第34話 今夜の当番はディートリッヒ先生


 「おかしいではないか」

ウィスタリア宰相メトフェッセルは、警察長官に言った。

「その男は、エドゥアルド・ロートリンゲン公爵を刺そうとした、と言っておるのだな?」

「はい」

長官は、宰相の前に片膝をついて、恭順の意を表している。

「だが、黒い髪の若い男に邪魔された。それで、プリンスをかばったこの男を刺してしまった、と」

「言葉通り、大量の血の跡が残されていました。しかし、現場は混乱しておりました。いつの間にやら、プリンスも、刺された男も消え……」

「言い訳は要らぬ」

ぴしりとメトフェッセルは言い放った。


 警邏隊が逮捕したのは、ユートパクスから来た刺客だった。オーディン・マークスの次の王朝、ルマン王朝の差し金だった。

 民衆の革命王、オーディンと違って、王政へ回帰したルマン朝の評判は悪い。ルマン朝の為政者達は、未だに続くオーディンの人気を憎んでいた。そしてその息子エドゥアルドが王座に返り咲くのを、警戒していた。

 いっそのこと、娘婿に取り込んでしまえという意見もあった。オーディンの人気を、息子ごとルマン王朝に取り込むのだ。そうすれば、現王朝への民衆の信頼は増すであろう。

 ユートパクスのターラン首相が、9歳の皇女ソフィー・ルイーズと、エドゥアルドの結婚を打診してきたのは、そういういきさつからだった。

 だがこの縁組は、ウィスタリアのメトフェッセル宰相によって、すげなく却下されてしまった。行き場を失ったルマン王朝の危機感は、エドゥアルド王子暗殺へと、極端に傾いていったというわけだ。


 「そいつが狙ったのは、間違いなくプリンスだったのか?」

メトフェッセルが尋ねた。

「はい。シェルブルン宮殿から、後をつけたらしいです。プリンスは途中で怪しげな衣装に着替え、下町へ向かった由」

「で、刺された男は誰なのだ? 黒髪のその青年とは?」

「それが、皆目見当もつかず……」

面目なさげに、長官は項垂れた。

「申し訳ございません」

「よい」

メトフェッセルは答えた。

「あらかた予想はついている。それで、プリンスは何と?」

「刺客に襲われた件につきましては、否定はされませんでした。目撃者が多かったので。中には、ロートリンゲン公だと見抜いた者もおりました」

 それはそうだろう。彼はこの国の王族なのだから。それも、人気の高い。

「プリンスにおかれましては、何が起こったのか、自分にも訳がわからないとおっしゃっています。気が動転し、途中から記憶がないのだそうです」

「はっ! 動転? オーディン・マークスの息子がか?」

馬鹿にしたようにメトフィッセルが鼻で笑う。

「とにかく、そう申されております。今現在は、シェルブルン宮殿にて、常と変わらぬ日々をお過ごしでございます」

「ふむ」

メトフィッセルは頷いた。

「ならば至急、やつの安否を確認せねばならぬな」

「やつ? どなたの、でございますか?」

「プリンスに与えた玩具の、だよ」


 黒髪の青年が誰か、目撃者の証言から、宰相には心当たりがあった。


 ……だが、シェルブルン宮殿からは、欠員の補充要請は来ていない。

 ……もし、あの若者が健在だとすると、


 長官の退出した部屋で、メトフェッセルは考えた。


 ……伝説は、本当のことだったということになる。

 ……俄かには信じがたいことではあるが。

 ……そうとしか、説明がつかぬ。


 長い指先で、こつこつと、テーブルを叩いた。


 ……古い書物に書かれていた、あの伝説。

 ……あれは、何と言ったか。

 ……そう、贈り物ゲシェンク


 己の血でもって、他者の命を贖う魔物……ゲシェンク。

 つまりには、守護してくれるゲシェンクがいたということだ。いかなる怪我も病気も、たちどころに治してしまう……。

 そして、ここが大切なところだが、自身もまた、他者を守護する力を隠し持っている、ということだ。それは、相手を死の淵からも生還させることのできる、強大な能力ちからだ。


 ……すでに、誰かを選んだのか。

 もし、クラウス・フィツェックが潜在的なゲシェンクだとすると、この計画は、全く別の様相を帯びてくる。

 彼は、凶刀の前に躍り出て自らの身を盾に、プリンスを守ろうとしたという。

 ……人の心は、全くわからぬものだ。

 メトフェッセルは思った。

 ……父を殺めた者の子への嫌悪で、身を震わせていたというのに。


 まずは、クラウスの安否を確かめることだ。潜在的なゲシェンクには、いくらでも使い道がある……。



 朝の光の中で、クラウスは目を覚ました。


 ……いけない。早く起き上がって、控えの間に移動しなくては。

 ……服と靴を忘れずに。


 ゆうべは、エドゥアルドの「夜伽」だった。新たにクラウスが「夜伽」に加わり、他の家庭教師達は喜んでいた。自分たちの当番が減るからだ。狭い控えの間で、固い簡易ベッドに寝るのは、年配の先生方には苦痛だったのだ。

