第10話 川底の妖精


 「おおい、クラウス! ちょっと頼む!」

 学寮長のヨハンが呼んでいる。音楽会の後のパーティーがたけなわとなっていた。


 ギルベルトの曲は、すごく人気があるわけではない。でも、彼の曲を愛する人は多い。特にその人柄を知ってしまうと、曲の方も愛さずにはいられなくなる。だから友人たちが企画して、時折こうして内輪の音楽会が開かれる。

 ギルベルトの音楽会には、学生など若い客が多い。音楽会の後は、毎回どんちゃん騒ぎになる。ぴったりくっついてワルツを踊る男女。壁際から囃し立てる者。傲然と割り込み、パートナーを強奪する猛者もいた。酒が出回り、熱気と喧騒が満ち満ちている。


 正気をなくしたように笑い騒ぐ人々をなんとか掻き分け、クラウスはヨハンのところまで渡った。

 「これ」

 ヨハンは、テーブルに突っ伏した藁色の短く刈られた髪に覆われた頭を指さした。

「ギルベルトが酔いつぶれた」

 ゆさゆさと揺する。目を覚ます気配もない。

「……珍しい」

 ギルベルトがこんな風に正体をなくした姿を、今までクラウスは、見たことがない。

「そうか? なんだかこの頃、荒れてて。作曲の方は順調みたいだけど。女かな」

 クラウスの胸の鼓動が、強く乱れて打った。

「お前、一緒に住んでるんだろ? 心当たりはないか?」

「……」

クラウスは言葉に詰まった。何を勘違いしたか、ヨハンが首を横に振る。

「お前にとって、ギルベルトは親みたいなものか。親の色恋沙汰なんざ、知りたくないもんな」

「うん、そうだ」

 違う。ギルベルトは最愛の人だ。大事な大事な大事な、愛しい人。でもそれは、決して、悟られるわけにはいかない。周囲の人にも。ギルベルト本人にも。


 ヨハンが何か言っている。

「……だから、頼むよ、クラウス」

 はっと、クラウスは我に返った。

「なんだって?」

「聞いてなかったのか? このセンセーを、連れて帰ってくれよ。マイヤーもシェルンも、みんな都合が悪いんだ」

「あんたは? ヨハン」

「俺だって、お持ち帰りだ」

 顎で部屋の隅を指し示す。チュールで飾り立てたドレスを着た娘が、所在無げに両手を後ろで組んで、壁に凭れ掛かっている。唇の色がどぎつい。

「この後、予定がないのは、お前だけなんだ、クラウス」

「……」

「それとも、ついにお前も女を拾ったか?」

「いいや」

「相変わらず即答だな。だったら、な? 必ず埋め合わせはするから」

「……わかった」

 頑なに拒否するのは危険だった。クラウスは、テーブルに突っ伏した男の背を叩いた。

「さ。帰りますよ、ギルベルト」



 静かな夜の道を歩いていく。酔い潰れたギルベルトに肩を貸し、ゆっくりと歩いた。


 ……何か、あってはいけない。

 ……何も起こらないようにしなくては。

 自分を諫めるのに、懸命だった。


 「~~♪、♯~、~~~♪」


 肩の辺りから歌声が聞こえる。ギルベルトが歌っている。細く、透き通るような声だ。クラウスは耳を澄ませた。


 ♪川の流れに教えてもらった

  休まず流れる

  川の流れに


 知っている曲だ。ギルベルトの曲ではないが、クラウスの大好きな歌だ。小さな声で、クラウスも合わせて歌った。


 ♪谷に向かって爽やかに澄んで

  歌のまま せせらぎのまま

  なりゆきに 身を任せよう


 くすくすと笑い声がした。

 「二人ともテナーだから、音が重ならない。ただのユニゾンになっちまう」

 むっくりと身を起こし、ギルベルトは言った。

「どっちか、バスなら良かったのに」

「僕は、バスのパートも歌えます」

「なら、もう一度、やってみる?」

 二人は、立ち止まった。目と目を見合わせ、呼吸を図る。ふっと息が合い、歌い始めた。


 ♪小川よ

  お前は僕を魅了した

  そのせせらぎの音で

  川底で輪になって踊る

  妖精の声で 


 「うん、なかなかだ」

 ギルベルトは嬉しそうだ。すっかり酔いも醒めたのか、踊るような足取りで歩き始める。慌ててクラウスも後を追う。


 「なあ、クラウス」

歩きながら、ギルベルトは言った。

「一緒に歌えるって、素晴らしいと思わないか? 声の質がぴったりと合う。音程がきれいに重なる。そんな相手とは、生涯、共に過ごしたいと思うよ」

「……僕もそうです」

「お前の声が、俺は好きだ。壊れ物みたいに繊細で、そのくせ、向こう見ずなまでに堂々としている。お前の声が、俺は、大好きだ」

「大好きって、言わないでください」

かすれた声でクラウスは言った。

「なんで? お前は俺の弟みたいなもんだ」

ギルベルトはくすりと笑った。

「あるいは、息子みたいな? お前が大事だ、クラウス」

「大事だったら……」

「なんだ?」

「いえ、」

 クラウスは臆病だった。この期に及んでも、彼は言うことができない。

 好きです。

 あなたが好きなんです。

 もうずっと、子どもの頃から。


 ふっと、ギルベルトが笑った。

「時々俺は心配になる。お前のその歌声は、なんだか……なんだろう。永遠じゃない気がして? よくわからない。ただ、お前とずっと一緒にいられたら、素晴らしいと思う。こうやって歌を歌っていられたら、どんなに幸せかと」

