第26話 舞踏会 4


 部屋の中は、あかがね色の光に満たされてた。クラウスは、のろのろと起き上がった。

 ……今は、何時だろうか。

 ゆうべ、舞踏会があって。夜半にこの部屋に連れ込まれ。明け方まで……いや、朝になっていたのか……一晩中、蹂躙され続け。

 サイドテーブルには、水差しが置かれていた。部屋の隅にも、水を入れた木桶が置かれている。

 クラウスがいると知っていて、エドゥアルドがこの部屋に、使用人を入れるわけがない。水差しも桶も、エドゥアルドが差し入れたものだろう。彼自らが水を汲み、運んだのだ。クラウスの為に。

 体中が痛かった。あちこちに、赤紫の小さなあざができている。腕や足にもあざはあった。

 ……プリンス。

 そのあざのひとつひとつが奇妙なまでに愛しく思われ、クラウスははっとした。

 慌ててシャツを羽織る。襟首まできちんとボタンを留めようしていると、かすかな音がしてドアが開いた。

「クラウス」

 入ってきたのは、エドゥアルドではなかった。フェルナー王子だった。荒れた部屋を見て、にやりと笑った。

「だいぶ、やられたな」

「誰のせいですか!」

思わずクラウスは叫んだ。

 ゆうべのことは、よく覚えていない。ただ、フェルナーにホール中央まで引きずり出され、踊らされたところまでは記憶がある。

 フェルナーは顔をしかめた。

「誰のせい? 俺に聞くなよ。俺はただ、お前が女に囲まれて困っていたから、助けてやっただけだ。礼を言われてもいいくらいだ」

「礼など!」

「エドゥアルドにやられたのだろう?」

「……」

「まあ、ワインに薬を入れたのは俺だがね。だが、獲物は横取りされたってわけだ」

 フェルナーが、音もなく歩み寄ってきた。ソファーに腰を下ろすと、ぽんぽんと隣の座面を叩く。クラウスは首を横に振った。少し離れた椅子に腰を下ろす。

「今、エドゥアルドは、皇帝のところにいる。会食を欠席したので、呼び出されたんだ」

「……彼は、大丈夫なのですか?」

思わず、クラウスは尋ねた。フェルナーは、首を傾げた。

「大丈夫? 何が? 何をお前、血相を変えてる?」

「だって、その、皇帝陛下に呼び出されるなんて」

「ああ、それ」

こともなげに、フェルナーは言った。

「俺に感謝して欲しい。俺が皇帝ちちうえに言ってやったんだ。エドゥアルドは具合が悪いから、シェルブルンへ帰ったと」

「あ……」

 舞踏会の後、エドゥアルドは、首都ウィルン中心部にあるブルク宮殿に宿泊予定だった。それなのに勝手に、郊外のシェルブルン宮殿に帰ってきてしまったのだ。クラウスを連れて。

 「舞踏会が続く間、エドゥアルドの付き人や家庭教師どもには、休暇が出ている。シェルブルンのこの一角は、今、人がいないからな。やりたい放題できる」

フェルナーは首を振った。

「子どものようでいて、腹黒いことだ」

「腹黒いなどと、おっしゃらないでいただきたい」

即座に抗議していた。

「ふふふ」

フェルナーが笑う。

「その上、食事会も欠席するんだもんな。皇帝ちちうえが心配するのも無理はない」

 食事会。それは、昼食か、夕食か。

「……フェルナー王子。いったい、今、何時です?」

「もう、夕刻だよ」

「夕刻」

「舞踏会の翌々日の」

「えっ!」

 そういえば、途中で何度か、エドゥアルドが、菓子や果物を食べさせてくれたと、クラウスは思い出した。どれも口移しだったので、記憶が定かではない。

 あきれたように、フェルナーが笑った。

「時間も忘れて、情事にふけっていたわけか。まったく、若いな」

「……」


「それで、クラウス、」

ソファーに身を埋めたまま、フェルナーは足を組み替えた。

「お前は、誰の為に動いている?」

 はっとした。

 知っている?

 フラットな声で、フェルナーが繰り返す。

「誰の命令で、エドゥアルドを翻弄しているのか、と聞いている」

「……フェルナー王子。私は……」

「まあ、いい。わかっている。大方、身近な誰かを人質に取られたのだろう。お前が自分から、あんな子どもに手を出すわけがない。」

「……」

「それに俺は、エドゥアルドの味方というわけでもないし。ただ、姉上の息子というだけで。……姉上も、遠くの荘園で楽しくやっていることだし」

 幼児期に引き離されてから、エドゥアルドの母親は、数回しか彼に会いに来ていない。どんなに懇願しても、なかなか会いに来て下さらないのだ、と、エドゥアルドから聞いたことがある。もちろん、ウィルンに幽閉されている彼の方から、会いに行くことはできない。

「まあ、うまくやることだ。だがメトフェッセルも、人選を違えたな。計算高い彼にしては、珍しいことだ」

 組んでいた足を解いた。前のめりになり、クラウスの方へ身を乗り出す。

「お前はもう、命令されて抱かれているわけではあるまい、クラウス」

 はっとした。

 含み笑いが聞こえた。フェルナーが柔らかなソファーから、立ち上がる。ドアに向かい、途中で戻ってきた。

「それからな。首のそれ。目立ちすぎだ。俺のスカーフをくれてやる。当分は、首に巻いておくがいい」

首に巻いていたシルクのスカーフを解き始めた。

 クラウスは、右の首筋を抑えた。言われてみれば、ずきずきする。

 慌てた顔の彼を見て、フェルナーは、本当におかしそうに笑った。



 フェルナーがいなくなっても、クラウスはエドゥアルドの部屋に佇んでいた。

 シルクのスカーフの下で、右の首筋が、じくりと疼く。

 食事会をすっぽかしたことを、今頃、エドゥアルドは、皇帝に叱られているだろうか。それとも、体調不良の言い訳でもしているのか。

 ……いとしい。

 不意に強い気持ちが沸き上がり、クラウスはひどく混乱した。

 違う。自分が本当に好きなのは……。愛してやまないのは……。

 だって、命令だから。この国の宰相の。

 ……「お前はもう、命令されて抱かれているわけではあるまい、クラウス」

 ……。



 その晩遅く戻ってきたエドゥアルドは、部屋の中にいるクラウスを見つけた。

 歩み寄り、手を取った。力を込め、強く抱きしめた。

 胸を押し返された。

 失望がどす黒く湧き上がる。だがすぐに、首の後ろに手を当てられているのに気が付いた。

 引き寄せられた。唇に、優しく湿った感触が押し当てられる。

 初めての、クラウスからのキスだ。

 柔らかく唇を食む感触に、エドゥアルドは我を忘れた。大きく息を吸って、噛みついた。待っていた舌に、出迎えられる。

 息を継ぎ、角度を変え、数えきれないくらい、キスをした。

 優しくあまい、キスをした。




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