第14話 ヴィクトール
朝の光の中にその人はいた。つややかな黒髪は短く切りそろえられ、白いシャツに黒いズボン姿だった。上着は手に持っている。彼は大きな鏡の前にいた。蝋を塗ったような表情のない顔が鏡に映っている。
鏡の中の黒い目と、エドゥアルドの青い目が出会った。
「ヴィク……?」
エドゥアルドの口から声が漏れた。
男が振り返った。急いで上着を羽織り、儀礼的な笑みを浮かべた。きれいに整った、作られた笑顔だ。
「はじめまして、エドゥアルド・ロートリンゲン公爵。私は……」
「ヴィク! ヴィクだよね!」
プリンスは叫んだ。自分を抑えきれなかった。
「とうとう会えた。ヴィクトール! まさか、お前の方から会いに来てくれるなんて!」
飛びつくようにその手を握った。しっかりと握りしめ、ぶんぶんと振り回す。
「ヴィク、よかった。会えて嬉しい」
青年はびっくりしたように、されるがままになっている。
そこへディートリッヒがやってきた。くるくると丸めた手紙を、手に持っている。
「エドゥアルド王子。実は、残念なお知らせが……」
そこで、向かい合って立つ二人に気が付いた。教師は、教え子の肩に手をかけた。
「プリンス? ご存知の者でしたか?」
「うん!」
エドゥアルドは元気よく頷いた。頬を紅潮させている。
「彼はヴィクトールだ。僕に会いに来てくれたんだ」
「ヴィクトール?」
ディートリッヒは首を傾げた。
「ロートリンゲン公は、人違いをされているようです」
静かに黒髪の青年が口を開いた。握りしめたプリンスの手から、そっと自分の手を引き抜く。
「私の名前は、クラウス。ヴィクトールではありません」
「そうだ。ヴィクトールというのは偽名だ。確かにあの時、そう言った」
「あの時?」
「初めて会った時!」
彼は、さっぱりわからないという顔をした。不思議そうな表情が、儀礼的で無機質な微笑を押しのけた。とても人間らしく見える。
間違いない。エドゥアルドは確信した。
「君は、ヴィクトールだろ?」
「いいえ。私は、クラウス・フィツェックです」
「うん、だから偽名が」
「偽名ですと?」
割り込んできたのは、ディートリッヒだ。
「さっきから聞き捨てならぬ。貴公、そのようなものを使わねばならぬような身の上か?」
「いいえ」
きっぱりと黒髪の男……クラウスは否定した。
「私は、生まれた時からずっとクラウス・フィツェックです。お疑いなら、大学に照会なさればいい」
「クラウス・……フィツェック」
ディートリッヒは丸めた紙を広げた。しげしげと眺める。
「ああ、貴公が……王子のパートナーか。ダンスの練習の」
「え?」
エドゥアルドは不思議そうな顔になった。
「ダンスのパートナー? 女性じゃないの?」
「ですから、それについて、残念なお知らせがあると言ったのです。さっき、ブルク宮殿の執務室から手紙が届きました。王立大学から派遣されるのは男性だと」
名前の記されたその部分を、ディートリッヒは指でとんとんと叩いた。
「クラウス・フィツェック。この男ですな」
「御意」
慇懃にクラウスは頭を下げた。
◇
顔合わせということで、その日は練習はなかった。練習の日時等を打ち合わせ、ディートリッヒは退出していった。
クラウスが外套を羽織る。練習場を出ようとして、窓辺に残っていたエドゥアルドに気が付いた。うつむき、ありもしない足元の石を蹴っている。
「ロートリンゲン公。まだ、いらっしゃったのですか?」
わずかに眉を寄せ、クラウスは尋ねた。
「うん」
エドゥアルドが顔を上げた。足先は、相変わらずそこにはない石を蹴っている。重ねてクラウスが尋ねた。
「私に何か御用ですか?」
「そういうわけじゃないけど」
「これから体育科のフォルスト大尉の所に行かなくてはならないのですが。プリンスが運動過多にならぬよう、管理が必要とのことです」
「あのね」
エドゥアルドは思い切って、真正面からクラウスの顔を見た。黒い瞳が眩しい。
「本当にお前は、ヴィクトールじゃないの? あ、偽名の」
「違います」
きっぱりとクラウスは答えた。
「じゃあ、ヴィクトールという名に心当たりは?」
「ありません」
「全然? 全く?」
「はい」
微かに、迷惑そうな気配が感じられた。だが、エドゥアルドは食い下がらずにはいられなかった。だって、ずっと、探していたのだ。
「よく考えて。昔のこととかも。ほら、思い出してみて?」
「……そういえば、」
「そういえば?」
エドゥアルドの目が期待に輝く。
「昔、飼っていた犬の名が、ヴィクトールでした」
「犬……」
「垂れ目で、毛足の長い大型犬でした」
「賢い犬だったのか?」
「どちらかといえばバカでした。いつもドアの前で飼い主を待っていて、姿を見ると、いきなり押し倒す癖がありました。まあ、駄犬ですね」
「駄犬……」
その言葉が、「駄馬」という言葉と重なった。「ヴィクトール」が、自分が借りた白い馬を評した言葉だ。
エドゥアルドは、こっそりクラウスの顔を窺った。生真面目な固い顔をしている。嘘をついている風には見えない。
でも、間違いであるはずはなかった。この6年間、エドゥアルドは一時たりとも彼のことを忘れたことはない。この男は間違いなく、ヴィクトールだ。エドゥアルドを馬車からさらい、命を救ってくれた黒髪の青年だ。
馬車の車軸は、摩耗していた。あそこで彼が自分をさらわなかったら、馬車は山道にさしかかり、そして……今頃、自分は生きていなかったろう。
彼には感謝している。しかし、それ以上に忘れられないのは……、幼い彼に、唐突に仕掛けられた、不躾なキス。性急で、衝動的で、そして、不埒な。微かな、でも、ちゃんとそこにあった筈の、熱。この6年、エドゥアルドがどうしても忘れることのできなかった、……。
「お前は、随分と、薄情だな」
彼は小さな声でつぶやいた。
「は?」
クラウスが首を傾げた。わけがわからないという顔をしている。
忘れてしまったのか? 信じられない、とエドゥアルドは思った。自分はあの時の感触を、こんなにはっきり覚えているというのに。
「ところで、ロートリンゲン公、」
クラウスが話しかけてくるのを、エドゥアルドは遮った。
「堅苦しい呼び方はしなくていい」
「プリンス、」
「エドゥアルドでいい」
「……」
クラウスはためらっていた。だがすぐに、そのためらいを捨てた。まったく感情のこもらない口調で彼は言った。
「では、エドゥアルド。ダンスのパートナーには、女性をお望みでしたか?」
エドゥアルドは虚を衝かれた。
「それは……、ディートリッヒ先生が言ったから」
「男の私で申し訳ありませんでしたね。こればかりは、どうしようもありません」
「僕は……僕と先生は、よぼよぼのお婆さんが来ると思ってたんだ。だって、あのメトフェッセルが手配したんだろ? 先生は、おばあさんでもいいって言ってたけど」
宰相の名を聞いた時、クラウスの瞳が僅かに曇ったように感じられた。エドゥアルドは続けた。
「僕はね。おばあさんじゃなくても、練習相手は、女は嫌だ。だって女は、すぐにへたばるもの。そんなの、つまらない。男なら体力があるからね。思いっきり振り回せる。お前で良かったよ、クラウス」
ぎこちない笑みをクラウスは浮かべた。
◇
ヴィクトール。久しぶりで、その名を思い出した。練習場を出ていくプリンスの背を目で追いながら、クラウスは思った。
とんでもないバカ犬だった。ただ、ギルベルトにはなついていた。大きな体で飛び掛かってくるのを、ギルベルトはいつも、笑いながら受け止めていた。受け止めきれずに一緒に敷物の上に倒れながら、それでも彼は笑っていた。
どれだけ自分は、あの犬になりたかったか……。
クラウスは、頭を振った。忘れるんだ。ギルベルトのことは、もう。
プリンスが、自分のことを、ヴィクトールと呼んだのは、単純に記憶違いだろうと、クラウスは思った。
ヴィクトール。ありふれた名だ。ギルベルトが、飼っている犬につけたくらい。
ギルベルト……。
◇
クラウスの表立っての役割は、プリンスのダンスの練習の
この役をあのロッシが務めたとしたら、かなりおかしなことになっていただろう。なにしろロッシはガチムチの筋肉質で、身長もかなり高かったのだから。ロッシを女のかわりに振り回すのは、プリンスにとって、かなりの運動になるだろう。砲丸投げくらいの効果はあるのではないか。
一方、クラウスは、ロッシよりは小柄だった。筋肉はついていたが、着やせして見える。プリンスよりは若干、背が高い。だがロートリンゲン公は、成長期真っ只中だ。いずれ追い越されるだろう。
ダンスのパートナー……、だがロッシが示唆した通り、真の任務は別にあった。政府宰相のスパイだ。オーディン・マークスの息子をしっかりと見張ること。反政府勢力と接触させぬこと。そして……。
メトフェッセル宰相と会った時のことを思い出すと、クラウスは、体の震えを禁じ得なかった。怒りでだ。相手をしなければならないのが憎いオーディンの息子であることを差し引いても、なお余りある怒りがクラウスの身内を駆け巡る。
なぜ、王子に男を充てがうのか。それが、クラウスなのか。
確かに自分のものにしたいと思った。激しく熱い思いで。でもそれは、ギルベルト、ただ一人だ。ギルベルトは、ギルベルトだけが、特別だ。自分とギルベルトは、常人の知りえぬ深い絆で結ばれている。生と死を司る絆だ。ギルベルトはクラウスの生を、そしてクラウスはギルベルトの死を、それぞれ司っている。お互いになくてはならぬ間柄だ。そのはずだった。
……ギルベルトのことは、もういい。ゲシェンクのことは。
……彼の死を、自分は……考えるな。考えなくていい。今はまだ。
クラウスは、メトフェッセルとの会見を思い返すことに集中した。そうすることで怒りを、追憶より激しい感情を、掻き立てようとした。
なぜこの自分が、あのような子どもを誘惑せねばならないのか。まったくもって、理不尽な話だった。オーディン・マークスの息子を女に近づけたくないのなら、女の方を遠ざけておけばよいではないか。
彼には、ディートリッヒ伯爵という家庭教師がついている。伯爵が、大事なプリンスに悪い虫が寄ってくるのを、手をこまねいて見ている筈がない。伯爵は、悪い女を遠ざけるのに手段を選ぶまい。
メトフェッセル宰相の心配は、全くの杞憂というものだ。
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