第31話 刺客 3


 懐かしい部屋で、クラウスは目を覚ました。羊のような形の天井のシミ、厚い布地の緑のカーテン、古ぼけた木製の椅子……。

 ギルベルトの家だ。ギルベルトの家の、クラウスの部屋。

 ……そのままで、残しておいてくれたんだ。

 ……ハンナと結婚しても。

 ……? なぜここにいるのだろう。

 唐突にクラウスは思い出した。ナイフを構えた男の顔。そいつが突進した先にいたのは……。

 「プリンス!」

飛び起きた。ひどい頭痛と眩暈がした。部屋の隅の本棚が、ぐにゃりと曲がる。意志の力だけで、なんとかベッドから降りた。

 ドアが開いた。

「起きたか、クラウス……」

懐かしい人が歩み寄ってきた。

「まだ寝てなきゃダメじゃないか」

「……ぎるべると……」

「そうだ。久しぶりだな、クラウス」

「プリンスは?」

 ギルベルトはため息をついた。

「あの子どものことなら、心配いらない。無事だよ、お前が庇ったから。あの子は馬車で送り届けた。シモンの馬車屋だ。お前も知ってるだろ? シモンは信用できる」


 がっくりと力が抜けた。クラウスはその場に座り込んでしまった。

 ギルベルトはそんな彼の両脇に手を入れて立たせ、ベッドに戻した。甲斐甲斐しく布団を掛けてくれる男を、クラウスは、大きな目を開けて見つめている。

「ギルベルト……老けたね」

 目尻にクラウスの知らない皺がある。それでも大好きな顔が、すぐ近くにあった。

 ギルベルトは噴き出した。

「二年ぶりに会って、最初にかける言葉がそれか? あんまりじゃないか」

「うん……。あのね、ギルベルト。結婚式に出なくて、ごめん」

「ああ? ああ。お前に会えなくて、ハンナもがっかりしていたよ」

「ハンナ……」

 途端にクラウスから落ち着きが失われた。きょろきょろと当たりを見回す。

「ここにはいないよ」

 あっさりとギルベルトが言う。クラウスが少し、冷静さを取り戻した。

「よろしく言っておいて下さい」

そう言って、再び起き上がろうとする。

「またあなたに借りができてしまった。最初に……子どものころに助けて貰っただけで充分だったのに」

「借りじゃない。お前が死んだら、俺が困るだろ? 不死の苦しみなど、まっぴらだからな。……だから、寝てろって」

 言いながら、ギルベルトがベッドに押し戻す。クラウスの目が、曇った。

「ええ、そうですね。大丈夫です。義務は果たします。必ず……、必ず、あなたを殺してあげます」

「その時は、あまり待たせないでくれよ。苦しいのは嫌いだ。それと、あの子どものことだが……、あまり無理はするな」

 はっと、クラウスが息をのんだ。

「プリンスには、どこまで話したんですか?」

「全部だよ。ゲシェンクのこと、お前の父親のこと……」

「父のことまで話したんですか!?」

「ああ。彼は知っておいたほうがいい」

静かにギルベルトは言った。

「だってお前は、決めたんだろ?」

「決めた? 何を?」

「あの子を、一生涯、守護することを」

「一生涯? 守護? 僕は、そんなことは、」

言いかけたクラウスを、ギルベルトは遮った。

「お前は、自分を顧みず、あの子をかばった。刃の前に身を投げ出し、あの子を守ろうとした。あの子を傷つけることが、許せなかったんだ」

首を横に振った。

「でも、よく考えれば、お前は馬鹿だ。あの子がどんなにひどい怪我を負おうとも、自分の血を飲ませれば、すぐに蘇生させることができるのに。ただしお前は、彼のゲシェンクになってしまうが。……脊髄で反射する癖は、あいかわらず直っていないようだね」

