7
第37話 「踊る犬」亭のハンナ
クラウスは、エマを探していた。
エマから連絡があったら、すぐにクラウスに知らせる。……馬車屋のシモンとは、すでに話をつけた。多少高くついたが、仕方がない。
あとは、エマに言い含めるだけだ。ギルベルトにもしものことがあったら、シモンに伝えるように、と。
下宿には立ち寄らなかった。フェルナー王子が、下宿には戻るなと言ったからだ。
……「すぐに、ウィルンから出るんだ。これ以後、シェルブルン宮殿にも下宿にも、決して近寄ってはならない」
彼はそう言って、いくばくかの資金を手渡した。
奇矯な男ではあるが、理由もなく、そんなことを言う人ではない。それに、エドゥアルドのことを考えたら、完全に姿を消すのが一番だ。できる限り早急に。
最後に一目、エドゥアルドに会いたかった。物陰から覗くだけでもいい。
もちろん、そんなことは許されない。
他に好きな人がいるから、エルヌ王国の皇女との結婚はできないと、エドゥアルドは言ったという。
……「クラウス。お前のことだ」
フェルナーの言葉が蘇る。
クラウスの頬が、紅潮した。
馬鹿な。自分なんかの為に、プリンスは有利な結婚をフイにしようというのか。せっかくフリッツ大公が調えてくれたというのに、国外へ逃れる算段を無に帰そうとしているのか。
……最初から、無茶な話だったんだ。
クラウスは考えた。
……普通に、男と女だって。
……身分というものがある。
……ましてや、男同士……。
どんどんどんどん、早足になる。
……終わったんだ。
……終わるべきものが。
……こんなこと、なんでもないことだ。また、一人に戻っただけだ。
そもそも、どうしてプリンスは、自分を好きになってくれたのだろう。とりとめもなく、クラウスは考え続ける。つまらない、取り柄のない人間を。
初めて会った時、彼はクラウスを知っているようだった。クラウスの方は、全く心当たりがないというのに。それからはもう、ただただ押しまくられた。
初めは迷惑だった。メトフェッセル宰相の命令だからと、ひたすら耐えた。
確かに自分は、エドゥアルドを憎んでいた。母を奪い父を死なせた仇の、子だ。存在そのものが許せなかった。
それがいつの間にか……。
重苦しいため息が、口から洩れた。
……プリンスだって、オーディン・マークスの被害者なのに。
本当に申し訳ないことをしたと、今では思う。彼と寝るべきではなかった。断固として、拒絶すべきだった。初めが、間違っていたのだ。
こうして関係を断ち切ることができて、幸せだった。憎まれても恨まれてもいい。これでもう、プリンスを傷つけなくて済む。
エルヌ国のレティシア姫は、優しく美しい姫君だと聞く。プリンスはきっと、幸せになれるだろう。
エルヌ王家の助けを借りれば、メトフェッセルの支配からも脱出できる。初めて彼は、自分の人生を生きることができるのだ。
もう二度と、彼に会うことはない。自分との仲は、自然の道理に外れたおかしな関係だった。もう二度と、彼に会ってはいけない。
クラウスは、川を渡って、どこか遠くに行くつもりだった。
でも、その前に、ギルベルトとの繋がりを確保しなければならない。彼の安否を把握できる手段を、残しておかねばならない。ゲシェンクに助けられた者としての責任を果たすために。彼を安らかな死の
直接会うつもりはない。だって、プリンスと約束したから。ギルベルトとは出来る限り会わないと。
エマ。あの赤いスカートの女の子は、どこにいるのだろう。
◇
町の外れまで来たときだった。
閉まっていた店の戸が、突然開いた。「踊る犬亭」……文字の剥げかけた看板が、ちらりと見えた。
目の前に、赤毛の女が立ち塞がった。
「あんた、クラウスだろ?」
女は言った。
「クラウス・フィツェックだね?」
女に気圧されるようにクラウスは頷いた。
「初めに言っておくけど、」
薄暗い酒場にクラウスを引っ張り込み、女……ハンナは言った。
開店前の酒場には、二人の他、誰もいなかった。かすかに饐えたような匂いが漂っている。
「あたしは、あの人とは寝ていないよ」
あの人がギルベルトを指すことは、すぐにわかった。しかし、寝ていない、とは?
