第36話 露顕
慌ててシェルブルンへ帰ったエドゥアルドを待っていたのは、しかし、ディートリッヒ先生ではなかった。部屋の中に入り込んでいたのは、叔父のフェルナー王子だった。
「クラウスは去ったぜ」
エドゥアルドの姿を見るなり彼は言った。
「は? どういうことです、叔父上。まさかあなた、また、クラウスを……」
「俺じゃない。フリッツ大公だ」
「フリッツ大公?」
◇
「エドゥアルドに妃をと、考えている」
伺候してきたクラウスに、フリッツ大公は言った。
「凡庸」と評されるフランティクス帝と違って、彼の弟フリッツ大公は非凡な人物だった。長男が帝位に就くことが原則でなければ、間違いなく彼が即位していただろう。それほど、臣下の人望も厚かった。先の戦では、自ら軍を率いて戦っている。
「相手は、エルヌ王家の皇女レティシア姫だ。メリッサ大公妃の末の妹だ」
「……」
クラウスは深く頭を垂れたままだ。
「メリッサにも困ったものだ。夫である俺の弟を差し置き、エドゥアルドと遊び歩いてばかりいる」
傍らからフェルナー王子が補足した。彼は、エドゥアルドの控えの間から、フリッツ大公の元へ向かうクラウスについてきていた。
「メリッサとエドゥアルドの間に、悪い噂が立つのも時間の問題だ。でも、彼女の妹とエドゥアルドが結婚する為の画策をしていた、というのなら、言い分もたつ」
「フェルナー、お前は黙っていろ」
フリッツ大公が甥を制した。頭を垂れ、服従を表しているクラウスに向き直る。
「エルヌの王族からは、
「……」
「それしか、あの子を、メトフェッセルの支配から逃れさせる道はない」
はっとクラウスの肩が動く。それに気づかず、フリッツ大公はため息をついた。
「私は、姪のマリーゼを可愛がってきた。
「……」
さらにフリッツ大公は続ける。
「なんでも、ユートパクスのルマン王朝の、マリア・アンナ姫との縁組みを、メトフェッセルが独断で握り潰したとか」
渋面を作った。
「宰相は、エドゥアルドを、ウィルンから一歩も出さぬ気だ。それどころか、結婚もさせぬつもりでいる。それでは、エドゥアルドがかわいそうだ。人の暖かさに触れずに飼い殺されるのは、あまりにむごい。……だから私は、エルヌ王家との婚姻をあの子に勧めた」
「それが、エドゥアルドのやつ、いとも簡単に、断ってきたんだ」
またもや、フェルナー王子が割り込んだ。今度は、フリッツ大公も諫めない。淡々とフェルナーは続ける。
「他に好きな人がいるから無理だって。あいつは、それが誰かは、とうとう口にしなかった。でも、そんなの、まるわかりだ。……クラウス。お前のことだ」
深い沈黙が落ちた。
フリッツ大公が口を切った。
「そもそもダンス講師は、メトフェッセルの人選だったと聞く。そうだな、フェルナー」
「御意」
再びの沈黙。
「汝は、この宮殿を去れ」
今回も沈黙を破ったのは、フリッツ大公だった。
「エドゥアルドを誑かしたことは咎めない。だが、これ以上は許さぬ。汝は、ここから、永遠に去るのだ」
◇
「馬鹿な!」
エドゥアルドは叫んだ。即座に走り出そうとする。
「待て。どこへ行く」
フェルナー王子が立ち塞がった。
「あいつなら、いないよ。もう、お前の手には戻らない」
「なんで、なんで、そんな。とにかく、」
エドゥアルドは、フェルナーの横をすり抜けようとした。
「クラウスを探しに行かなきゃ」
「やめておけ」
「そこをどいて下さい」
「そうはいかないね」
「どいて下さらないなら、いかに叔父上といえど……」
腰の剣に手をやる。フェルナーは動じない。
「メトフェッセルの秘密警察には、こちらの手の者もいてね。いわゆる逆スパイというやつだ」
エドゥアルドの肩をぐいと押し戻した。その目を覗き込む。
「クラウスは、『潜在的なゲシェンク』なんだって?」
「……」
思わず、エドゥアルドは息を飲んだ。
フェルナーが畳みかける。
「秘密警察は、ユートパクスからの刺客にお前が襲われたことまで把握している。それをかばって、『黒髪の若い男』が、刺されたことも。……ここで、クラウスが無事でいることがわかったら、ただではすまされない」
フェルナーを突き飛ばし、駆け出そうとしていたエドゥアルドの動きが止まった。
ゆっくりと、フェルナーは続けた。
「ゲシェンクは人の命を救える。死にかけた人を生き返らせることができるのだ。致命傷を負わされたクラウスが、今現在、生きているとしたら、やつには、ゲシェンクがついている、ということになる」
「それがどうしたというんだ。クラウスは、普通の人間だ」
思わず言い返し、エドゥアルドははっとした。これでは、クラウスがゲシェンクに救われたのだと、認めたようなものだ。
フェルナーは、全く動じなかった。暗い目をして、先を続ける。