 我慢することは、できなかった。クラウスは、両腕を広げ、愛する男を抱きしめた。笑いながら、ギルベルトがクラウスの背を抱き返してきた。

 ……自分のものにしたい。ぎゅっと、締め付けるように封じ込め……。

 慌ててクラウスは、彼の体を押し返した。

「寒くなってきた。帰りましょうか」

 なんでこんなに簡単に。ギルベルトのそばにいると。

 クラウスには、わけがわからなかった。ただ、彼に、自分の体の変化を悟られるわけにはいかない。

 なおも笑いながら、ギルベルトは頷いた。



 一度。

 一度だけ、告白しよう。

 クラウスは決意した。

 拒絶されるかもしれない。でも、なにもなさずに悩み続けるのは、もう限界だ。

 クラウスには、切り札があった。ギルベルトはゲシェンクだ。クラウスがいなければ、死ぬことができない。どんなに拒絶しても、クラウスを手放すことはできない筈だ。



 ギルベルトは、ピアノを弾いていた。流れるような調べが、なんだか悲し気だ。そして、肺腑をえぐるほど、美しい。

 ギルベルトの後ろに、クラウスは立った。曲の切れ目を待って、その肩を抱こうとした。

 不協和音が響いた。

「祝福しておくれ、クラウス」

前を向いたまま、ギルベルトが言った。

「恋人ができた。彼女とは結婚を考えている」

 ずっと恐れていた瞬間だった。

 結婚。もし彼にそうした恋人ができたなら、クラウスは、身をひくつもりだった。

 彼には、幸せになってもらいたかった。クラウスは、傍らで彼の幸せを見守っていくだろう。だってギルベルトの最期を司るのは、妻ではなく、クラウス自身なのだから。ギルベルトは、彼がいなければ死ぬことができない。衰えていく肉体を、永遠に苦しまなければならない。愛する人にそんな苦行を科すことは、クラウスにはできない。

 決して務めを放棄したりしない。だから、安心して幸せになって欲しい。自分を捨てても、構わないから。

 愛している。だから、その幸せを望む。

 無言でクラウスは立ち去ろうとした。


 「踊る犬亭の、ハンナだよ」

 こともなげに、ギルベルトが言った。

 クラウスは絶句した。よりによって、「踊る犬」亭の、ハンナ。

 「踊る犬」亭は場末の酒場で、ハンナはそこの女給だ。遊びとして、有名だった。誰彼かまわず寝るという噂だった。

 噂は真実だ。彼女に病気をうつされたという男を、クラウスは何人か知っている。

 ギルベルトが選んだのが女なのは、仕方がない。彼は男より女を選ぶ種類の人間だ。だが、ハンナとは……、決して、ギルベルトにふさわしい相手ではない。

「……本当に、好きなのですか」

 声が震えた。

「本当に、あの女が……だって、あなたは今まで一度も、そんなことは、一言も、」

 確かに、ギルベルトが選ぶのは女だ。しかし、彼は決して、女に狂う男ではない。

 かつて、いろんな女が、ギルベルトに好意を寄せた。どれも、相手の女が一方的に熱を上げただけだ。その誰にも、ギルベルトは恥をかかせなかった。

 だが、交際は一時的なものに過ぎなかった。

 ギルベルトは優しく、断り切れない場合にだけ、ごく短期間、つきあった。相手の女性の名誉を傷つけない為に。

 「だって、ハンナは……いろんな男とつきあって、」

 かすれた声でクラウスは叫んだ。

 ピアノが大きな音を立てた。鍵盤にギルベルトの両手がたたきつけられたのだ。体ごとギルベルトは、クラウスの方を向いた。

「俺の恋人を侮辱しないでもらいたい」

 強い抗議だった。思わずクラウスは怯んだ。

 ギルベルトが立ち上がる。クラウスを抱き寄せ、その耳元に唇を寄せる。クラウスの体が硬直した。重要なことを打ち明けるように、彼は耳元で囁いた。

「女はいいよ、クラウス。柔らかくて優しくて。女には、骨ばったところなんかひとつもない。その上、いい匂いがする」

 ギルベルトに抱き寄せられたまま、じりじりとクラウスはあとじさった。

 ぱっと、ギルベルトが手を離す。大きな声で笑った。

「お前は、女を知らないだろう、クラウス。ぜひ一度、経験してみたまえ。なんなら俺が紹介してやろうか?」

 限界だった。クラウスは、唇をわななかせた。くるりと後ろを向き、立ち去った。









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※ 作中の歌は、シューベルト〈水車小屋の娘〉をアレンジしています。







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