第21話 遠乗り 1
「クラウス! 久しぶりだな!」
体育科のロッシは、王立大学で親しくしている助手仲間だ。彼はクラウスの姿を見かけると、持ってきた薪を放り出して駆け寄ってきた。
「お前! ちっとも変わってないな! かえって若返ってないか? このバケモノめ!」
「お前は変わったな。少し太っただろ」
少し、というのは思いやりだった。実際は、ロッシの腹はかなり突き出ていた。
「それじゃ、生徒たちに、あーだこーだは言えなかろう」
太ったと言われても、ロッシは気にするようでもない。
「もう、まる1年も経つんだ、そりゃ、変わるさ。それにこれは、幸せ太りだ」
「ああ、結婚したんだってな。おめでとう」
「結婚式に呼んだのに来なかった。ひどい奴だ」
ロッシの結婚式には、ギルベルト・ロレンスも呼ばれていた。彼は、妻のハンナと来るのだろう。クラウスは、とてもではないが、平静でいられそうもなかった。それで、出席を断ったのだ。
一方で、親代わりのギルベルトの結婚式とあらば、すっぽかす訳にはいかないことはわかっていた。妙な噂を立てられたら、ギルベルトが困るだろう。けれど幸いなことに、ギルベルトとハンナは結婚式を挙げなかった。籍を入れたというそっけない通知が来だだけだ。幸せそうな馬鹿面を見ずに済んで、どれだけほっとしたことか。
ロッシが眉を顰めた。
「宮殿での仕事は、忙しいのか?」
「いや、まあ、そんなには」
「無理なことは言われてないか?」
「大丈夫だよ」
「そうか。よかった」
ぱっと、ロッシの顔が輝いた。
「ロレンス先生も心配してたぞ。お前がちっとも顔を出さないって」
「先生には、申し訳ないと伝えてくれ。宮殿での仕事が忙しく、」
「今、ヒマだと言わなかったか?」
「そんなことはない」
「……まあ、いいや」
ロッシは笑った。
「うちの坊主を見てやってくれ。去年生まれた。俺に似て、賢い子だ」
「ああ。奥さんにも挨拶させてくれ」
「女嫌いのお前が。大人になったな、クラウス」
「誰が女嫌いだよ」
「お前だよ。いまさらだぜ? 女を見ると、顔色変えて逃げ出すくせに」
「いや……」
クラウスは言葉を濁した。
女が嫌いだというのは、本当だ。自分の母のことを考えれば、当然ではないか。女は自分の為に、夫と幼い息子を平気で捨てることができる。なんと冷たく、恐ろしい生き物だろう。
ロッシが笑った。
「おおい、何してる。家に入れよ。妻が夕飯を食ってけ、って」
大きく開け放たれたドアの前で、幸せそうにクラウスを呼んでいる。
◇
ロッシの家で歓待され、思いもかけず長居してしまった。泊まっていけというのを、明日は早いからと辞した。
ロッシ夫妻が家の中に引っ込んだのを確認して、家の前の坂を上った。足音を忍ばせ、野放図に伸びきった生垣まで近づいていく。
生け垣が荒れているのは、ギルベルトがそうさせているからだ。生きているものは、たとえ雑草でも好きなようにさせる、というのがギルベルトの考えだった。
向こうに、懐かしいリンデの樹が、こんもりと茂っているのが見える。その下の犬小屋も、取り壊されずにあった。
家からは、暖かな明かりが漏れていた。
ギルベルトの書斎だ。
彼はまだ、起きている。
胸が締め付けられた。
本当はこの2年の間に、もう何度も、坂の下まで来ている。家には、決して近寄らなかった。遠くからギルベルトの姿を見、安心して下宿に帰る。
もし、彼に何かあったら。彼が、クラウスの救済を求めていたら。ゲシェンクとして与えた恩恵のつけを、早急に支払うよう命じたら。
……でも、自分には、ギルベルトは殺せない。
何度も何度も堂々巡りする、その不安。
いつもは、もっと早い時間に来る。無事な姿を遠くからちらりと確認し、素早く引き上げている。
