第41話 温泉療法
「メリッサ! 助けておくれ。お願いだから!」
シェルブルン宮殿に帰ると、エドゥアルドは、叔父の妻、メリッサ大公妃に泣きついた。メリッサは、見合い相手レティシアの、姉にあたる。
「レティシア姫に、なんとかわからせてあげて……僕は、彼女と結婚する気はないって!」
……やっぱりね。
美しいプリンスに泣きつかれて、メリッサは、心の中でにんまりと笑った。
「まあねえ。あの子じゃ、いやって気持ちは、よくわかるわ、エドゥアルド。なんてったってあの子は、ベルヌ宮廷でも評判の変人だし。自分の妹のことをあまり悪くは言いたくないけど、女性としての魅力もまるでないしね」
そう言って、豊満な自分の胸を突き出して見せる。
「そういうのは、みんな、私がもってきちゃったのよねえ。実際のところ、家柄を除けば、あなたと釣り合っているのは年齢だけのような気が、」
「いや、レティシア皇女は、かわいらしい姫君だったよ」
メリッサの高説を遮り、エドゥアルドが応えた。
「それに、真剣に自分の国のことを考えている。賢く聡明な女性だと思う」
メリッサは、ちょっとむっとした。
「まあ、お優しいこと。でもあなたは、彼女と結婚したくはないわけよね」
「……」
困ったように、エドゥアルドはうつむいてしまった。その整った横顔に、メリッサの心が疼く。彼女は、無理やり深刻そうな顔を作った。
「そもそもこのお話は、フリッツ大公からベルヌへ行ったと聞くわ。断ったりなんかしたら、大公の顔は丸つぶれよ?」
「僕は、大公から話を聞いた時、すぐにお断りしたんだよ。……他に好きな人がいるから、誰とも結婚する気はないって。それなのに、勝手に話が進んでしまったんだ!」
「へえ。断った。他に好きな人がいるって。……え?」
メリッサが顔を上げた。その顔が、みるみる紅潮し、輝いていく。
「エドゥ、それ、まさか……」
「うん、クラウスだよ」
「そう。あなた、そんなにわたしのこと……え? クラウス? くらうす、って……、あなたにダンスを教えてた?」
「そう、その、クラウス!」
「えっ! ええ、えええーーーーっ!!」
最大級の驚きが、彼女を襲った。
オペラ劇場で出会った伯爵令嬢アルディーヌを始め、エドゥアルドに思いを寄せる令嬢たちを、悉く退けてきたのに……。
エドゥアルドと、これ見よがしに仲良く出かけ。つけ届けられた手紙を、横取りして握り潰し。お茶会その他では、極力、彼女らを遠ざけた。
その努力が、たった今、水泡に帰した。伏兵は、意外なところにいたわけだ。
「そういえば最近、彼の姿を見ないけど? 死んだという噂も聞いたわ」
「うん。それが……」
エドゥアルドの顔が、みるみる曇っていく。
「本当のことは言えない、メリッサ。だが、僕は彼のことを信じるって、決めたんだ」
「なんのことだかわからないけど。あのね、エドゥ。念のために聞いておくけどね」
クラウスのことは、どうでもいい。エドゥアルドは、彼のことを好きだと言ったが、所詮、男同士だ。
そしてメリッサには、もっと差し迫った事情があった。
フラノ大公に嫁して5年。未だに、子ができない。これはもう、夫のフラノ大公のせいに決まっていた。彼には、積極性が足りないのだ。
諦めきれず、メリッサは、隠していた願いを口にした。
「あなた、自分の子どもにこの国の皇帝になってほしくない?」
叔父の子も甥の子も、同じようなものだ。どちらも、ウィスタリア皇族の血が流れている。
それほど彼女は追い詰められていた。
エドゥアルドが首を傾げる。
「皇帝? ウィスタリアの? 次の皇帝は、フェルナー王子だろ?」
フェルナーと言ったその口調に、苦々しい響きをメリッサは感じた。少し力を得て、彼女は、もうひと押し、してみることにした。
「フェルナー王子の、次の皇帝よ」
「それは、恐らくフラノ大公の挙げる長男になるだろうって、みんな言っている。つまり君の息子だ、メリッサ」
なぜこちらの意図するところが、彼には通じないのか。メリッサはじれったかった。最大限の勇気と、半ばやけっぱちな気持ちで、最後のひと押しをする。
「あなた、その子の父親になる気はないかしら?」
「は? 父親は、フラノ大公でしょ?」
「だから……あの人は……」
「大丈夫だよ、メリッサ」
優しい声で、エドゥアルドが言う。
