第35話 奥様?
エドゥアルドは、あくびをした。こっそり、オペラ劇場の端に掛けられた時計に目をやる。
隣のメリッサ大公妃は、楽しそうだった。舞台の歌声をじっと聞き入っている。時折、感に堪えないといった風に、隣に座っているエドゥアルドの膝を叩く。
長い退屈なオペラがやっと終わった。一般客に混じって、馬車に向かう。エドゥアルドが腕を直角に曲げ、肘の下辺りにメリッサが手を添えている。
時々、二人の正体を知る者が、ぎょっとしたように立ち止まった。だが彼らは、詮索するような野暮はしない。不躾にならぬように視線をそらし、そっと通り過ぎていく。
「少し踊りたいの」
エドゥアルドのエスコートで並んで歩きながら、メリッサが言う。
「体を動かしたいの」
「でも、今から踊りに行ったら、帰りは夜中になってしまう。またにしようよ、メリッサ」
「大丈夫よ。そんなに遅くならないわ。今日は嫌なことがあったの。くさくさするわ。つきあってよ、エドゥアルド」
メリッサが何に「くさくさ」しているか、エドゥアルドには、だいたい予想がついていた。
エドゥアルドの叔父であるフラノ大公と結婚して5年。未だに子ができないメリッサに、周囲の風当たりはきつい。次期皇帝フェルナー王子は「うつけ」だと噂されているのだから、なおさらだ。フェルナーの弟・フラノ大公の子は、次か、その次の皇帝になる可能性が高い。メリッサの妊娠が、今か今かと待たれるのも、無理はない。
「仕方がないなあ。メリッサにはいろいろお世話になっているからなあ」
お茶会に呼ばれて、貴族たちの世辞漬けになったり、欲しくもない装身具を与えられたり、そういったことばかりなのだけれども。
「そうよ。日頃のツケを、こういう時に返しなさいよ」
わが意を得たりとでもいうように、メリッサはにっこりと笑った。
「でも、フラノ大公は心配なさらないのかい? こんなに遅くまで、愛する奥方が出歩いていて、」
「あの人の話はしないで」
ぴしゃりとメリッサが言い放つ。
「あの人って、君の夫君じゃないか」
「今はあなたといるの、エドゥ」
「誰といたって、夫は夫だろう……」
「あら、エドゥアルド!」
華やかな声が呼びかけた。髪を高々と結い上げた令嬢が手を振っている。腰を締め上げたドレスが、体のラインを際立たせて見せている。
「今晩は、来てたのね。この頃ちっとも遊んでくれないじゃない」
アルディーヌ伯爵令嬢だ。隣にルードルヒ・エステルがいて、こちらを見て、にやりと笑った。彼らのことを、なぜかクラウスは、そしてディートリッヒ先生も、毛嫌いしている。
「ルードルヒたちと、これから私の館で踊り明かすの。あなたも……あっ!」
アルディーヌの脇を、ルードルヒが強めにつついた。エドゥアルドの隣に誰がいるかに気が付いて、アルディーヌの顔に驚愕の色が浮かんだ。
「ええと、おっ、お初にお目にかかります、メリッサたいこう……」
「しっ、アルディーヌ」
わざとらしい慌てぶりで、ルードルヒが彼女を黙らせる。
「素晴らしいオペラでしたね。彼女は、酔ってしまったようです。無礼をお許し下さい、マダム。先約がありますので、僕たちはここで失礼致します。ご機嫌よう……今夜は、他の奴らも呼んで、夜通し騒ぐつもりだ。来れたらおいで」
最後の言葉は、エドゥアルドに向けられたものだ。曖昧に、エドゥアルドは頷いた。
「なあに、あれ」
二人が立ち去ると、メリッサは言った。むっとした顔をしている。
「あの子のドレス、胸を強調しすぎだわ。唇と頬の色も不自然に赤いし。みっともないったら、ありゃしない」
「あれが、今年の流行らしいです」
エドゥアルドは言った。
「それよりメリッサ、踊りたいなら、急いだほうがいい」
クラウスの夜伽は昨夜だったから、今夜は違う。だから、少しくらい遅くなってもかまわない、と、エドゥアルドは思った。
ほんとに、ゆうべのクラウスときたら、なんて可愛かったろう。あの潤んだ黒い瞳、小さく開けた口、吸いつくように滑らかな肌。
朝の光を浴びた白い体のきれいだったこと! 思い出すだけで、本当に、……。
「そうね。急ぎましょう」
気分を変えて、メリッサが足を速める。
……今夜の伽は、誰だっけ?
クラウスから気持ちを逸らせようと、エドゥアルドは考える。
フォルスト大尉の分は、クラウスに回してもらったし……固いベッドに寝なくて済んで、大尉はほっとしていた……、ええと、……。
「げ。今夜はダメだ、メリッサ」
思わず立ち止まる。腕を借りていたメリッサが、軽く前へのめった。
「僕、早く帰らなくちゃ。ごめん、メリッサ」
「なによ。どうしたのよ?」
エドゥアルドの突然の態度の変化に、メリッサは戸惑っている。
「今夜は、ディートリッヒ先生の当番なんだ。ええと、その、夜、隣の部屋で警護に当たる……」
メリッサの顔が、微妙に歪んだ。
「あなた、まだ、夜伽なんかつけてるの?」
ウィスタリア王家では、幼い子どもに夜伽をつける。
「いや、その、先生が、どうしてもって」
クラウスを宮殿に泊める為に夜伽の習慣を続けている、とは、まさか言えない。
「ディートリッヒ先生は、僕のことが心配なんだよ……」
「まあ、あの先生なら、そうかもね」
「早く帰らないと叱られる」
「……まったく、ディートリッヒ先生は、あなたの奥様なのかしら」
ため息とともに、メリッサは言った。
「それも、とっても口うるさい……」
「奥様?」
立派な口ひげ、正しい姿勢、謹厳実直なディートリッヒ先生がドレスを着ている姿を、エドゥアルドは思い浮かべた。
思わず爆笑した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます