第22話 遠乗り 2
思うさま馬を走らせ、宮殿に戻った。日光と外気をふんだんに浴びて、生き返った心持ちがした。
馬を降り、労いの言葉をかけていると、エドゥアルドが寄ってきた。
「どうだった? その馬」
「素晴らしいです。手入れも行き届いているし、何より、気性がいい。素直で、怖いものなしに進みます」
こんなに良い馬に乗ったのは、初めてだ。クラウスがそう言うと、エドゥアルドは嬉しそうに笑った。
「気に入ったんなら、専用にしてくれていいよ。お前には、白い馬が本当によく似合う」
「でも……」
クラウスは戸惑った。このような駿馬は、手に入れようとして手に入るものではない。専用など、とんでもないと思った。
「かまわない。もともとお前の為に手に入れた馬だし」
「え?」
「クラウス」
エドゥアルドの眉が、僅かに顰められた。
「本当に覚えてないの?」
「何をでございます?」
「いや……」
王子は言葉を濁した。俯きかけた顔を上げ、ぱっと微笑む。
「今日は、とても気持ちよかったね」
「本当に」
「また、つきあってくれる?」
「もちろんですとも」
とん、と、クラウスの肩を突き、エドゥアルドは去っていった。
……そうじゃない。
クラウスにはわかっていた。
……プリンスが、自分につきあってくれたんだ。
……ギルベルトを思い、心に鬱屈を抱えていたから。
困る、と思った。そんなに純粋な好意を向けられたら、自分は、本当に、困ってしまう……。
「あ、プリンス! フィツェック先生も!」
背後から声がした。立ち去りかけたエドゥアルドが立ち止まる。
「ディートリッヒ先生!」
ディートリッヒは、その場に立ち止まった。少しのけぞり気味になって、二人を見比べている。
「あー、失礼ですが、プリンス。もう少し、フィツェック先生の方にお寄りになって」
「なんで?」
「いいから」
エドゥアルドとクラウスは、顔を見合わせた。言われた通りエドゥアルドは、クラウスににじり寄る。
ディートリッヒは歩み寄り、二人のすぐ間近に立った。
「そうそう、並んで立って。……これは驚いた!」
「なんです、先生?」
「ご存知でしたか、プリンス。背丈が、フィツェック先生と同じですよ」
「え!」
プリンスとクラウスは同時に叫んだ。
二人を見比べ、ディートリッヒ先生は、にやにやしている。
「つい先ごろまでは、先生の方が高かったのに。プリンスの身長は、凄い速さで伸びていますな」
「本当に? それは嬉しいな」
「嘘でしょう、ディートリッヒ先生」
エドゥアルドとクラウスが、口々に言う。
「嘘なもんかね」
「そうだよ、クラウス。往生際が悪いよ」
「いや、でも、ですね……」
「じゃ、もっとぴったりくっついて。二人とも」
ディートリッヒ先生の手が伸びてきた。二人を背中合わせに、ぴったりとくっつける。
背中に、プリンスの背が押し付けられる。大きくて、ごつごつしている。
にわかに、クラウスの胸が、どきどきしだした。
「フィツェック先生、じっとして。プリンスも! いいですか……」
二人の頭の上に、ディートリッヒは、持っていた本を渡す。ポケットから、小さな丸い球を取り出した。
「先日、孫にもらったボールですがね」
二人の頭の上に渡された本の上に、そっと乗せた。
「うーーむ」
「どうです? 先生!」
「プリンスの方へ転がるでしょう?」
「まさか。何を言ってる、クラウス!」
「動かないで!」
ディートリッヒが制した。
少し間があった。
彼は言った。
「ボールが動かない」
「わーい、クラウスに追いついた!」
エドゥアルドが躍り上がった。二人の頭の上に乗せられたボールが落ち、ころころと転がっていく。ばさり、と、本も下に落ちた。
「これ、プリンス! 本は大事に扱わなくちゃダメだって、言ってるでしょ!」
ディートリッヒ先生が叱責し、本を拾い上げた。言葉とは裏腹に、楽しそうだ。
「フィツェック先生」
踊るように立ち去るエドゥアルドについていこうとすると、ディートリッヒが呼び止めた。目を眇めている。
「貴公は、すっかりプリンスの心を射止めたようだな」
思いがけないことを言われ、クラウスの頬が紅潮した。
