第46話 子どもにするようなキス
「なぜ、教えてくれなかった」
最後の一人が地下の部屋を出ていくと、クラウスはギルベルトに詰め寄った。
「なぜ、彼が結婚を取りやめたと、僕に教えてくれなかったんだ」
「さて。そんなことを、どうやって俺が知ることができる?」
散らばった書類をまとめながら、ギルベルトが答えた。
「皇族の都合なぞ、俺が知るわけもあるまい?」
「だって、あなたは、僕を外に出してくれなかった。二階に監禁して、ひたすら……」
声を詰まらせた。
「……だから僕は、町の噂さえ知ることができなかったっ!」
ギルベルトは答えない。
集めた書類を、テーブルにとんとんと落として、揃えている。
「なんとか言ったらどうだ。ギルベルト!」
ギルベルトはため息をついた。
「なあ、クラウス。お前がここにいるのは、あの子には、容易に想像がついた筈だ。婚約を断ったのなら、なぜ迎えに来ない?」
「……かまわない。彼に愛がなくても、僕は別に、」
クラウスは答えた。掠れたような声だった。
「そもそも、最初が間違っていたんだ」
「最初? 最初とは?」
「彼は、オーディン・マークスの息子だ。僕の家を破壊し、父を自殺に追いやった憎い敵の息子だ。だから僕は、メトフェッセル宰相の指示通りに動いた。彼を誘惑し、彼と寝た」
「クラウス。お前の誘惑なんて、たいしたことないと思うが」
「茶化さないで」
クラウスはギルベルトを睨んだ。すぐにその目を伏せた。
「でも、同時に彼は、オーディン・マークスの最後の犠牲者でもあったんだ。あれだけの資質、あれだけの器をもちながら、いや、だからこそ、宮殿に幽閉され、ウィルンの外へ出してもらえない。幼い頃に引き離され、顔も覚えていない父に憧れ、でもその偉業を本でしか追うことができない。彼は父親の影に縛られ、無責任な民衆に翻弄され、命さえも狙われて、」
顔を覆った。
「気づくのが、遅すぎた。僕は、メトフェッセルに言われて、彼と寝た。初めに、間違えたんだ。その間違いが、今もずっと続いている……」
「本当にそれが、初めだと思ってるのか?」
静かな声が尋ねた。その声には、真摯な響きが感じ取れた。クラウスは顔を上げた。
「何の話?」
「だから、馬車に乗った、あの少年だよ。お前が白い馬に乗って、助けに行った」
「……?」
「あの馬車は、車軸の音が狂ってて。……俺のオペラの初演の日のことだ。双子の恋の、あの話だ。お前はオペラを見損なったが」
「ああ! さらってくるなんて、と、あなたに呆れられた、あの!」
初めて、クラウスの顔に理解の色が浮かんだ。すぐに、はっとしたような表情に変わった。
「あの時の、子ども……?」
「エドゥアルド・ロートリンゲン公だよ。本当に覚えてないんだな」
ギルベルトはあきれ顔になった。
「彼の方は、しっかりと覚えているようだが」
「ヴィクトール」
クラウスは言った
「そうか。そこで僕は、ヴィクトールを名乗ったのか……」
「ヴィクトール! 懐かしいな。昔飼っていた犬の名だ」
「ええ、そうです。僕はどれだけ、あの犬が羨ましかったことか……あなたに飛びついて甘える、あの犬が。それで……」
「少しは、俺のことも好きでいてくれたのか」
小さな声で、ギルベルトがつぶやいた。
「眠っている時だけじゃなく。起きて活動している時間にも」
その声は小さすぎて、クラウスの耳には届かなかった。繰り返す代わりにギルベルトは、肩を竦めた。
「元気そうに見えても、子どもの頃から、あの子は、体内にテュベルクルーズを内在させていた。だから、必要だったのだ。自分を庇護してくれる者が。馬車から救い出してあの子の命を救った時、あの子はお前を認識した。お前の中の、ゲシェンクの血を。それを、あの子は愛だと勘違いしている」
クラウスは息を飲んだ。
「……勘違い?」
「そうだ。クラウス。愛なんかじゃない。これは、宿命だ。お前は、あの子から逃げられない。だがそれは、お前も同じことだ。お前の中に潜在するゲシェンクの血が、それを許さない。そもそもお前自身、なぜあの子を守りたいと思うのか、考えてみたことがあるか?」
「……え?」
幾百万の言葉が頭の中で渦巻いたが、一言も出て来ない。ギルベルトは薄く笑った。
「俺はさんざん考えたよ。なぜ俺は、幼かったお前を救ったのか。それまで一面識もなかった子どもを。それまでは、生涯、誰も助けず、普通の人間として死ぬつもりだったのに。血だよ。ゲシェンクの血が、己が守るべき者を定めるのだ。愛なんかじゃない。今のお前は、ゲシェンクの本能に従っているに過ぎない」
クラウスの顎を掴んだ。その顔を、強引に自分の方に向けさせ、言葉を継ぐ。
「前にも言ったように、クラウス。それは、恋愛とは違う。お前を本当に愛しているのは、あの子じゃない。この俺だ」
クラウスが反抗的な目を上げる。構わず、ギルベルトは続けた。
「共に生活し、俺は、お前を愛するようになった。お前の素直さ、まっすぐな善良さを心から慈しんでいる。だが、考えてみろ。あの子がお前と生涯を共にすると思うか? お前に死を与えてくれるだろうか。オーディン・マークスの息子が? 皇帝の孫が!」
「自分のことなんか、どうでもいい! 僕は彼を守りたいんだ!」
クラウスの叫びに、ギルベルトは酷薄そうな笑みを浮かべた。
「愚かな奴。でもそういうところが、大好きだ。お前のことなら、全部好きだよ。これだけ言ってもあの子のそばに行きたいのなら、そうするがいい。でも俺は、何度でもお前を奪いに行くよ。そうすることを、どうか許してほしい」
ギルベルトは立ち上がった。隅に置かれた棚の引き出しを開ける。しばらくごそごそ探っていたが、やがて何かを手にして戻ってきた。
「身分証だ。アルフレート・モーデル男爵。化粧の仕方は、パウラが教えてくれる。彼女は劇場のメイク係をしているから。だが、お前のその黒髪は、染めるしかないな」
最後の方は、いかにも残念そうだった。
「アルフレート・モーデル……男爵?」
わけがわからず、クラウスは繰り返す。
「ああ。ハンナの店の客だ。『踊る犬』亭の。彼女がどうやってこの身分証を手に入れたかは、聞かないでやってくれ」
ギルベルトはため息をついた。
「宮殿から迎えが来なかったわけは、な。お前が潜在的なゲシェンクだと、敵に悟らせない為だ」
「敵?」
「そうだ。お前の血には、利用価値がある。恐らく、王子を助けて刺されたことを 敵に知られたんだろう。だから、シェルブルン宮殿では、お前を死んだことにした。町で噂を耳にした。あの時刺された青年は死んだ、って。誰かがそういう噂を流している。多分王室の、お前を庇おうとする勢力だ。そして、彼らには敵がいる。今となっては、お前にとっても危険な存在だ。いいか、クラウス。決して、正体を悟らせてはならない」
正体を悟らせるな。自分が、潜在的なゲシェンクであることを、誰にも知らせてはならない。それは、幼い頃から厳しく、ギルベルトに言われてきたことだ。
「ギルベルト……」
「今、エドゥアルド・ロートリンゲン公は、ひどく衰弱している。それなのに、頑固に軍務から離れようとしない。医者や家庭教師が静養するように言っても、激怒するだけらしい。あの子は今、自分の父親の幻影に踊らされている。体は悲鳴を上げているというのに」
「……」
「黙っていて悪かった。もう少し、もう少しと、お前を引き留めてしまった。彼に残された時間は、あまりないかもしれない。だから」
「……」
「行くがいい。どこへでも」
「でも、そしたら、あなたは……」
「みんなには、お前は、恋人のところに行っちまったとでも言っておくさ。俺を捨ててな。簡単に信じると思うよ。今までの俺の所業を見ていれば」
テーブルを回り、ギルベルトが近づいてきた。
クラウスは、凍り付いた。
後ろに、ギルベルトが立った。屈みこんで、顔を寄せる。
頬に、子どもにするようなキスをした。
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