第30話 刺客 2


 クラウスを刺した男は捕らえられ、警邏部隊が引っ張って行った。

 クラウスの出血はひどかった。

 「医者を! 医者を!」

 血だらけの体を抱き、エドゥアルドは半狂乱だった。

 だが、ここは庶民の町だ。そう簡単に、医者がいるはずがない。集まってきたやじ馬たちは、気の毒そうにこちらを見るだけだ。


 「来い」

 そう言ったのは、背の高い男だった。彼の前に立っていた女の子が、さっと赤いスカートを翻して駆け去っていった。

 ナイフが刺さったままのクラウスを、男はひょいと抱き上げた。

「何をする! 返せ!」

 こんなにひどい出血なのに、動かしていいわけがない。エドゥアルドは男にしがみついた。クラウスを抱き上げたその腕に噛みついた。

「馬鹿者。こいつを死なせたいか。お前も、さっさとついてこい」

 エドゥアルドを叱りつけ、男は歩き出した。



 連れてこられた先は、一軒の家だった。どうやら男の住み家らしい。

「クラウスを死なせたくなかったら、ここでじっとしてろ。邪魔をするな」

 男はクラウスを抱いたまま二階へ上がり、奥の部屋に入っていった。続いて階段を上ってきたエドゥアルドの鼻先で、ドアが閉まる。

 男は、クラウスの名前を知っている。そのことが、エドゥアルドの胸を突いた。


 しばらくして、ドアが開いた。血だらけの男が顔を出す。なぜか彼は、腕に傷を負っていた。

「もう大丈夫だ。傷はすっかり治った」

 そんな風に言われて、信じられるわけがない。

 「クラウスに会わせろ」

エドゥアルドは詰め寄った。男は肩を竦め、室内へ導く。

 そこは寝室だった。クラウスは、青白い顔をしてベッドに横たわっている。がくがく震える足で、エドゥアルドは彼に近づいた。

 あの禍々しいナイフは、引き抜かれていた。けれどあれが、出血を止める栓になっていたはずだ。それを無造作に引き抜いたりしたら……。

 でも、確かにクラウスは生きている。生きて、呼吸をしていた。


 「シャツをめくってみろ。傷はすっかり消えているから」

後ろから男の声がした。

 言われるままにシャツをめくり……途中ではっとした。

「お前、出ていけ」

「は?」

「出て行けと言っている」

「なぜ」

「クラウスを見るな」

「……お前な」

呆れた声が降ってきた。

「こいつのシャツを着替えさせたのは誰だと思ってるんだ。血だらけの腹を拭き清めてやったのは誰だと?」

「触ったのか? クラウスに? ……この、」

「おい、何をする、乱暴な」

エドゥアルドの拳を軽くよけ、男は言った。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろう。とにかく腹を見ろ」

 そうだった。男の視界から遮る位置に自分が立って、そろそろとシャツをめくる。

 傷は……消えていた。肉の薄い腹が、健やかに上下していた。



 そして、エドゥアルドは聞かされた。

 この男……ギルベルト・ロレンスは、ゲシェンクであること。クラウスは、彼が命を救い、その生涯に亙って守護する存在であること。そして、ギルベルトを死なせることのできる、たった一人の人間であること。


 「最初は、まだ、子どもだった」

ギルベルトは話し始めた。

「父親に猟銃で撃たれて、血まみれで倒れていた」

エドゥアルドは息を飲んだ。

「父親に、……猟銃で? でも、クラウスは、父親は猟銃自殺をしたと……」

「そうだ。息子を道連れに自殺しやがったんだ。俺が見つけた時、父親は既に死んでいた。でも、子どもはまだ、息をしていた。俺は咄嗟に、その子に自分の血を与えた。そして俺は、ゲシェンクになった」

「ゲシェンク……」

「クラウスの父親は、ユートパクスとの戦いで没落した地方貴族だ。オーディンが変な経済政策を敷いたせいで、古い考えの貴族や領主は、割を食った」

 辛辣な口調で、ギルベルトは続ける。

「農産物が売れなくなり、小作人からの税が入らなくなった。先祖代々の荘園は借金の抵当にとられた。母親はずっと前に、そんな夫に愛想を尽かして出て行ったという。つまりこいつの家庭は、オーディン・マークスに破壊されたようなものだ。そして、オーディン軍が侵攻してきた時に、父親は死に、自分も殺されかけた」

「……やっぱり」

「やっぱり?」

「クラウスは違うと言った。でも、違ってなんかいなかったんだ……」

「あんた、エドゥアルド・ロートリンゲン公爵だな。オーディン・マークスの息子の。皇帝陛下の孫だ」

 エドゥアルドには嘘はつけなかった。

「そうだ」

 ギルベルトはじっと彼を見つめた。

「俺はあんたを知っている。8年前のことだ。馬車に乗っていたあんたを、クラウスがさらった。馬車は、車軸がおかしかった。あのまま山道に入っていたら、車輪は壊れ、谷底に真っ逆さまだったろう」

「お前……」

言いかけたエドゥアルドをギルベルトが遮る。

「俺はあの時、クラウスがさらった子どもがあんただって、知ってたよ。家紋を隠して走る馬車なんて、そうはないからな。そのうちのひとつが、ロートリンゲン公爵家だ。オーディン・マークスの息子には、いくらでも使い道がある。あんたをさらいたい奴は、大勢いるんだ。だから、新設されたロートリンゲン公爵の家紋は、隠さなければまずい」

「クラウスはそのことを?」

「知らない。教えてやらなかった」

「……」

 お前はどこまで知っているのか、と聞きたかった。

 あの時クラウスが、自分にキスを仕掛けたことは? どうやらクラウスは、きれいに忘れてしまっているらしい。だがそれは、エドゥアルドの神聖な秘密だ。この男にだけは、知られたくない。

 ギルベルトは、ふっと笑った。

「種を明かせば、クラウスに、シェルブルンでの仕事を勧めたのは、この俺だ。クラウスは、俺の言うことなら何でも聞くからな」

 さすがに、キスの件は知らないらしい。エドゥアルドは、ほっとした。


 相手が王族だと認めながら、ギルベルトの横柄な態度は改まらなかった。そのことが、かえってエドゥアルドには心地よかった。この男となら対等に話せる、と思った。

 「クラウスを助けてくれて、ありがとう。だけど、彼はあなたには渡さない」

男は肩を竦めた。

「渡さない? おかしなことを言う」

「とぼけないで。僕は知っている。彼は、何度もあなたに会いに来ている筈だ」

「俺のとこには、一度も来てないよ。来れないんだ」

ギルベルトは言った。

「あいつ、臆病だから」

「は? クラウスのことを、悪く言うな!」

 くすくすと、ギルベルトは笑った。


 父親の死後、クラウスを育てたのは自分だとギルベルトは語った。クラウスは自分の、弟のような息子のような存在だ、と。

 ……血は繋がっていないわけだ。

 密かにエドゥアルドは考えた。そんな男が、クラウスを育てたとは!

 ギルベルトが真顔になった。

「さあ。わかったのなら、帰れ」

「帰れ?」

エドゥアルドは聞き返した。

「クラウスをここに残して? どこの誰ともわからないお前に託してか? 冗談じゃない!」

「さっきの話を聞いてなかったのか。俺とクラウスは、命のやり取りをする仲だ。こいつは、俺を死なせることのできる、たった一人の人間なんだよ。だから俺は、こいつを守り続ける。……俺より先に死なれたら困るからな」

 理路整然と説いて聞かせた。

 エドゥアルドは納得しない。

「そんな、損得だけの冷たいやつに、クラウスを任せられるか!」

「あんたがいても、話がややこしくなるだけだ」

 凄みのある目で、エドゥアルドを睨みつける。

「クラウスを刺した男な、あいつが狙ったのはお前だ。エマが言っていた。あの娘はクラウスのことを知っていて、それで、俺を呼びに来てくれたんだ」

 ギルベルトの前に立っていた、赤いスカートの女の子のことを、エドゥアルドは思い出した。


「このナイフを見ろ。刃渡りの広い、殺傷力の高いナイフだ。その上、刃こぼれや錆は一切ない。これは、失敗を許されない殺し……人を殺す為のナイフだよ」

 ギルベルトは、卓上のナイフを広げて見せた。禍々しい白刃が、ぬらりと光る。クラウスの腹に突き刺さっていたナイフだ。

「あの男は、暗殺の専門家だ。だが、あんたくらいの年頃の……ただの学生を狙うわけがない。つまりあの男は、間違いなくあんたの正体を知っていたということだ。警邏隊がしょっ引いて行ったが、今頃、その辺のことを、べらべらしゃべっているに違いない。ここにいられたら、迷惑なんだよ」

「迷惑?」

その言葉が胸を突き刺した。

「ああ。確かに、ゲシェンクの力で、傷は治した。だが、クラウスは、大量の出血をしている。少し休ませないと、後々、体に毒だ。今は静かに寝かせてやりたい。官憲やら宮廷の連中やらに、押しかけてきて欲しくないんだ」

「……」

 なおも逡巡を続けるエドゥアルドに、ギルベルトは肩を竦めた。

「大丈夫だよ。さっきも言ったように、こいつが死んだら、俺も困る。だから、クラウスのことは、しっかり看ててやる」

 大きくドアを開け放った。

「信頼できる馬車を呼んでやる。お前はそれに乗って、とっとと帰れ」






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