「でも、君とギルベルトは、結婚したって、」
ふん、と女は鼻で笑った。
「契約……この言葉で合ってるかい?……したんだ。あたしは、形だけギルベルトの妻になる。ギルベルトは、あたしに生活費を渡す。あたしはもう、身を売らなくて済む」
「は? なんだそれ?」
わけがわからない。
「形だけの夫婦ってやつさ。あたしたちは、一緒に住んでさえいない」
「……」
クラウスは絶句した。
「なんだってまた、そんな!」
「あんたの為に決まってるだろ」
せせら笑うようにハンナが答える。
「僕の為? どうしてそうなる」
「あんたが、どこかの誰かを捕まえて、幸せになれるようにさ。ギルベルトが言うには、自分は邪魔なんだと」
クラウスの思考が停止した。
「……よく、わからない」
「さっさと家に帰って来れば良かったんだよ。そうすれば、あの人がどんな暮らしをしているか、一目でわかったものを。薄情だよ、あんたは」
出て行った時のままに保たれた自分の部屋のことを、クラウスは思い出した。
胸が抉れた。
「僕は……、ギルベルトの幸せを考えて……」
「は! 『踊る犬亭』のハンナと結婚して、幸せになるって? あんた、馬鹿かい」
ハンナは嘲った。
「あんたは逃げたんだろ? それとも、逃げたのはギルベルトの方? どっちにしたって馬鹿だよ。あんたたちは、二人して、大馬鹿だ」
言い切り、ハンナは背を向けた。酒樽から透明な酒を注いで、クラウスに押しやる。
「飲みな」
グラスをひっつかみ、クラウスは一息に飲み干した。かっと、喉が焼ける。
「でも、あんたは、ギルベルトとの繋がりを切ろうとしなかった。細い細い糸の先を、必死で握ってた」
静かな声でハンナが言う。
「どうして、それを?」
クラウスはうろたえた。隠れてギルベルトの様子を探りに来ていた姿を、ハンナに見られたのかもしれない。
だが、ハンナの答えは違った。
「エマはね。あたしの妹の子なんだよ」
……「ハンナの旦那さん?」
ギルベルトの名を出した時、エマが最初にこう問うたことを、クラウスは思い出した。ギルベルトの妻の名を聞かされ、あの時は動揺してしまったけど。
ということは、エマが石をぶつけてきたのは、ギルベルト絡みだったのだろうか。ギルベルトが伯母を省みないのはクラウスのせいだと知っていて、だから。
……自分のせい? 馬鹿な。
それではまるで、ギルベルトがクラウスを好きでいるみたいではないか。事実は全く逆なのに。
「そういえば、あんたが刺されたって、あの子、大騒ぎしてたけど、もう大丈夫なのかい?」
「あ、ちょっとした行き違いがあって、」
ガラスのグラスを拭きながらハンナが問うのを、クラウスは受け流した。一緒にいたエドゥアルドのことを、気配さえも悟らせるわけにはいかない。
「うん、ギルベルトもそう言っていた。どのみち、かすり傷だったんだってね。それなのにエマったら、この世の終わりのような大騒ぎをして、泣き喚いて、」
くすりと、ハンナは笑った。
「どうやらエマは、あんたのことが好きみたい。もう7~8年もしたら、あの子はえらいべっぴんになるよ。覚えておくといい」
優しい目で、クラウスを見た。
「でも今は、ギルベルトの所に帰りな。あの人はきっと、あんたの帰りを待っている」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます