第13話 自慢の生徒



 夜も更け、さしもの貴族たちの顔にも疲労の色が見え始めた。ようやくのことで、マーモン公爵夫人のダンス・パーティーは、お開きになった。

 正直、この年齢で、パーティーは疲れる。若い娘は誰も彼とは踊ってくれないし、といって、年増の婦人たちは食べることに夢中だし。ディートリッヒ伯爵は、ため息をついた。

 そうはいっても、エドゥアルド王子を、一人でパーティーに行かせる気には、とてもならない。プリンスはまだ、16歳。保護者の必要な年齢だ。教え子の後にしっかりとくっついて、ディートリッヒ伯爵は、今日も踊れもしないダンス・パーティーに参加したというわけだ。

 あまりに疲れたので、先に馬車に戻って待つ。プリンスはなかなか来ない。女性陣に引き留められているらしい。そりゃ、そうだろう。なにしろこの自分、マリウス・フォン・ディートリッヒが、手塩にかけてお育てした王子であるのだから。

 固い馬車の椅子に座り、ディートリッヒは一人でふんぞり返った。


 御者の声がした。音を立てて馬車の戸が開く。キャリッジを傾がせ、エドゥアルド王子が入ってきた。黒の燕尾服に、同じく黒のズボンに包まれた長い脚。この衣装は、でも、すぐに着れなくなるだろう。それほどプリンスの成長は目覚ましい。

 「お待たせしました、先生」

 礼儀正しく教え子は言った。豪華な金髪が、マーモン夫人の屋敷から漏れてくる明りを反射して輝いて見える。眩しさにディートリッヒは目を細めた。

 「また令嬢たちに取り囲まれていたのですか?」

 ディートリヒの対面に来るよう、座席を移動しながらプリンスは答える。

「というより、そのお母さま方に。なんで貴方がエスコートしているのは、いつもあのお髭の怖い先生なのですか? と聞かれました」

「エスコート? 心外な。しかもこの私が、貴方にエスコートされているですと!? 私は貴方の保護者ですぞ」

「彼女らが言うには、僕はもう、保護者が必要な年齢ではないそうです」

「いや。プリンスはまだ、十分、子どもです!」

 実際、ディートリッヒにとってはそうだった。しっかりとした受け答えができるようになろうとも。身の丈が彼の背丈を追い抜こうとも。社交界にデビューし、周りに女性たちの人垣ができようとも。彼にとってプリンスは、いつまでたっても子どもだった。


 エドゥアルド王子は、彼が育てたようなものだ。

 彼は、3歳で父と別れた。父の名は、オーディン・マークス。世界を戦乱に陥れた侵略者だ。極悪非道な悪魔は、彼にふさわしい末路を辿った。

 プリンスはまた、5歳で母と引き離された。母は、はるか南の荘園で暮らしており、今までに息子に会いにウィルンに来たのは、ほんの数回だけだ。

 この不憫なプリンスに教育を施すために、ディートリッヒは雇われた。

 愛国心に満ちた、真のウィスタリアの王子に育て上げる為に。

 軟弱なユートパクス文化を忘れさせ、質実剛健なウィスタリア文化を身に着けさせる為に。


 最初は、反抗的な子どもだった。「いやだ」「やらない」の連発だった。「先生なんか嫌い!」と言われたこともある。ディートリッヒといえど、この時はさすがに傷ついた。

 そのくせ、小鴨のようにディートリッヒの後からくっついてくる。時々、急に立ち止まった教師の背中にぶつかり、跳ね返って転んだりしていた。そして、かんしゃくを起こす。床をどんどん踏み鳴らす。リネン室に何時間も隠れている。それなのに、ディートリッヒの姿が見えないと、途端に心細そうな顔になる。

 本当に、かわいらしい子どもだった。

 一度、ディートリッヒの後をくっついてきたプリンスを、うっかり衣裳部屋に閉じ込めてしまったことがあった。プリンスが部屋についてきたことに気が付かず、自分だけが部屋を出て、鍵をかけてしまったのだ。

 夜になって、プリンスがいないと、大騒ぎになった。

 自分がプリンスを、寒くて暗い衣裳部屋に何時間も置き去りにしたのだと気がついた時、ディートリッヒは衣裳部屋のある塔のてっぺんまで駆け上った。そこから飛び降りなかったのは、既に寝室に運ばれていたプリンスが、泣きながら彼を呼んだからだ。

 死にそうになりながら彼の後を追ってきた女官が、どうにかそのことを伝えた。

 ……「あの時のディートリッヒ先生のお顔ったら!」

 これは、今でも語り草になっている。


 いくつになっても、エドゥアルド王子は、ディートリッヒの、かわいい生徒だ。実の息子……もうとっくに成人している……より、ずっとかわいい。


 馬車がごとごとと石畳を走り始めた。腰痛をこらえ、ディートリッヒは顔を顰めた。

 「先生、」

 向かい合って座ったエドゥアルド王子が口を開いた。もじもじしている。

「なんですか、プリンス」

「今日のダンスは、いかがでしたか? 僕は、あなたの、自慢の生徒でしたでしょうか?」

 青い目が真剣な色を帯びている。愛しさに、ディートリッヒは、胸がいっぱいになった。

「もちろんです。もちろんですとも、プリンス」


 パーティーでは、プリンスは本当に途切れなく、いろんな令嬢と踊っていた。特に、薄紅色のドレスの令嬢とのダンスが素晴らしかった。巧みなリードで踊るプリンスの姿を見て、ディートリッヒの体はどんどんそりかえっていった。自慢のあまり、ひっくり返りそうになったくらいだ。

 だが、こんなことは、プリンスには言えない。

 「よかった」

 プリンスは優雅な笑みを浮かべた。馬車の中が、ぱっと明るくなったようだった。長引く腰の痛みもどこかへ吹っ飛んだように、ディートリッヒは感じた。

 「ですが、プリンス」

 しかし、釘を刺すのを忘れなかった。なんといっても彼は、教育者なのだ。

「あなたは、常に完璧でなければなりません。確かに今私は、プリンスのダンスを褒めました。けれども大切なのは、踊りの技術だけではありません」

「はい」

「大切なのは……」

 ディートリッヒ先生は、言葉を切った。重々しい口調で続けた。

「パートナーの女性の扱いです。プリンスの踊り方では、相手の女性が疲れてしまいます。あのように、くるくる回したらいけません」

「テンポの速いワルツでしたから」

「関係ありません。現にシャルロッテ嬢は、気分が悪くなってへばってたじゃないですか。若い令嬢に、そのような思いをさせてはいけません。全くもって、配慮が足りません」

 高く結い上げた髪を、ぐらぐら揺らしていたシャルロッテ嬢のことを、ディートリッヒは思い出した。水色のドレスのせいで、よけい顔色が悪く見えた。彼が気が付いただけでも、彼女は3回プリンスの足を踏んづけていた。

「ま、確かにシャルロッテ嬢は、動きの鈍い方ではありますが。でも、ダンスは社交です。スポーツ競技じゃありません。体力勝負じゃないんですから」

「女性の扱いなんて、僕、わかりません」

「だからね。プリンスには、専属のパートナーを見つけてもらいました。ダンスの練習用に」

「えっ!?」

 期待と、でもそれ以上に大きな不安の響きがあるのを、ディートリッヒは聞き逃さなかった。


 プリンスには姉妹はいない。母は遠方におり、会うことも滅多にない。シェルブルン宮殿において、プリンスの世話をするのは、男性の侍従に限られている。女官もいることはいるのだが、専属ではない。彼女らは宮殿付きだ。プリンスにとって、女性とは、まったくもって、未知の生き物なのだ。

 かかか、と、ディートリッヒは大笑した。

「安心なさい、プリンス。探してきたのは、メトフェッセル宰相の事務官ですよ」


 メトフェッセイル宰相が、プリンスに女性を近づけたがらないのは、周知の事実だった。

 背が高くハンサムなプリンスは、女性たちの人気の的だった。エドゥアルド王子は若く、飛びぬけて見目麗しい。その上、このディートリッヒが育てたのだ。賢く礼儀正しい、飛び切りの紳士であることは保証できる。

 ウィスタリア王家の中には、一般庶民と結婚した皇族もいる。だがエドゥアルド王子の元には、いずれ外国の美しい姫が輿入れて来るだろうと、ディートリッヒは信じて疑わない。

 ……変な噂は、ないにこしたことはない。

 不用意に女を近づけるのは危険だ。女というのは、どんなに清純な乙女でも、ひとつ取り扱いを間違うと、とんでもないへと変化するのだから。

 なるべく女から遠ざけておく。これはディートリッヒが唯一、メトフェッセル宰相に賛成している教育方針だ。


 なおも笑いながら、ディートリッヒは言った。

「メトフェッセル宰相のお眼鏡に叶った女性です。どういう人が来るか、だいたい想像がつくでしょう?」

 わずかに、プリンスの眉が寄った。

 想像し、ディートリッヒも少し残念に思った。




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