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第48話 おかえり
プリンスの具合は良くなかった。高熱を発し、がたがた震えている。それなのになお、兵舎に戻ろうとする。
ディートリッヒ先生は、怒り狂った。怒りは、あらゆる方面に向けられた。寒い風の日に遠くまで馬車に乗って訓練をさせたと言って、軍責任者に、猛烈な抗議文を送りつけた。いつまでも熱が下がらないから新しく雇った医師をクビにしろと、役所に迫った。
怒りは、身内にまで及んだ。急激に背が伸びた割には胸郭が広がらなかったのは、教練が甘すぎたせいだと、同僚の体育科のフォルスト大尉に食って掛かった。フォルスト大尉は言い返し、ちょっとした喧嘩騒ぎになった。だが、プリンスの病状を憂えることはフォルスト大尉も同じだ。すぐに二人は仲直りし、抱きあって泣いた。
ディートリヒの怒りは収まらない。ついには、なぜプハラの連隊長にしなかったのだ、からっとしたプハラの気候の方が、プリンスの健康にはずっと良かったはずなのに、と、皇帝をも非難した。
教師の怒りは、エドゥアルド自身にも向けられた。
なぜ、無理をするのか。パレード、査察、軍隊の指揮、こんな体力のいる仕事は、他のそういうことが好きな将校にやってもらえばいいのだ。冷たいメナン川をオープン車で渡る訓練とか、一般兵卒と一緒に崖をよじ登る訓練などは、プリンスにとって、全く意味のない馬鹿げたことだったのです、とまで言い切った。
……「私の胸は、張り裂けそうです」
プリンスの枕頭に侍し、泣きながらディートリッヒは訴えた。
エドゥアルドの具合は、悪くなる一方だった。
……「お母様に、帰ってきてください、と伝えてください」
ついに、プリンスはそう言った。確執のあった母親に縋らなければならないほど、彼は孤独で、弱り切っていた。
即座にディートリッヒは筆をとり、南の荘園にいる母親のルイーゼに手紙を書いた。
しかし母親から帰ってきたのは、政情不安定につき帰ることはできない、という返事だった。この返事を、ディートリッヒは、何日も何日も、プリンスに伝えることができなかった。
そんな折、アルトン・ウスティン副官が、教皇庁大使に任命された。
上司のマッツリ将軍は、老齢のため、とっくに母国イリータへ帰ってしまっている。ウスティンは、今ではプリンスの、たった一人の話し相手だったというのに。
教皇庁大使拝命は、栄転だ。しかし、ディートリッヒには、とてもそうは思えなかった。教皇庁は、ウィルンの遥か南西にある。ウスティン大使は、数ヶ月のうちに、任地に赴かなくてはならない。プリンスは、たった一人の気の合う話し相手をも、失ってしまうのだ。
……心の持ちようが、体に作用する。
……なんとか。なんとかして、プリンスに元気を出して頂かないと。
ちょうど、プリンスの看護及び身の回りの世話をする侍従が必要となった。ディートリッヒはすかさず、その選考を買って出た。
役所が回してきた人物は、どれもこれも、全く彼の気に入らなかった。鈍そうだったり、がさつだったり。
とうとう、最後の一人になった。明るい栗色の髪の、痩せた青年が残った。
……だめだ。こんなにヘナヘナでは。
もっとちゃんとした人間を寄こせと役所に掛け合おうと決意した時、その青年が顔を上げた。
「……フィツェック?」
思わずディートリッヒは声を出した。
「お前、クラウス・フィツェックか!?」
「いいえ。私は、アルフレート・モーデルです」
青年は答えた。
確かに、書類には、そう記載されていた。無位のクラウスと違い、彼は、男爵の爵位を持っていた。第一、髪の色が違う。それに、クラウスよりも痩せていた。よく見ると、顔の造りも微妙に違う気がする。
……そうだった。彼は死んだのだ。
ディートリッヒは思った。「死」という言葉に、ぞっとした。
「よかろう。しばらく貴殿で様子を見る。こちらへ来るがよい」
そう言って、プリンスの寝所へ案内した。
だが、部屋の入り口で、彼はためらった。このところ、プリンスの弱り方は、尋常ではなかった。苦しむ教え子の姿を、ディートリッヒは見たくなかった。
「プリンスはこの部屋の中だ。眠っていらっしゃるかもしれない。静かに見守って差し上げるように」
言い置いて、足早に立ち去った。
◇
エドゥアルドは、色のついた夢を見ていた。形の定まらぬ、どぎつい色彩に満ちた夢だ。体の右側がひどく痛んだ。痛みに耐えきれず、とうとう目を開けた。
そして、こちらをのぞき込んでいる人影に気がついた。ベッドの傍らに置かれた椅子から乗り出すようにして、自分を見つめている。
髪は、明るい栗色だった。最後に見た時よりも、頬骨が突き出て見える。
でも、エドゥアルドには、わかった。
これは、クラウスだ。
とうとう、クラウスが帰ってきた。
「わかってたよ。お前は帰ってくるって」
そう言うと、クラウスの顔がぐしゃと歪んだ。全く情けない顔になって、クラウスは泣き続けた。
◇
「泣かないで、クラウス」
かすれた声が宥めている。
「お願いだから、泣かないで」
「……」
……泣いたらダメだ。
……身の程をわきまえろ。
わかっている。それなのに勝手に、涙が溢れてくる。
囁くような小さな声が、優しく諭している。
「本当なら、なんで帰ってきたんだって、怒らなくちゃいけないとこなんだ。お前は、ここにいたら、危険だから。でも、僕は嬉しい。帰ってきてくれて、本当に、嬉しい。おかえり、クラウス」
「プリンス……」
かろうじてクラウスは言った。後は、身をもんで泣き声を押し殺す。
「フリッツ大公がひどいことを言ったそうだね。でも、あの方は、いつも僕を気にかけて下さっているんだ。許しておくれ」
「許していただかなければならないのは、僕の方です」
こぶしで涙をぐいと拭った。
「僕があなたに近づいたのは、メトフェッセル宰相の命令でした」
「知ってる」
クラウスの頬が紅潮した。
「メトフェッセルの命令で、僕は、あなたと……」
許しを乞うつもりはなかった。許されるとも思わない。ただ、ありのままを伝えるべきだと思った。彼には、知る権利がある。
エドゥアルドは笑った。
「そんなことを気にかけてたのか。馬鹿だな、クラウス」
「う……」
喉が詰まった。
エドゥアルドの笑顔……、自分が今、何を言おうとしたのか、何が言いたかったのかさえ、わからなくなった。
穏やかな声で、エドゥアルドは続けた。
「僕は知ってるよ。……今は違うということも」
とうとう、クラウスの口から嗚咽が漏れた。
「泣くなよ。お前、僕より年上だろ? しっかりしなきゃ、ダメじゃないか」
「……はい」
「僕は、お前の
急にその声が、弱々しくなった。
「でも本当は、奴隷なんだ。お前がいなくちゃ、生きられない」
耐え切れず、クラウスは、声を放って泣き出した。
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