「そ、そんなことは……、私は、……ありえないことだから……」
「ありえないわけがなかろう。プリンスは、貴公の後ばかりついて回っている。実に怪しからん」
クラウスは絶句した。誰かにまずいところを見られたのか。心当たりがありすぎる。
「まるで卵から孵った雛のように。昔は、私の後ばかりついてきたのに」
「……え?」
「まあ、プリンスと貴公は年齢が近いからな。話が合って、当然」
「……はい」
クラウスはほっとした。
二人きりで部屋に閉じこもっていたり、庭で触れ合っていたことが露見したわけではなさそうだ。
ディートリッヒ先生は不服そうだ。大事な教え子を、クラウスに取られたような気がしているのだろう。
「今日は、乗馬かな」
「あ……」
クラウスは、ダンスの練習用パートナーとして雇われている。プリンスを勝手に外へ連れ出したらまずかったのか、と思った。
「いや。体育科のフォルスト大尉とも話したのだが、プリンスには、運動が必要だ。運動と太陽の光と新鮮な外気。これからも、機会を捉えてプリンスを外へ連れ出してやって戴きたい」
きょろきょろと辺りを見回した。早口で付け足す。
「私は、夜の外出は推奨できん。エステル家の息子たちと一緒なら、なおさらだ」
はっとした。エステル家の息子……メトフェッセル宰相の息のかかった青年たちだ。
「その点、貴公なら安心だ。ムーランドの若者に石を投げつけられた時、身を挺してプリンスをかばったそうだな。御者から聞いた」
じろりとクラウスを見た。
「その調子で、忠義に励め」
貴族であった(それも格下の田舎貴族だ)記憶は、殆どない。クラウスは、平民として育った。こんな風に言われ、なんと返したらいいのかわからない。ただ、ディートリッヒの信頼だけは、しっかりと伝わってきた。
無言で頭を下げた。
◇
それを機に、時折、外出するようになった。
夏も過ぎた頃。踏み固められた乗馬道を突然それて、プリンスは脇道を登り始めた。
「プリンス、どちらへ?」
馬首を同じ方向へ向けながら、クラウスは尋ねた。
「いいところ。ついておいで」
振り返って笑い、プリンスが答える。
しばらく、上り坂が続いた。さすが宮殿の馬、疲れ知らずだ。プリンスの栗毛はもちろん、クラウスの馬も、楽々と坂道を登っていく。
下草に覆われた山道を滑ることもない。嫌がって走り止むこともしない。二頭の馬は、軽快なスピードで駆け上がっていった。
不意に、視界が開けた。小高い丘の頂上まで登ってきたようだ。
クラウスは、目を瞠った。眼下に、遥か、ウィルンの町が見下ろせる。
「クラウス、こっちだ」
プリンスが呼んでいる。逸る馬をなだめて杭に繋ぐ、後を追った。
エドゥアルドは、奇妙な鉄の筒の前にいた。巨大な丸い筒だ。下はレンガでしっかりと固定されいる。反対側の端は、斜め上方向を向いていた。その先端は、西を流れるメナン川に向いていた。
「砲台だ」
プリンスは言った。
「父上が造られた大砲の、発射台だよ」
「……」
クラウスは絶句した。これは、あの憎いオーディン・マークスの残した遺物……。まさに、ウィルン占拠の際の、生々しい証人だ。
「父上が、ここウィルンに軍を進められた時、」
エドゥアルドは、クラウスの気持ちに気づかない。夢見るように語っている。
「父上は、この麗しき国ウィスタリアを守るため、ここに砲台を造られたんだ。川を越えて近づく敵を、木っ端微塵に打ち砕く為にね。父上が去られてから、この砲台は使われたことはないけど、」
愛しそうに、鉄の筒を撫でた。
時の経過を経て、鉄の筒には蔦が巻き付いていた。夏の盛りに生い茂った蔦は、まるで大地に繋ぎ止めるように、大砲を地面に縛りつけている。
「ここに立つと、僕は、身近に父上を感じることができる。父上に守られていると、実感するんだ」
プリンスはクラウスに寄ってきた。
「ここは僕の秘密の場所だ。お前にだけ、教えてあげる。二人だけの秘密だよ」
じっと目を見つめる。青い瞳がどんどん近づいてくる。優しく口づけされた。
頭が痺れ、クラウスは何も考えられなくなった。
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