ここまで近づいたことはなかった。こんな風に、ギルベルトの部屋の明かりを見ることもなかった。
あの明かりの下に、ギルベルトがいる。
立ち去りがたかった。いつまでも、クラウスはその場に立ち尽くしていた。
◇
次の日は、ダンスのレッスンがあった。
エドゥアルドは大分ワルツが上達し、もう力任せにパートナーを振り回すこともなくなった。
そして、隙あらば、クラウスに触れようとする。
誰もいない練習場で。こっそり招き入れた自分の部屋で。不意に、庭で抱き寄せられたこともあった。それはもう所構わずで、クラウスは、いつ誰かに見られるかと、気が気ではない。
大抵は、すげなく躱している。当たり前だ。そもそも男同士だ。
でも、時々は無理やり抑え込まれ、熱をぶつけられる。
鬱陶しかった。好きだと繰り返され、苛立っていた。
自分の父は、彼の父オーディンによって、死に追い込まれている。プリンスには、憎しみ以外の感情を持つべきではないと強く思う。
でも、仕方がない。メトフェッセル宰相に命じられたから。ギルベルトを人質に取られているのだから。
それにこれは、一種の復讐なのかもしれなかった。自分が、エドゥアルドを好きになることは永久にない。だからこそ、エドゥアルドに抱かれるのだ。
これは、復讐だ……。
翌日。早めに練習場に到着し、鏡の前でフォームを確認していると、プリンスがやってきた。
入り口でクラウスの姿を見つけ、まっすぐ彼に近づいてくる。いつものようにクラウスは頭を下げて、敬意を表した。
「クラウス」
彼の前に立ち、エドゥアルドは尋ねた。
「何かあったの?」
「……何もございません」
「本当に?」
エドゥアルドは手を伸ばし、クラウスの前髪を掻き分けた。じっと顔を見つめてくる。
「哀しそうだ」
彼は言った。
「今日は、とても哀しそうだね」
「そんなことはありません」
思わず強い口調でクラウスは否定した。
下宿の隣人や、宮廷の使用人、家庭教師たちに至るまで、そんな風に言った人間はいない。みな、いつも通り普通にクラウスに接していた。
……完璧に自分を制御できている。
……もうギルベルトは、自分の心を乱すことはないのだ。
そう思って、安心していたのに。
こんな子どもに感情を読まれたかと思うと、腹立たしい。そのくせ、胸がざわざわする。
「ふうん」
エドゥアルドは言って、窓を押し開けた。柔らかな風が、ふわりと入り込んでくる。
「なあ、クラウス。たまには一緒に、宮殿の外へ出てみないか?」
「宮殿の外へ?」
「そうだ。馬に乗って遠出をしよう」
「いけません。殿下は切り返しのステップがいまひとつです。今日は、その練習をしなければなりません」
「外は、とってもいい天気だよ。こんなところに閉じ籠ってたら、もったいない」
「でも……」
「籠の鳥が言うんだ。いいだろ?」
「……」
「籠の鳥」……。確かにエドゥアルドは、ウィルンの外へ出ることは許されない。常に、宰相メトフェッセルの手の中にいる。そのことは、誰よりもクラウスが、よく知っている。
……籠の鳥。
自らのことをそう言われたら、拒絶はできない。不承不承、クラウスは頷いた。
確かに外は、素晴らしい晴天だった。
エドゥアルドは栗毛の駿馬に、クラウスは白い馬に乗って、プラクター公園へ出かけた。
公園と言っても、自然公園だ。森もあれば草原もあった。夏になれば、水辺で涼を取ることもできる。
エドゥアルドが先に、クラウスがその後に続いた。
時折、エドゥアルドが振り返って笑う。屈託ない、本当にいい笑顔だった。日頃の鬱屈も忘れ、気がつくと、クラウスも微笑み返していた。
かぐわしい風が、爛熟した春の気配を運んでくる。踏み慣らされた細い道を、二頭の馬はどこまでも駆けていった。
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