第42話 年齢の近い友達
よかった。
謁見の間を退出し、ディートリッヒは思った。
この頃、プリンスは、なんだか元気がない。あの、クラウスというダンス講師がいなくなってから……。
彼は、ある日突然、姿を消した。少しして、第一近衛団から、クラウス・フィツェックは死んだと知らせて来た。
第一近衛団は、フリッツ大公の軍だ。皇帝の弟君からの知らせであることを、ディートリッヒは、少し奇異に思った。だが、それを疑う理由はない。
……身分は低かったが、忠誠心のある、よい青年だった。
クラウスが姿を消してから、プリンスは塞ぎ込むことが多かった。その上、しょっちゅう咳込んでいる。熱が出たりすることはないのだが、細かな咳が止まらない。
顔色はいい。風邪だと、プリンスは言っている。ディートリッヒも、そう思う。
……なんといっても、プリンスはまだお若い。体力も十分にある。だが、気力が衰えると、体の抵抗力も減じるものだ。
……おかわいそうに、プリンス。ようやく、心を開ける、年齢の近い人を見つけたというのに、そのクラウスが、死んでしまったとは。
身の回りの従者等は、政府が任命する。プリンスと気の合うような人物は、まずもって、入ってこない。
貴族の友達も、いることはいる。意味不明に近づいてくる、あのルードルヒ・エステルとか。メトフェッセル宰相は、いやに彼に肩入れしていた。だが、ディートリッヒは、あの貴公子を信用していない。プリンスだって、好んで付き合っているわけではなかろう。
プリンスに、元気を出してほしかった。
……年齢の近い友達が必要だ。
……政府を通すのではなく。
……早急に、誰か、よい友達を見つけてやろう。
ディートリッヒは思った。家庭教師である彼は、さすがに軍にまでついていけない。駐屯地で、プリンスの側に侍る者が必要だ。
◇
ディートリッヒから、プハラで軍務に就くという知らせを聞いて、エドゥアルドは手を打って喜んだ。プリンスのこんなに嬉しそうな姿を見るのは、絶えて久しくなかった。ディートリッヒの胸が熱くなる。
「これでやっと僕も、お父様と同じ、軍人になれる!」
プリンスのこの言葉を、ディートリッヒは聞き咎めた。
「殿下」
謹厳な口調で、彼は諫めた。
「おわかりと思いますが、この人事は、フランティクス帝の後押しあってのことです。あなたのお祖父様は、あなたに、父君のようにはなってほしくないとお思いでしょう」
「わかっているよ、そんなこと」
真面目な顔になって、エドゥアルドは頷いた。
「僕はただ、スタートラインに立てたのが嬉しいんだ。これから始まるんだ。僕の人生は。やっと自分らしく生きられる。そのことを喜んでいるんだ」
このプリンスなら大丈夫だろう、と、ディートリッヒは思った。父親のようには、決してなるまい。誰に対しても、このマリウス・フォン・ディートリッヒは、公明正大に保証できる……。
◇
冬の間、しつこい咳が続いた。このまま、プハラへやって、大丈夫だろうか。ディートリッヒは不安に思った。
だが、もしかしたらウィルンのこのじめじめした気候が、プリンスの体に悪いのかもしれない。プハラは、山間部にある景勝地だ。あそこへ行けば、咳も治まるに違いない……。
◇
「プリンス。お客さんが見えてますよ」
ある日、ディートリッヒがにこにこ笑いながら言った。
「お客さん?」
本を読んでいたエドゥアルドが、物憂げに振り返った。目が潤んで見える。やはり少し、具合が悪いようだ。
「プリンスが今、一番会いたい人です」
「えっ!」
青い瞳が、不意に生き生きとした光を宿した。
「お客さん? もしかして!」
「おはいりなさい、ウスティン副官」
……。
先日、バークの古城で、晩餐会があった。その席で、いきなり、「オーディン・マークス、万歳!」と叫んだ老人がいた。
マッツリ将軍だ。
イリータ人のこの男は、オーディン・マークスの軍に属していた。連合国との最後の戦いで、彼に降伏状にサインするよう、進言した将軍だ。そのことを、オーディンに対する裏切りだったと、今でもマッツリは悔やんでいた。
成長したオーディンの息子を見て、彼は、涙を流して喜んだ……。
アルトン・ウスティンは、そのマッツリ将軍の副官である。年齢は、エドゥアルドより、15歳ほど上だった。
黒い目、黒い髪。そういえば、いなくなったダンス講師クラウス・フィツェックと少し、雰囲気が似ていた。
ウスティンは、対ユートパクスとの戦争には、ウィスタリア軍として参加していた。
「はじめ、私は、オーディンの独裁に反対でした」
晩餐会で彼はプリンスの近くに陣取り、しきりと話し込んでいた。少し離れた席にいたディートリッヒのところにまで、ウスティンの声は聞こえていた。
「でも今は、彼は、軍事的な天才だったと信じています。彼の島流しは、間違いでした……」
なんと、戦犯オーディン・マークスの擁護をしている。
プリンスは、熱心に彼の話を聞いていた。気のせいか、咳も治まっているようだ。
……この際だ。
ディートリッヒは思った。父君の話を聞けば、プリンスも、元気になるかもしれない……。
◇
招かれたウスティンは、目を細めた。
晩餐会では、確かに意気投合した。金髪碧眼の、美しい王子だ。あのオーディン・マークスの息子……。そう思うと、話も弾んだ。