「焦らなくても、大丈夫。バークの温泉に行ってみたらどうか、って、ディートリッヒ先生は言ってるよ? 夫婦でリラックスすることが大切なんだって」
「……」
だめだこれは、とメリッサは思った。エドゥアルドは、ダメ。
仕方がない。こうなったら、何としても夫から、子種を搾り取らねばならぬ。わが子を、帝位に就ける為に……まずは、わが子の母になる為に。
◇
「えっ! プリンスを軍隊に?」
皇帝の前であるにもかかわらず、ディートリッヒ伯爵は敬語を忘れた。
「うん、そうだよ」
穏やかに、フランティクス帝は微笑んだ。
「エドゥアルドは今、第54連隊指揮官中佐だ。これを大佐に昇格させ、実際に軍務に当たらせる」
ウィスタリアは、皇族男子は必ず軍務につくことが、慣例となっていた。
途中までは名ばかりだが、ある年齢に達すると、実際に従軍し、軍事訓練などに参加する。戦役があれば、兵を率いて参戦する。
エドゥアルドは、今まで、名ばかりの軍人だった。だが、皇帝は、いよいよ実際の軍務につけようというのだ。これは、彼をウィスタリア皇族男子の一員として認めた、ということになる。
「では……:
「うむ。エドゥアルドは、シェルブルンを出ることになる」
「陛下……」
感無量で、ディートリッヒは、この年老いた皇帝を見つめた。
皇族が最初に軍務に就く地は、はるか北の都市、プハラと決まっていた。エドゥアルドは、ウィルンから出ることができるのだ。メトフェッセル宰相の支配下から、脱することができる!
ディートリッヒの心は高揚した。
「
「はい」
「実際に当人と会った上での決断だ。それはまあ、仕方がないのかもしれない……」
ため息をつき、皇帝は頭を振った。
皇帝自身の現在の妻も、ベルヌ王国から嫁してきている。いろいろご苦労なされているのだろうと、ディートリッヒはいたわしく思った。
「だが、わしも、いろいろ考えておったのだよ。なんといっても、わしは、あの子の祖父なのだから」
皇帝が、孫のプリンスのためにいろいろ心配りをしてきたことは、ディートリッヒも知っていた。彼は、ロートリンゲン公爵という家柄を新たに創設し、孫に与えた。これにより、エドゥアルドの身分は、確保されたことになる。
思わず、ディートリッヒはつぶやいた。
「ありがたいことです……」
皇帝は笑った。
「貴方がありがたがることはないだろう。いや、実際、貴方には感謝している。母親を亡くしたも同然のあの子に、貴方は、惜しみない愛情を注いでくれている……」
「プリンスを惜しむからです。あんなにまっすぐなご気性の、まじめな努力家を、私は他に知りません」
「それは、ウィスタリアの血だ。あの男のものではない」
きっぱりと皇帝は断じた。
あの男。いうまでもなく、かつての敵オーディン・マークスだ。
「ベルヌ王国といえば、陛下」
ディートリッヒは強引に話をそらせる。
プリンスの、父親への傾倒ぶりはよく知っている。彼の祖父である皇帝と、オーディン・マークスの悪口を言い合いたくなかった。
「メリッサ大公妃におかれましては、ご懐妊とか。いやはや、めでたいことですな」
「そうなのだよ」
渋面だった皇帝の顔がほころんだ。
「貴方が勧めてくれた温泉療法が奏功したみたいだ。礼を言うぞ」
「は? わたくしが、ですか?」
「メリッサはそう言っておったが。
「わたくしが……? 温泉療法……?」
さっぱり心当たりがなかった。
それどころか、メリッサ大公妃と話したことさえ、絶えてない。ディートリッヒ先生といえば、怖い教師で有名だった。メリッサ大公妃はおろか、女性の方から近づいて来ることは、決してなかったのだ。
ともあれ、太公妃の懐妊は、めでたいことである。
「エドゥアルド王子は軍務に就かれ、一層、愛国的な皇族となられることでしょう。お生まれになる
エドゥアルドを誇れる機会を逃しはしない。ややそり気味になって、ディートリッヒは宣言した。
満足げに、フランティクス帝は頷いた。
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※この場合の「温泉」は、日本のように入浴するのではなく、湧き出るお湯を、医師の処方のもと、飲用することです。温泉地は、皇族や貴族達の社交の場となっています
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