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第18話 王子を解放せよ
◆エドゥアルド17歳 クラウス25歳
シェルブルン宮殿に、人々が集まってきた。玉座には皇帝が座っている。御前に続く長い通路の左右には、貴族や政治家、官僚たちがずらりと並ぶ。彼らのまとう香水の香りが漂い、衣擦れの音がざわめいている
ものものしい緊張感の中で、エドゥアルド王子の学科試験が行われた。
試験は、口頭試問である。国際法、刑法、統計学、歴史。居並ぶ皇族・貴族、官僚たちの目の前で、王子は、試験管の質問に答えなければならない。
……。
◇
レッスンを終え、クラウスが歩いていると、後ろから、がらがらと馬車が近づいてきた。
プリンスの馬車だ。そういえば、この後、ブルクの宮殿へ祖父の皇帝陛下に会いに行くと言っていた。試験の結果を聞きに行くのだそうだ。
「クラウス!」
馬車の窓が下げられ、エドゥアルドが顔を出した。
「やっと追いついた。お前、さっさと帰っちゃうから……」
「私に何かご用ですか?」
クラウスが答える。ちょっとうんざりしていた。ダンスの練習で、さんざん、振り回された後だからだ。
認めたくないが、プリンスの体力には叶わないところもあった。技術では補いきれない若さと情熱で、ぐいぐい押してくる。力任せなので、振り回されるほうも体力勝負だ。8歳の年の差は大きいのだと、日々、痛感している。
「疲れただろ? お前の家の近くまで、乗っていくといいよ」
……自分が疲れさせているという自覚はあるんだな。
クラウスは用心深く、プリンスの様子を窺った。
フェルナー王子と二人でいるところを見られてから、プリンスは、どことなくよそよそしかった。馬車の中で根掘り葉掘り尋問されたら、たまったものではない。
フランティクス皇帝の長男、フェルナー王子は頭がおかしいのだという噂を、クラウスは信じていなかった。頭がおかしいのは、そんな噂をたてる貴族たちの方だ。
フェルナー王子は、実に聡明な男だ。自分の立場をしっかりと理解している。
……「皇帝位は、長男継承が原則だ。次の皇帝は、自分だ」
フェルナーは言った。
……「だがメトフェッセルは、この国の政治を完璧に牛耳りたいのだ」
現に今も、皇帝の陰に隠れ、宰相は、陰謀を巡らせている。メトフェッセルの支配下にある間は、自分は生きていられるとフェルナーは言う。だが、少しでも彼に逆らえば、次の日には、不審死を遂げているだろう。だから、うつけ者を装っているのだ。
クラウスはもちろん、フェルナー王子のことを特別に思っているわけではない。人を愛する気持ちは、ギルベルトと二人で暮らした家に捨ててきた。ただ、自ら愚か者を装うこの王子に興味が湧いただけだ。向こうから仕掛けてきた手管に、乗ってみただけ。深い関係ではない。
子どもを相手にしていると、時にはそんな気晴らしも必要なものだ。
というか、全てがもう、どうでもよかった。この先も、たまたま近くにいる相手と、束の間の戯れに興じて自分は生きていくのだろう。本物の恋に出会えるとは、到底、思えない。
馬車の扉が内側から開かれた。
「ほら、早く」
プリンスが声をかけてくる。
断る機会を逸してしまった。仕方なく、クラウスは、馬車に乗り込んだ。
馬車の中で、プリンスは、上機嫌だった。
「及第している自信があるんだ」
背凭れに尊大に寄りかかり、エドゥアルドは言う。
試験が、皇族貴族の居並ぶ中で行われるという話を、クラウスは初めて聞いた。それも一発勝負の口頭試問だという。
「大丈夫ですか? ちゃんとできたんですか?」
思わず尋ねると、エドゥアルドは大きくうなずいた。
「うん。大丈夫。僕は歴史が得意なんだよ。歴史と、それに数学かな。天文学や物理学はちょっと苦手だけど」
「……すごいですね」
クラウスが言うと、途端に嬉しそうな顔になった。
「褒めてくれた? 僕、すごいだろ?」
「いや……、ご自分ですごいとか、おっしゃらない方が、」
言いかけたクラウスの言葉は途中で遮られた。
「数学が好きなのは、父上に似たんだよ。父上も数学がお好きだったようだ。僕が歴史が好きなのは、……父上のことをもっと知りたいと思うからだよ」
「すべて、お父様が基準になっていらっしゃるのですね」
エドゥアルドの父親は、オーディン・マークスだ。この国を戦乱の渦に叩き込み、クラウスの父親を自殺に追い込んだ……。
自分の声が尖るのを、クラウスは感じた。エドゥアルドは気がつかない。
「そうだよ。ねえ、クラウス。みんな、僕の父上のことを、まるで極悪人のように言う。だが、本当にそうなのだろうか。父上は、そんなに悪い人だったのだろうか?」
「……あなたはどう、思われるのですか?」
「わからない。僕は3歳の時に、父と離れ離れになったからね。顔さえも覚えていない。宮廷の人は誰も、僕の父のことを話したがらない。だから書物で読むしか、父上のことを知る方法がないんだ」
「父親なんか、最初からいないほうがいいんですよ」
思わずクラウスは口走っていた。
「少なくとも、私の父親はそうでした」
「えっ!」
そんなことがあるのかという顔を、エドゥアルドはした。
そのあまりの無垢な驚きに、クラウスは思わず唇を噛み締めた。
「私の父親は、没落貴族です。猟銃自殺をしました」
……自分を道連れに。
「え? や、でも、それは、」
エドゥアルドが慌てている。
「す、すまない、クラウス。僕は……」
「いいんですよ、エドゥアルド。あなたが悪いんじゃない」
……あんたの父親が、悪いんだ。
「父親なんか、最初から、いない方がいいんです」
しばらく二人は、黙り込んだ。馬車が石畳を走る音だけが、大きく響く。
「やっと、エドゥアルドって言ってくれたね、クラウス」
ぽつんと、王子が言った。
「は? そうでしたか?」
「うん。名前で呼んでくれたのは、そう呼ぶように僕が言った、最初の一回だけだった」
「……そうでしたか」
何と言っていいかわからず、クラウスは繰り返した。
その時、馬車が大きく傾いた。何かを制する、御者の大きな声が聞こえる。
はっと、クラウスは身を乗り出した。対面に座る王子を庇うように覆い被さる。
がしゃん、と音を立てて窓が割れた。石礫がクラウスの背をかすめて飛び、馬車の背凭れに当たって落ちた。
「プリンス! お怪我は?」
「なんともない。お前の方が心配だ。僕を庇って、」
「プリンス。先生! ご無事ですか?」
馬車の外から、御者が叫んだ。
「大丈夫だ。プリンスに怪我はない」
クラウスも叫び返した。興奮した御者の声が続く。
「若い男です。一人だけでした。ご安心ください。すでに通りの向こうへ駆け去りました」
「……そうか」
自分がプリンスの上に被さったままでいることに気づいて、クラウスは、はっとした。クラウスの下で、エドゥアルドはおとなしくしている。ぎっちり抱え込まれ、身動きがとれないのだ。
「これは失礼を」
慌てて身を起こした。
「それで、お前は?」
気づかわしそうな声が、焦れたように尋ねてくる。
「はい?」
「怪我とかしていないのか?」
「何も当たりませんでしたから」
足元に、石の礫が落ちていた。馬車の向こう端にぶつかって跳ね返ったものだ。石には、白い紙が巻き付けてあった。剥して広げると、何か書いてある。
「エドゥアルド王子を、わがムーランドの国王に!
オーディン・マークスの息子を、いつまでもシェルブルン宮殿に閉じ込め、捕虜にしておくことは許さない。
メトフェッセルは、緊急に王子を解放せよ!」
そして、奇妙な民族衣装を着た、エドゥアルドの似姿が描き添えられていた。
ムーランドは、ウィスタリアの辺境の国だ。オーディン・マークスの侵略で民族意識が高揚し、ウィスタリアから独立の機運が高まっている。
「プリンス……」
クラウスは、自分の顔が青ざめ、唇がわななくのを感じた。この石を投げ込んだ輩は、テロリストだ。王子奪還を狙って、接触してきた……。
「大丈夫だよ、クラウス」
だが、エドゥアルドは落ち着き払っていた。
「一人で馬車に乗ってると、わりとよくある。子どもの頃は、『オーディン・マークス、万歳!』と叫ぶ元兵士の一団に囲まれたこともあったし」
「……」
いつかそのうち、こんなアジテーションではすまなくなるのでないか。心の底から、クラウスは心配になった。
それなのに、プリンスは、平然としている。
投げ込まれたのが、爆弾だったら? オーディンを慕う者たちがいる一方で、その所業を未だに恨んでいる者たちもいる。
……自分のように。
家族を奪われ、館を、先祖代々の荘園を奪われた者たちは、何をしでかしてもおかしくはない。
「当分は、外出は控えられたら?」
思わずクラウスは口走った。
「なぜ?」
「だって、……中には、オーディンを憎んでいる者だっているんですよ?」
「父上を憎んでいる?」
意外なことを聞いた、という風にエドゥアルドが繰り返した。
クラウスは苛立った。
「だって、そうでしょう? 長く続いた戦争で、大事な人や財産を失ったら……」
「ああ、そうだね。でも、大丈夫だ、クラウス。僕は決して、父上のようになりたいわけじゃないんだ。僕が王になるとしたら、クーデターとかの非常手段じゃなくて、国民の総意と合意に基づいて選ばれるよう、努力する。必ず、お祖父様……偉大なるフランティクス皇帝の、諒承の元で」
何と言ったらいいのか、わからなかった。
なぜメトフェッセルは、この聡明な子どもを、幽閉同然に離宮の奥深くに閉じ込めておくのか。
今のこの貴族優先の政治を、ひょっとして、この子どもなら、変えることができるかもしれない。それも、父親のように武力と権力によってではなく、平和裏に。民衆の総意として。
にっこりと、プリンスがほほ笑んだ。
「今日は、お前が一緒にいてくれて、よかった。心強かったよ。ありがとう、クラウス」
「殿下……」
なぜだかクラウスは、泣きたくなった。
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