しかし、いきなり、プリンスの話し相手を務めよだなんて……。
実際、部屋に入ってきた彼を見て、青い瞳に浮かんだのは、明らかに落胆の色だった。今にも叫びそうに開かれた唇の形は、彼とは違う名を呼ぶ形だった。
「ウスティン副官」
だがすぐに、彼は、にっこりと笑った。
「来てくれてありがとう。僕に、いろいろなことを教えてください。父の政策で、良かったことも、そして、悪かったことも」
プリンスは、特に、オーディン・マークスの経済政策について知りたがった。
「父のせいで、経済的に困窮した貴族が大勢いたと聞きます。荘園を失い、没落していった地方領主や貴族たちが。いったい、どういうことなのですか?」
誰か、身近な人がそうだったとでも言いそうな素振りだった。
だが、それはあり得ないことだ。没落していったのは、下級貴族ばかりだ。皇族であるプリンスの周りに、そのような者がいるわけがない。
気を取り直してウスティンは、オーディンの経済封鎖について説明した。
「つまり、輸出をさせなくしてしまった為に、農産物が余り、値段が下落したと」
「そうです。その結果、年貢が頼りだった地方領主や下級貴族たちは、経済的に困窮しました。そして、銀行家から多額の金を借りた。領土や荘園をカタにね。こうした銀行家は、コナタ連邦に多いです」
「コナタ連邦……」
「ご存知ですか?」
「はい、ベルヌ国のレティシア姫が、そのような話をされていました」
「ああ、ベルヌは、コナタと国境を接してますからね。金のある国が隣にあると、やりにくいものです。ですが、ウィスタリアの地方貴族たちの不幸は、それだけではありませんでした」
「金融政策?」
「そうです。オーディンは、ウィスタリアの通貨の価値を、1/5に切り下げました。自国ユートパクスの貨幣の価値を上げる為です。これは、ウィスタリアの地方貴族たちにとっては、致命的でした。借りた金の価値が下がってしまったのですからね。彼らにはもう、荘園を買い戻すことができなくなったのです」
「……」
誰か、人の名前を、プリンスはつぶやいた。クラウス、と聞こえたような気が、ウスティンはした。
二人はそれから、オーディンの軍事政策について、意見を交わした。
エドゥアルドが、緒戦について詳しく知っていることに、ウスティンは驚いた。大した戦略家だと、舌を巻いた。
「ありがとう、ウスティン副官。僕には、経済や貿易の視点が、決定的に欠けていました。あなたに会えてよかった。また、ぜひ、お話を聞きたい」
「私でよければ」
ウスティンは答えた。
「私からもよろしく頼む」
部屋の隅から声が聞こえて、二人とも飛び上がった。そこにディートリッヒ先生がいたことを、すっかり忘れていた。
「あなたと話している間、プリンスは、生き生きとして見えた。咳もなさらなかった。あなたは、彼の特効薬なんですよ。ウスティン副官」
「それでしたら……」
思い切って、ウスティンは言った。
そんなことは、この国の宰相が許さないかもしれないが……。
「私の上官、マッツリ将軍の方が、よほど、プリンスを喜ばせることができると思いますよ。なにしろ彼は、実際にオーディン・マークスと共に戦った人物ですからね」
マッツリが、いかにオーディンを崇拝しているか、ウスティンは知っていた。これは、プリンスの為というより、年老いた上官の為といった方が正しかった。
「もう、頼んである」
当然、という風にディートリッヒは頷いた。
「マッツリ将軍には、週に何度か、定期的に通って来てもらう。プリンスに、オーディン・マークスと共に戦った思い出話をしてもらう為だ。メトフェッセル宰相の許可も取った」
「えっ! よく許可が下りましたね」
あの宰相が、オーディンに関係した人物をプリンスに近づけるとは、驚きだった。
「うむ。但し、オーディンの野心や幻想についてもしっかり話してもらうように、釘を刺された。それが結局、自身の身の破滅と国家の崩壊に繋がったことも」
さすが敏腕宰相、抜け目がない。ウスティンは、呆れるあまり、感心さえした。
「いいさ。僕は、父上の悪かったところも知りたいんだ。もう二度と、人々を不幸にしないようにね」
確かに最初、プリンスは、オーディンの政策の、よかったことも悪かったことも教えてくれ、と言った。それは決して、口先だけのことではなかったのだ。
……このお方は。
今までとは違った目で、ウスティンは、プリンスを見た。
……この人になら、一国を、大陸全土を託してもいいのではないか。
◇
それから少しして、エドゥアルド・ロートリンゲン公に、内示が出た。
「フサーレ連隊大隊長に任ずる」
フサーレ部隊の指令本部はウィルンのラッセナ通りにある。それどころか、シェルブルン宮殿から通える場所にあった。その上、大隊長、という身分で、大佐ではない。皇族にしてはあり得ない低い地位だ。
……またしても、ウィルンの町から、一歩も外へ出れない。
その事実に、エドゥアルドは、体が震えるほど落胆した。
だが、彼はすぐに気を取り直して、軍務の仕事に励んだ。
通えるとはいえ、シェルブルンからラッセナ通りまでは、かなり距離がある。朝4時半起床、馬車で通勤という生活が始まった。
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