第19話 夜伽 1
「プリンスのことを、よろしく頼む」
そわそわと、ディートリッヒが言った。彼はこれから、ツォルンまで出かける。結婚した息子が新居を構えたので、その新築祝いに行くのだ。
「プリンスは、夜は、お一人だとお寂しいんだ。だから必ず、家庭教師の誰かが隣の部屋に泊まるんだが……、フォルスト先生は奥さんの具合がわるいし、数学の先生は、今夜にも娘さんに赤ちゃんが生まれるというし」
時間講師のクラウスは、泊まり勤務はしたことがない。つまり、まだそこまで信用されていなかったということでもある。
だが、背に腹は替えられないらしかった。ディートリッヒは、プリンスを夜、一人で寝かせるわけにはいかないと、強硬に言い張った。
「怖い夢を見ると困るからな。いつかの晩、泣いてベッドを飛び出して来られて。仕方がないから、朝まで添い寝してさしあげたくらいだ」
「……ディートリッヒ先生。それ、いつの話です?」
思わずクラウスは、話の腰を折った。年長者は、常に敬い、口を挟まずに話を聞くことにしていたのだが。
「あれは……プリンスが6つの時のことだ。寝る前に、魔王の話をしてさしあげてな。それが悪かったようだ。反省している」
「6歳……だいぶ昔の話ですね」
「なに、たった11年前のことだよ」
「……」
この家庭教師にとって、11年なんて、ほんのちょっと前に過ぎない。プリンスは、まだまだ守るべき子どもなのだ。体は大きく、すでに教師自身の身長を、軽く超えているというのに。
「別に起きている必要はないんだ。ただ、続きの部屋にいて、もしなにかあったら……」
言いながら、ディートリッヒは不安そうな顔になる。
「大丈夫でしょう。プリンスはもう、大人です」
「大人じゃないよ、君」
いらいらとディートリッヒが遮る。
「大事なプリンスに、もしものことがあったら!」
「もしものこと?」
「息が詰まってしまうとか。縁起でもないことだが、若い者の中には、夜中に急に死んでしまう者もいるというではないか。それを考えると、わしは……」
「お時間ですよ、ディートリッヒ先生」
教師の背を、クラウスはそっと押した。
なんにしても、この先生は、自分を信用してくれたのだ。さもなければ、プリンスの夜伽を任せるような真似はしないだろう。
急な話だったので、その晩、クラウスは用事があった。人を訪ねる約束があったのだ。
暑い晩だった。同じシェルブルン宮殿内で会ったので、さほど遅い時間にはならなかった。この時間なら、ディートリッヒ先生も納得してくれるだろう。
すでにプリンスの部屋の明かりは消えていた。
続きの部屋に行くには、プリンスの部屋を通らなくてはならない。クラウスは足音を忍ばせ、そっと部屋を横切った。
ベッドの近くまで来た時だ。
「あっ」
何かに躓いた。本だ。ベッドの下に、本の山が積み上げられている。躓いた拍子に、膨らんだ布団の上に手をついてしまった。そうなるように、本は置かれていた。
「やっと帰ってきたな」
布団の中から声がした。
「随分、遅かったな」
「プリンス……。起こしてしまいましたか。申し訳ありません。何分、急なお召しでしたから、前からの約束をどうしても断り切れず」
「約束?」
布団の山がむっくりと盛り上がった。プリンスは寝床の上で、胡坐を組んで座った。
「それは、フェルナー王子とのか?」
「はい、そうです」
「お前、」
布団を跳ね除け、プリンスは飛び起きた。
「少しは隠せよ。なんだよ。なに、堂々と言ってんだよ」
「は? なぜ隠す必要があるんです?」
プリンスは、蝋燭に火をつけた。上から下まで、まじまじとクラウスの姿を見つめる。羽織物の前ははだけられ、その下のシャツは、第二ボタンまで外されていた。
「ウィスタリア宮廷は、風紀の乱れに厳しいんだ。偉大なる女帝の下に長く繁栄した国だからな。お前も知っているだろう?」
「フェルナー王子も私も独身ですよ、そういうことが言いたいのでしたら」
くるりと後ろを向いた。
「ディートリッヒ先生のご指示は、続きの部屋で控えていることです。夜ももう遅い。私は休みます」
「ダメだ」
強い力が、クラウスの右手を捉えた。あっという間に引きずり込まれ、ベッドの上に押し倒された。
「何を……」
覆いかぶさってくる体を、力いっぱい押し返した。
クラウスを見下ろしているエドゥアルドの表情に、戸惑いが過った。自分の行為に驚いている。
その隙に、クラウスは、彼の下から這い出そうとした。
はっとエドゥアルドが我に返った。そうはさせじと、全力で肩を抑え込む。
クラウスの足は、自由を保っていた。蹴り上げようとして、ためらった。相手は、皇族だ。それを、足で?
一瞬のためらいが、命とりだった。手加減なくのしかかられ、押さえつけられた。
「うっ」
上から、顔が落ちてきた。しゃにむに顔中、口づけられる。
振り放したい一心で、クラウスは顔を左右に振った。降り乱れた黒い髪が、唾液でぬれた頬に張り付く。
プリンスの呼吸が荒くなった。クラウスの肩を押す手に力が入った。
唇に湿ったものが押し付けられた。
吸われ、滑り、舌が……、
……唇を割ろうとしている?