「何よりまずいのは、あいつが、『潜在的』だということだ。守護すべき対象が定まっていない……つまり『潜在的なゲシェンク』は、非常に有益な
じっとエドゥアルドの顔を見た。
「今、メトフェッセルの娘が、病気で死にかけている。そいつに、クラウスの血を飲ませる。あるいは、俺……時期国王が暗殺されかけた時に。そうすれば、俺は蘇生する。無能な王を担いで、メトフェッセルは、いつまでもこの国を牛耳ることができる」
「なんだって!」
「いらねえよ、そんなの。俺は、自分の運命を受け入れる。だが、メトフェッセルは、そうは思わない」
エドゥアルドが唇を噛む。
「そうなれば、クラウスの生死は、やつに握られてしまう。クラウスを生かすも殺すも、すべて、メトフェッセルの胸ひとつだ。殺すも……永遠に苦しめ、死なせないのも」
「……」
エドゥアルドは息を詰まらせた。
「今、クラウスは死んだという噂を流させている。あいつが『潜在的なゲシェンク』などではなかったと、信じ込ませる為に」
青ざめたエドゥアルドの顔を、フェルナーは、冷たい表情で見下ろした。
「お前、この計画を台無しにする気か? クラウスがどうなってもいいのか?」
「クラウスは、無事なんだな?」
「さあな」
フェルナーは言った。
「だが、少なくとも、宮廷にいるより、ずっと安全だと保証するよ。あとは、運次第だ。お前が邪魔さえしなければ、あいつはもっと、普通に生きられる」
「普通に?」
「ゲシェンクになど、ならずに。『潜在的』なままでいられる。普通の人間としてい生きて、そのまま死ねる。お前は……、」
腕を握りしめ、ぐいと顔を近づけた。
「自分の病のことを忘れたか」
エドゥアルドの顔色が青ざめた。彼は、あとずさろうとした。だが、フェルナーが腕を掴んで許さない。
「お前が高熱を出したのは、11歳の時だったか?」
「子どもの頃の話だ。今はもう、すっかり治った!」
「治ってなんかいるものか。いいか、エドゥアルド。あれは、不治の病なんだ。治ったように見せかけて、今もお前の体の中に潜伏している。そしていつか……」
空いているほうの手を、フェルナーは、大きく広げた。不気味な笑いを浮かべ、襲い掛かるようなしぐさをしてみせる
ひるまず、エドゥアルドは彼を睨み返した。
笑っていたフェルナーが、真顔に戻った。
「ここにいれば、いずれまたクラウスは、お前の命を救おうとするだろう。いや、必ず救う。そしたら、あいつを殺せるか? お前にはあいつの最期を司る、勇気があるのか」
「クラウスは、ゲシェンクにはならない。僕が、させない」
「ふうん」
フェルナーは言ったが、納得していないのは明らかだった。それでも彼は、少しだけ目線をそらせた。
「探しに行くって、やみくもに探しても見つからなかろう。それともお前、心当たりでもあるのか?」
「……」
唇を噛みしめ、エドゥアルドがフェルナーを睨みつけた。何かを悟り、フェルナーは、にんまりと笑った。
「
「違う」
噛みつくようにエドゥアルドは答えた。
「必要のない時には彼のところには行かないと、クラウスは約束してくれた!」
「どうかな? お前も、そいつにだけは適うまい。手のかかるお前と違って、長きにわたって、クラウスを守ってきたんだ。恐らくこれから先も、ことあるごとにクラウスを救い、護るのだろう。お前は、逆立ちしたって、そいつには適わない」
「そんなことはない! あなたはただ、僕を不安に陥れようとしているだけだ! ただ、子どもっぽい幼稚な嫉妬から……」
「フハハハハハッ!」
耐えきれないといったように、フェルナーは大笑した。
「子どもに子どもっぽいと言われるなんて! これはおかしい。そうだよ、エドゥアルド。俺はお前に嫉妬している。子どものくせに、俺の獲物をかっさらったお前に」
「クラウスはあなたのものなんかじゃない! それから、僕はもう子どもじゃない!」
強く腕を振って、フェルナーの手を払いのけた。脇をすり抜ける。一直線に、走り出した。
駆けていく背中に向かい、フェルナーが言い放った。
「エドゥアルド。クラウスは、な。メトフェッセルから命じられて、お前と寝てたんだよ」
ぴたりと、エドゥアルドの足が止まった。
「え……?」
「言葉通りだ。……愛なんかじゃない。同情ですらない。単純に、この国の宰相から命令されたから、あいつは、お前と寝た」
「嘘だ」
「嘘なものか」
「そんなこと、信じない」
「お前に嘘をついて、俺に何の得がある?」
大声でフェルナーは笑った。凍り付いたように立ち竦んでいるエドゥアルドを追い抜き、悠々と立ち去った。
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