メトフェッセルによって。

 マリーゼは、ユートパクスのオーディン・マークスに。マリアンは、海を渡ったアメリア大陸ブラダー国へと。新大陸といわれていたかの大陸の利権を、いち早く確保するためだと、学芸員は語った。


 「アメリア大陸には、ここユアロップ大陸にいたのでは見られない、いろいろな生き物や植物、鉱物などがあります。マリアン内親王は、ご自身も優れた学者としての素質をお持ちでした。残念なことに、お若くして亡くなられてしまいましたが」


 マリアンの夫であるブラダー国王は、精神的に不安定だった。その上、情婦がいた。彼は、正妻である皇后マリアンの子どもたちと、情婦の子どもを、同じ宮殿で育てるという暴挙に出た。

 このことは、国民の反感を買った。

 妊娠中のマリアンが亡くなった時(それは夫の乱暴が原因だと言われている)、国民は王を排斥し、王は逃亡した。


「マリアン様は、兄弟姉妹の中で図抜けて賢く聡明でした。この素晴らしいコレクションを見ればわかるでしょう? でも、賢明であったことが、マリアン様にとってよいことであったのかどうか……。おかげで、メトフェッセル宰相の目に留まり、アメリア大陸へ嫁がされ、挙句の果てに早死に……同じ『売られた花嫁』の身でありながら、南に荘園を与えられ、悠々自適に暮らしておられるマリーゼ様のことを考えますと……」

学芸員は頭を振った。

「ここだけの話、マリーゼ様のご不幸は、ご子息のロートリンゲン公が、一身に背負われている気がしてなりません」


 はっと、クラウスは、胸を衝かれた。

 メトフェッセルの籠の鳥。

 高貴な身分でありながら、多くの民に期待されながら、しかしそれゆえ、ウィルンから一歩も出ることが許されない……。


 気持ちを変えるように、学芸員は微笑んだ。

「ですが、悪いことばかりではございません。マリアン妃は、多くの民に愛されておりました。それで、評判の悪かった夫君が追放された後、ご子息が、即位されることに決まったのです。マリアン妃のご長男、5歳のペロドス殿下です」

「そうですか……」

 彼は、目の覚めるような紫の、大きな蝶にじっと見入った。

 「標本も見事ですが、生きて群れ飛ぶ蝶は、それはそれは美しいものだといいます。空も花も、ユアロップ大陸とは違って、ひときわ色鮮やかだと、帰国した学者が話しておりました」

 ……プリンスにも見せてあげたい。遠い大陸の、珍しいもの。美しいものを。

 見たこともないほど青い空と強い太陽の光、その下を、色鮮やかな蝶が舞い飛ぶ姿が、クラウスの脳裏に、いつまでも幻影となって残った。


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