気が付いて、頭の中が真っ白になった。きつくきつく口を閉じ、侵入を防ごうとする。
手のひらが顎に当てられた。伸ばした指で両頬を押され、口をこじ開けられる。
すかさず、舌が侵入してきた。歯の表面を舐め、奥に入っていく。クラウスの舌と出会い、絡め取ろうとしている。
「う、ふっ、」
頭の芯がじんとしびれた。最後の理性が残っているうちに、逃れようとした。
「……っ、」
振り上げた手が、どこかをひっかいたようだ。口づけが遠のいた。
だが、一瞬のことだった。再び湿った唇が落ちてきて、クラウスの口に吸いつく。
歯をしっかり食いしばった。なんとか、舌が入ってくるのを、止めようとする。
じれた相手が、噛んだ。
「痛っ」
唇が切れた。金気臭い味が広がる。
それが一層、エドゥアルドの欲情を誘ってしまったようだった。舌が遠慮なく、顔中をはい回った。顎から首へ、降りてきた。
開いたシャツの襟元に手をかけ、一気に引き裂く。食らいつくように、喉元に顔を埋めてくる。
「……好きだ」
そんな風に聞こえた。
信じられなかった。聞き間違いだと思った。
よりによって、オーディンの息子に? 父を死へと追いやり、領地を、資産を奪った、あの……、
「ぐっ、」
反射的に体が動いた。精一杯の力でクラウスは、自分の上からエドゥアルドを払い落とそうとした。
「何をなさるのです、プリンス!」
「何って、」
エドゥアルドは、あっけにとられたように、クラウスを見下した。激しく息を弾ませている。その顔が、夜目にもわかるほど、紅潮していった。
「わかってるんだろう、僕の気持ちを!」
「あなたの気持ち? なんです、それは!」
「だってお前は、ヴィクトールじゃないか!」
「ヴィクトール?」
それは、ギルベルトの飼っていた犬の名だった。彼を捨てたギルベルトの飼っていた……。
「誰にも渡さない。フェルナー王子にも、お前がいつも思っている、どこかの誰かにも。クラウス、お前は、僕のものだ」
◇
確かに、その晩、クラウスはフェルナー王子と会った。だがそれは、宵のまだ早い時間だった。会っていた時間も、小半時くらいだったろう。運動不足気味だから踊りたい。ついでにステップを見てほしい、と頼まれたのだ。
その後、クラウスが会ったのは、メトフェッセル宰相だった。
ムーランドの革命家から、プリンスの馬車に石の礫を投げ込まれたことは、メトフェッセルの耳に入っていた。王子の保安の観点から、また、万が一にもプリンスが、ムーランドの革命家らと通じている節はないかと、メトフェッセルは心配していた。
もちろんプリンスは、外部と接触などしてはいない。そんなことが、籠の鳥状態の彼に、できるわけがない。だが、保安ということなら、より一層の警護が必要なのは、確かだ。
クラウスはそう、進言した。
この頃王子は、外出が多くなった。同年代の貴族の子弟たちと、ウィルンの劇場などへ出向いている。それも、民衆の集まるような劇場やオペラ会場だ。仲間には、伯爵家の令嬢もいる。
その辺りを報告した。
「ああ、エステル家の子どもたちだな」
もっと気にするかと思ったが、メトフェッセルは平然としていた。
「彼らのことなら、大丈夫だ。エステル家は、由緒あるハンガル出身の貴族だからな」
メトフェッセルもハンガル出身であることを、クラウスは思い出した。同郷貴族として、信頼できるということなのだろう。
「エドゥアルド王子を連れ回すようにと命じたのは、この私だ」
メトフェッセルの言葉に、クラウスは息を飲んだ。
せっかく宮殿を出て遊びに出ても、同行するのは、メトフェッセルの息の掛かった者たちだったとは。
「浮かれ
そうすれば民衆の人気も落ちるだろうと、メトフェッセルは言った。
「だがあの子は、やけに身持ちが固くてな。どうやら好きな人がいるらしいと、ルードルヒが言っていた。もちろん、淡い初恋で終わってもらうつもりだが」
酷薄な笑みをメトフェッセルが浮かべる。
ルードルヒというのは、ハンガル家の長男だ。エドゥアルドより3歳ほど、年上になる。
「で、お前の方はどうだ、クラウス」
「どう、とおっしゃいますと?」
「プリンスをたらしこんだのか? あの子の体を
「……いえ、この任務は私には力不足……、」
「これは命令だぞ、クラウス・フィツェック」
クラウスの言い訳を宰相は遮った。冷たくきつい口調だった。
「プリンスには、ぼつぼつ結婚話が持ち込まれている。相手はいずれも、どこかの国の皇女達だ。滅多な断り方はできない。だが、会わせたらめんどうだ。相手の姫が、彼に夢中になりでもしたら……」
間違いなくそうなると、宰相は確信しているようだ。
「だから、近日中にプリンスを落とせ。さもなくば、」
メトフェッセルは言葉を切った。冷酷な微笑を浮かべた。
「そうだな。手始めに、ギルベルト・ロレンス教授に、痛い目に遭ってもらおうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます