6
第34話 今夜の当番はディートリッヒ先生
「おかしいではないか」
ウィスタリア宰相メトフェッセルは、警察長官に言った。
「その男は、エドゥアルド・ロートリンゲン公爵を刺そうとした、と言っておるのだな?」
「はい」
長官は、宰相の前に片膝をついて、恭順の意を表している。
「だが、黒い髪の若い男に邪魔された。それで、プリンスをかばったこの男を刺してしまった、と」
「言葉通り、大量の血の跡が残されていました。しかし、現場は混乱しておりました。いつの間にやら、プリンスも、刺された男も消え……」
「言い訳は要らぬ」
ぴしりとメトフェッセルは言い放った。
警邏隊が逮捕したのは、ユートパクスから来た刺客だった。オーディン・マークスの次の王朝、ルマン王朝の差し金だった。
民衆の革命王、オーディンと違って、王政へ回帰したルマン朝の評判は悪い。ルマン朝の為政者達は、未だに続くオーディンの人気を憎んでいた。そしてその息子エドゥアルドが王座に返り咲くのを、警戒していた。
いっそのこと、娘婿に取り込んでしまえという意見もあった。オーディンの人気を、息子ごとルマン王朝に取り込むのだ。そうすれば、現王朝への民衆の信頼は増すであろう。
ユートパクスのターラン首相が、9歳の皇女ソフィー・ルイーズと、エドゥアルドの結婚を打診してきたのは、そういういきさつからだった。
だがこの縁組は、ウィスタリアのメトフェッセル宰相によって、すげなく却下されてしまった。行き場を失ったルマン王朝の危機感は、エドゥアルド王子暗殺へと、極端に傾いていったというわけだ。
「そいつが狙ったのは、間違いなくプリンスだったのか?」
メトフェッセルが尋ねた。
「はい。シェルブルン宮殿から、後をつけたらしいです。プリンスは途中で怪しげな衣装に着替え、下町へ向かった由」
「で、刺された男は誰なのだ? 黒髪のその青年とは?」
「それが、皆目見当もつかず……」
面目なさげに、長官は項垂れた。
「申し訳ございません」
「よい」
メトフェッセルは答えた。
「あらかた予想はついている。それで、プリンスは何と?」
「刺客に襲われた件につきましては、否定はされませんでした。目撃者が多かったので。中には、ロートリンゲン公だと見抜いた者もおりました」
それはそうだろう。彼はこの国の王族なのだから。それも、人気の高い。
「プリンスにおかれましては、何が起こったのか、自分にも訳がわからないとおっしゃっています。気が動転し、途中から記憶がないのだそうです」
「はっ! 動転? オーディン・マークスの息子がか?」
馬鹿にしたようにメトフィッセルが鼻で笑う。
「とにかく、そう申されております。今現在は、シェルブルン宮殿にて、常と変わらぬ日々をお過ごしでございます」
「ふむ」
メトフィッセルは頷いた。
「ならば至急、やつの安否を確認せねばならぬな」
「やつ? どなたの、でございますか?」
「プリンスに与えた玩具の、だよ」
黒髪の青年が誰か、目撃者の証言から、宰相には心当たりがあった。
……だが、シェルブルン宮殿からは、欠員の補充要請は来ていない。
……もし、あの若者が健在だとすると、
長官の退出した部屋で、メトフェッセルは考えた。
……伝説は、本当のことだったということになる。
……俄かには信じがたいことではあるが。
……そうとしか、説明がつかぬ。
長い指先で、こつこつと、テーブルを叩いた。
……古い書物に書かれていた、あの伝説。
……あれは、何と言ったか。
……そう、
己の血でもって、他者の命を贖う魔物……ゲシェンク。
つまり彼には、守護してくれるゲシェンクがいたということだ。いかなる怪我も病気も、たちどころに治してしまう……。
そして、ここが大切なところだが、彼自身もまた、他者を守護する力を隠し持っている、ということだ。それは、相手を死の淵からも生還させることのできる、強大な
……すでに、誰かを選んだのか。
もし、クラウス・フィツェックが潜在的なゲシェンクだとすると、この計画は、全く別の様相を帯びてくる。
彼は、凶刀の前に躍り出て自らの身を盾に、プリンスを守ろうとしたという。
……人の心は、全くわからぬものだ。
メトフェッセルは思った。
……父を殺めた者の子への嫌悪で、身を震わせていたというのに。
まずは、クラウスの安否を確かめることだ。潜在的なゲシェンクには、いくらでも使い道がある……。
◇
朝の光の中で、クラウスは目を覚ました。
……いけない。早く起き上がって、控えの間に移動しなくては。