 ただし、ディートリッヒ先生だけは例外で、この為、プリンスの夜伽は、実質、クラウスとディートリッヒの二人で、ほぼ二分されていた。


 シェルブルン宮殿の人たちは、プリンスが凶漢に襲われたとは思っていない。そのような噂が一人歩きしているのは、宰相メトフィッセルのいやがらせだと思っている。

 少なくとも、シェルブルンでの平穏な生活が崩されることはなかった。


 起きようとしたクラウスは、エドゥアルドに引っ張られた。

「大丈夫。まだ朝早い。今朝はゆっくりするって、言ってある」

「ですが、プリンス……」

 むっくりとエドゥアルドが起き上がった。

 クラウスの頭の上から、ばさりと羽根布団を被せられた。同じ布団に潜り込んだエドゥアルドが、肌を摺り寄せてくる。

 ぴったりとくっついて、クラウスの足の間に、割り込んだ。上に重なり、顔を寄せる。優しい口づけが落ちてくる。大きく息を吸って、クラウスはそれを受け止めた。

 何度も何度も口づけた。

 クラウスの首元に顔を埋め、エドゥアルドは、くすくすと笑っている。

 重なり合った二人の4本の足が、複雑に絡まる。もぞもぞと動き、布団からクラウスの足がはみ出た。裸の足に、朝の空気が冷たい。

 クラウスの、なけなしの理性が戻った。

 ……危ない。また、流されるところだった。

 エドゥアルドをはねのけるようにして起き上がった。

 ……このままでいたら、また始めてしまう。

 エドゥアルドを止められる自信はなかった。それどころか、自分を抑えられる自身さえない。

 ……朝からそんな、だって、そんな……。

 顔を赤らめ、床にちらばっていた服を拾った。足早に、控えの間へと移動していく。


 手早く服を身に着けていると、柔らかい足音が聞こえた。一糸まとわぬエドゥアルドがそこにいた。奇跡のようなその裸身に、クラウスは、しばし見惚れた。

 だがそれは、すぐに狼狽に変わった。 

 「いけません、プリンス。ここは、あなたの来る部屋ではありません」

「クラウス、」

 甘えた声でエドゥアルドが名を呼ぶ。この声はダメだ。こんな風に甘えられたら、クラウスには拒否できない。

「クラウス……」

 エドゥアルドは、それを知っている。羽織ったばかりのシャツを、剥ぎ取られた。小さな簡易ベッドに押し倒される。

 体中にキスされた。時折、強く、ちゅっと吸われる。

 「いっ、」

 痛いけど、甘い。

 体中くまなく舌が這っていく。普段触られることのない場所まで移動する優しく甘い愛撫に、頭がぼうっとしてきた。

 腰の下にクッションが押し込まれた。

 はっと、クラウスは我に返った。

「ここではダメです。だってこのベッドは……」

今夜は、ディートリッヒ先生がお使いになるんですよ……。

 そこまで言う余裕はなかった。

 ……。



 「何をしているんだ、クラウス」

 肩越しに声を掛けられ、クラウスは飛び上がった。

 エドゥアルドは、朝の教練に出ている。控えの間には、いつの間にやら、フェルナー王子が入り込んでいた。

 「部屋に入る時は、ノックくらい、なさって下さい」

てきぱきと寝具を整えながら、クラウスは答えた。

「昨夜は夜伽でしたから、次の先生の為に、片付けを」

「ふうん。片づけねえ」

フェルナーは、クラウスの手元を覗き込んだ。

「エドゥアルドのやつ、ついに続きの間でも、ことに及ぶようになったか」

「ななな何ですって?」

クラウスは狼狽した。

「あいつのベッドを『片づけた』のも、お前だろ? そんなの、侍従に任せればいいのに」

「じじ時間があったものですから」

「時間があると、洗濯女の真似もするのか? 大変だな、家庭教師というのも」

 クラウスは真っ赤になった。

「うう……、フェルナー王子……私に何か、ご用ですか?」

「ああ、ご用だ。ただし、用があるのは俺ではない。フリッツ大公がお呼びだ」

「フリッツ大公?」


 フリッツ大公というのは、今上帝フランティクス帝の弟君だ。先の戦争では、ウィスタリア軍を率いて、最後までオーディン・マークスを苦しめた。ギルベルトがいた軍の総司令官だ。

 そんな高貴な人物が、自分に、いったいどのような用があるというのだろう……。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る