「……ひどいな」

ふっとギルベルトは笑った。きっぱりと、クラウスが言う。

「僕は、あなたより先には死にません」

「うん。俺もお前を助けに行くよ」

優しい目でクラウスを見た。

「どこまでもどこまでも、助けに行く。お前が苦しくならないうちに。死んでしまわないうちに……、お前のいない世界の空気を吸わなくても済むように」

 クラウスの目が潤む。

「忘れるな。いつだって、どこへでも、お前を助けに行く」

ギルベルトは、クラウスの目に溜まった涙に気がついた。瞳がぐっと近づいた。

「……俺自身の為に」


 クラウスはギルベルトを押しのけた。なんとか起き上がった。

「こんなことにあなたを巻き込んでしまって、申し訳ありません」

感情の籠もらない声で詫びる。

「どちらかというと、巻き込まれたのはお前……、だから、寝てろって。まだ、無理だ。よろけてるじゃないか」

 ギルベルトが止めようとした時だった。がらがらと轍の音が響いた。玄関の戸の軋む音。

 「迎えに来たよ、クラウス!」

階下で威勢のいい声がした。



 「おい。あの子からいくらもらった」

階下では、馬車屋のシモンを脇に呼び、ギルベルトが尋ねている。

「30」

「なんだ。たいしたことないな」

「クロイツァーじゃない。グルテンだ。30グルデン」

「……」

「あんたのくれたのの、100倍だ。だから俺は、に言われた通り、引き返してきた」

「……いいさ。わかったよ。だが、シモン。約束は守れよ。のことは誰にも言うな」

「もちろんだ」

シモンは請け合った。

「こちとら、信用商売だ。俺が一度でも、あんたを裏切ったことがあるか?」


 「それじゃ、ギルベルト。いろいろありがとう。ハンナによろしく」

鼻突き合わせて話し合っている二人の脇を、ふらふらとクラウスがすり抜けていく。

「ひどいありさまだ。顔色も悪い。貧血だよ。明日になれば少しはマシになる。今夜一晩くらい泊まっていけ」

 ギルベルトが引き留めようとした。

「いいえ。新婚家庭にお邪魔するわけには……」

 「……え? あなた、結婚してたの?」

後から階段を下りて来たエドゥアルドが、意外そうにつぶやいた。

 クラウスと御者はすでに家の外に出てしまっている。なおも納得できないというように、彼は首を傾げた。

「女と? だよね」

「当たり前だ。俺の妻は、女だ」

傲然とギルベルトが答える。

「ふうん。……そんなにクラウスのことが好きなのに?」

 エドゥアルドは鼻を鳴らした。そのままギルベルトの前を通り過ぎようとする。

「覚悟はできているのか?」

腕を組んで壁に寄り掛かったままで、ギルベルトが声をかけた。

「覚悟?」

「クラウスは、あんたの為にゲシェンクになることも厭わないだろう。彼はきっと、一生涯、あんたを守り続ける。その覚悟だ」

「いやだ」

エドゥアルドがきっぱりと言い切る。からかうような口調で、ギルベルトが問う。

「一生涯、とか、重すぎるか?」

 ゆっくりと、エドゥアルドは首を横にふった。

「僕は、いやだ。だって、僕にはクラウスは殺せない。そんなことになるなら、自分が死ぬ」

 ギルベルトが息を飲んだ。


 「そこをどいてくれ」

ギルベルトの前を、エドゥアルドが強引に通り抜けようとする。

 「待て」

 ギルベルトがエドゥアルドの腕をつかんだ。耳元に口を寄せ、囁く。

「あいつは何にも知らない。それは保証する。あんたの前に男はいなかった」

 エドゥアルドの目が大きく見開かれた。だが、すぐに体制を立て直した。馬鹿にしたように彼は言い放つ。

「前にクラウスが誰とつきあってたって、そんなの、たいしたことじゃない。誰と寝てたって、僕は平気だ。大事なのは、今だ」

だがギルベルトはしつこかった。

「最初に不審に思ったろう? なんでこんなにすんなり入るんだ、って。……あのな。父親に撃たれて、あいつの辛さしんどさは、計り知れないものがあった。ひどくうなされることばかりが続いた。だから、」

「だから?」

「俺は結婚している。そういう男だ。でも、あいつに、できる限りのことをした。……あとは自分で考えろ!」

 どん、と、エドゥアルドを外へ押し出した。





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