……服と靴を忘れずに。
ゆうべは、エドゥアルドの「夜伽」だった。新たにクラウスが「夜伽」に加わり、他の家庭教師達は喜んでいた。自分たちの当番が減るからだ。狭い控えの間で、固い簡易ベッドに寝るのは、年配の先生方には苦痛だったのだ。
ただし、ディートリッヒ先生だけは例外で、この為、プリンスの夜伽は、実質、クラウスとディートリッヒの二人で、ほぼ二分されていた。
シェルブルン宮殿の人たちは、プリンスが凶漢に襲われたとは思っていない。そのような噂が一人歩きしているのは、宰相メトフィッセルのいやがらせだと思っている。
少なくとも、シェルブルンでの平穏な生活が崩されることはなかった。
起きようとしたクラウスは、エドゥアルドに引っ張られた。
「大丈夫。まだ朝早い。今朝はゆっくりするって、言ってある」
「ですが、プリンス……」
むっくりとエドゥアルドが起き上がった。
クラウスの頭の上から、ばさりと羽根布団を被せられた。同じ布団に潜り込んだエドゥアルドが、肌を摺り寄せてくる。
ぴったりとくっついて、クラウスの足の間に、割り込んだ。上に重なり、顔を寄せる。優しい口づけが落ちてくる。大きく息を吸って、クラウスはそれを受け止めた。
何度も何度も口づけた。
クラウスの首元に顔を埋め、エドゥアルドは、くすくすと笑っている。
重なり合った二人の4本の足が、複雑に絡まる。もぞもぞと動き、布団からクラウスの足がはみ出た。裸の足に、朝の空気が冷たい。
クラウスの、なけなしの理性が戻った。
……危ない。また、流されるところだった。
エドゥアルドをはねのけるようにして起き上がった。
……このままでいたら、また始めてしまう。
エドゥアルドを止められる自信はなかった。それどころか、自分を抑えられる自身さえない。
……朝からそんな、だって、そんな……。
顔を赤らめ、床にちらばっていた服を拾った。足早に、控えの間へと移動していく。
手早く服を身に着けていると、柔らかい足音が聞こえた。一糸まとわぬエドゥアルドがそこにいた。奇跡のようなその裸身に、クラウスは、しばし見惚れた。
だがそれは、すぐに狼狽に変わった。
「いけません、プリンス。ここは、あなたの来る部屋ではありません」
「クラウス、」
甘えた声でエドゥアルドが名を呼ぶ。この声はダメだ。こんな風に甘えられたら、クラウスには拒否できない。
「クラウス……」
エドゥアルドは、それを知っている。羽織ったばかりのシャツを、剥ぎ取られた。小さな簡易ベッドに押し倒される。
体中にキスされた。時折、強く、ちゅっと吸われる。
「いっ、」
痛いけど、甘い。
体中くまなく舌が這っていく。普段触られることのない場所まで移動する優しく甘い愛撫に、頭がぼうっとしてきた。
腰の下にクッションが押し込まれた。
はっと、クラウスは我に返った。
「ここではダメです。だってこのベッドは……」
今夜は、ディートリッヒ先生がお使いになるんですよ……。
そこまで言う余裕はなかった。
……。
◇
「何をしているんだ、クラウス」
肩越しに声を掛けられ、クラウスは飛び上がった。
エドゥアルドは、朝の教練に出ている。控えの間には、いつの間にやら、フェルナー王子が入り込んでいた。
「部屋に入る時は、ノックくらい、なさって下さい」
てきぱきと寝具を整えながら、クラウスは答えた。
「昨夜は夜伽でしたから、次の先生の為に、片付けを」
「ふうん。片づけねえ」
フェルナーは、クラウスの手元を覗き込んだ。
「エドゥアルドのやつ、ついに続きの間でも、ことに及ぶようになったか」
「ななな何ですって?」
クラウスは狼狽した。
「あいつのベッドを『片づけた』のも、お前だろ? そんなの、侍従に任せればいいのに」
「じじ時間があったものですから」
「時間があると、洗濯女の真似もするのか? 大変だな、家庭教師というのも」
クラウスは真っ赤になった。
「うう……、フェルナー王子……私に何か、ご用ですか?」
「ああ、ご用だ。ただし、用があるのは俺ではない。フリッツ大公がお呼びだ」
「フリッツ大公?」
フリッツ大公というのは、今上帝フランティクス帝の弟君だ。先の戦争では、ウィスタリア軍を率いて、最後までオーディン・マークスを苦しめた。ギルベルトがいた軍の総司令官だ。
そんな高貴な人物が、自分に、いったいどのような用があるというのだろう……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます