第12話 ガニュメデスの息子


 ウィスタリア国宰相メトフェッセルは、朝から公務に急がしかった。

 オーディン・マークスによる略奪から、この国を、いや、ユアロップ大陸を平和に戻したのは、彼だ。

 オーディンによって導かれた民衆の革命を鎮圧した。そして、王政・貴族政治を復活させた。時計の針を逆戻ししたのは、彼、ウィスタリアのメトフェッセル宰相だ。

 彼は、オーディンの息子を、シェルブルン宮殿に幽閉した。本当は子どものうちに殺してしまいたかったのだが、皇帝の孫とあってはそうもできない。

 オーディンは死んだ。だが愚かな民衆にとって、オーディンの息子は未だ革命の象徴だ。彼らにプリンスを王として担がせるわけにはいかない。

 エドゥアルド王子は、死ぬまで、ここウィルンから一歩も出さない。そして、できるだけ早く、父親の元へと旅立たせよう。


 メトフェッセル宰相は、渡された書類に目を落とした。例のうるさい家庭教師、ディートリッヒ伯爵からの要請だ。16歳に達したエドゥアルド王子には、ダンスのレッスンが必要、と言ってきたのだ。

 ……「理論だけではいけません。実際に体を動かして、踊る必要があります」

 王子の練習につきあう、専属パートナーを寄越せと言っている。

 メトフェッセルの反対を押し切り、皇帝は、王子をウィルン社交界にデヴューさせた。

 フランティクス皇帝はエドゥアルド王子の祖父だ。皇帝は、メトフェッセルのすることを、大抵は黙認している。

 だが、二人の娘の犠牲だけは、今でも恨んでいる。

 皇帝の長女マリーゼは、オーディン・マークスに、「売り渡された」。そして生まれたのが、エドゥアルド王子だ。「売られた花嫁」は、長女のマリーゼだけではない。マリーゼの下の妹マリアンも、政略結婚の犠牲者だった。彼女は、遠くアメリア大陸に嫁がされた。夫である王子は非常に暴力的だという。


 そんな皇帝も、上の娘マリーゼの「不幸な結婚」で生まれた孫、エドゥアルドのことは、心の底からかわいがっていた。

 金髪碧眼、背が高くすらりとした王子は、ひときわ抜きん出て華のある存在だった。一瞬で、居並ぶ令嬢たちの目を、釘付けにする。ディートリッヒ先生は、鼻高々である。この上は、もっともっと、プリンスに磨きをかけねばならない。そう、決意したようである。

 ……無駄なことを。

 プリンスが、どこかの令嬢と恋に落ちることは、永遠にない。そんなことは、このメトフェッセルが許さない。

 プリンスは、16歳。女遊びは、構わない。相手が王子の評判を落とすような女なら、むしろ歓迎だ。

 しかし、うっかり子どもでも作られたらかなわない。たとえプリンスが若くして死のうとも、どこかに隠し子なんぞをつくられていたりしたら、次世代までめんどうを持ち越すようなものだ。

 オーディン・マークスの直系は、エドゥアルドで、完璧な終焉を迎えるのだ。


 事務官には、ダンスを教えられる男性講師を探せ、と言っておいた。漠然とした指示に戸惑った事務官は、とりあえず講師という言葉に反応したらしい。王立大学を当たっていた。身上書が届いている。

 メトフェッセルは、書類に目を落とした。

 「クラウス・フィツェック、24歳。ウィルン近郊ヴァグム出身。」

 ヴァグムは、ユートパクスとの国境の町で、真っ先に侵略された。その後、市民が蜂起を起こすも、激しい戦闘の末に鎮圧された。

 父は、没落貴族。オーディン・マークスの無茶な経済政策のせいで、先祖代々受け継いできた荘園を失っている。ユートパクス軍が蜂起鎮圧に進軍した際に、猟銃自殺。

 母は、その前に出奔している。

 ……零落した夫を見限ったか。

間違いあるまい。

 メトフェッセルは頷いた。

 ……なかなか、よいではないか。

 ……この者は、オーディン・マークスに恨みを抱いている筈だ。

 ……もちろん、その息子にも。


 無粋なやり方はしたくない。なんといっても、エドゥアルド王子は、皇帝の孫だ。

 オーディン・マークスとの戦いを、皇帝とメトフェッセルは共に戦ってきた。ついに戦に負けた時は、その圧政を共に凌いできた。フランティクス帝に悲しい思いをさせるのは、メトフェッセルとて、本意ではない。

 だが今のところ、彼の計画はうまくいっていない。思い余って馬車を細工したが、惜しいところで邪魔が入った。なんと、王子がさらわれたのだ。車軸の細工が露見しなかったのはよかった。無能な御者は、厳しい懲罰の上、解雇した。彼はもう、馬に乗ることはできないだろう。


 身上書の最後に、何か走り書きされている。薄くこすれて読みにくい。

 ……ガニュメディス。

 一度書いてから、消した跡があった。ここだけ、インクの色が、違っている。身上書を書いたのは、本人であるクラウスだ。だが、この欄外の文字は、違う人間が書いている。書いて、そして消した。

 身上書は、ほかの書類とまとめて、クラウスの現在の雇用主である、大学の学長が提出している。タレコミ情報があったのかもしれない。それを元に、学長が書き加え……消したものであろう。この青年が採用されれば、大学には、助成金が入る。

 ……ガニュメディスか。なるほど。これはよい。

 メトフェッセルはベルを振った。

 入ってきた侍従に、この身上書の主を連れてくるよう、言いつけた。



 部屋へ入ってきた青年を見て、メトフェッセルは目を細めた。

 黒目黒髪。背は高くはないが、痩せた体は筋肉質に引き締まっている。24歳とあったが、20歳そこそこに見えた。

 「クラウス・フィツェック。エドゥアルド王子のダンス講師に任命する。これは、皇帝陛下のご意思である」

 重々しい声でメトフェッセルは命じた。クラウスは無言で頭を下げた。

「かのオーディン・マークスの遺児だ。任務の真意は……わかっているな」

「プリンスの素行を見張り、謀反のお気持ち無きことを、日々、確認すること」

まるで感情の籠らない声で、クラウスはそらんじた。


 ……ほう。

 ……ちゃんとわかっているのか。

 ……頭の中身まで筋肉ということはないのだな。

 メトフェッセルは思った。

 プリンスの他の家庭教師たちは、みな、彼の親の年代だ。彼らには、プリンスの本当の気持ちはわからない。だが、年齢の近いこの男なら可能だろう。プリンスの身近に侍り、その動向を探ることなど容易いに違いない。

 もちろん、それだけではないということを、わからせる必要があった。


「エドゥアルド王子には、ロートリンゲン公爵という身分が与えられている」

 オーディン・マークスの息子を、いつまでも王族の待遇に置いておくわけにはいかない。母のマリーゼを、南の荘園主の身分に封じたように、エドゥアルドにも、なんらかの身分を与える必要があった。

 それが、ロートリンゲン公爵だ。これにより、エドゥアルドの身分は確保されたことになる。祖父の、フランティクス皇帝の、配慮であった。


「だが、ロートリンゲン公爵は、一代限りの身分だ。世襲は許されない。この意味が、わかるか?」

 クラウスは俯き、頭を垂れた。吐き捨てるように、メトフェッセルは口を開いた。

「プリンスを女に近づけるな。子を作らせてはならぬ。よいか。いかなる手段を用いても、プリンスを女に近づけてはならない」

「いかなる手段とは?」

 クラウスが顔を上げた。黒い、熾火のような目で、じっとメトフェッセルを見つめる。

「……昔、アルベルク将軍にも同じ言葉を使った。マリーゼ内親王について、南へ下った護衛官の」


 マリーゼ内親王はエドゥアルド王子の母親だ。そして、オーディン・マークスの妻でもあった。つまり彼女は、敗戦国ユートパクスの帝妃だったのだ。従って、オーディン・マークスの残党にさらわれる危険性が高かった。さらわれ、そして后妃として祭り上げられる……。

 オーディンの没落に伴い、実家であるウィスタリア宮廷に帰ってきた彼女を、そのまま首都ウィルンに置いておくのは危険だった。だから、安全な南の地方に荘園を与えた。

 彼女には、専属の護衛官を付けた。それが、アルベルク将軍だ。彼は、歴戦の強者だ。そしてまた、文学や音楽の道にも長けた洒落者でもある。

 出立前に、メトフェッセルは、彼に命じた。

 ……いかなる手段を使っても、皇女を、敵の手から守るのだ。

 ……いかなる手段を使っても。


 「アルベルク将軍は、優秀だった。彼は、マリーゼ内親王のお気持ちを、完膚なきまでにオーディン・マークスからそらせた。そして、内親王の帝妃復位を望む輩を失望させた。将軍は何をしたと思う?」

「……」

 相手の答えなど、メトフェッセルは待ってはいなかった。

 自分の声の残響に被せるように言い放った。

「将軍は、内親王を孕ませたのだよ。何度も何度も。もちろん、暴力なぞは用いていない。すべては、マリーゼ内親王の御心のままだ」

 皮肉に口を歪めた。

「それも、まだかつての夫オーディン・マークスが、アドレア海の孤島に幽閉されて生きているうちから」

 相手の目に非難の色が浮かぶかと、メトフェッセルは注意深く様子を窺った。

 漆黒の瞳からは、いかなる感情も読み取れなかった。満足してメトフェッセルは先を続けた。

「お前も、同じようにするがよい」

 クラウスに、初めて戸惑いが浮かんだ。

「しかし、私は男ですが。王子もです」

 メトフェッセルは取り合わなかった。椅子から離れた。クラウスの顎をつかんで引き上げる。

「お前は、孕むことはあるまい。そうだろう、クラウス・フィツェック。ガニュメディスの息子よ」

 はっと、相手が息を飲んだのを、メトフェッセルは見逃さなかった。

 ガニュメディス。身上書の端に書いてあった言葉だ。消した跡があった。ガニュメディスとは、ギリシャ神話に出てくる美少年だ。転じて同性愛を表す。

 高い声でメトフェッセルは笑った。

「お前を見込んでのことだ、クラウス・フィツェック。王子に教えてやるがよい。女を抱こうという気など、金輪際、起こさせぬほど、をな」




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