第9話 二人きりの静かな冬の夜


◆エドゥアルド16歳 クラウス24歳 ギルベルト36歳



 「クラウス。お前、人に教えてみる気はないか?」

 寝そべって本を読んでいるクラウスに、ギルベルトが声を掛けてきた。

 二人きりの、静かな、冬の夜だった。クラウスは、驚いて顔を上げた。

「教える? 何を?」

 ギルベルトは、大学で音楽を教えている。しかし自分には、とてもそのようなことはできない。

 クラウスは、ギルベルトやその他の教師たちに頼まれたことを調べたり、討論の記録を取ったりして賃金を得ていた。それで充分だと彼は思っていた。クラウスに野心はない。ただギルベルトのそばにいられれば、それでよかった。

 ギルベルトは、持っていた紙を、ひらひらと振った。

「ワルツだよ」

「ワルツ?」

 従来のダンスは、メヌエットと言われる、ゆったりとしたテンポのものが大半だ。だが、最近の流行はワルツだ。

 これは、くるくる回転しながら、パートナーを会場の端から端へと導く。メヌエットに比べ、かなり激しい動きを伴う。庶民の間から始まったものだが、今では、貴族階級でも、ダンスといえばワルツらしい。

「だめですよ。僕は、人に教えられるほど踊れない」

「何を言うか。君のダンスはなかなかのものだぜ? 踊る相手が女性じゃないのが難点だが」

「……」

思わず絶句したクラウスに、ギルベルトは畳みかける。

「教えるっていっても、大学でじゃない。生徒は一人だ。エドゥアルド・ロートリンゲン公に、教えるんだ」

「なんですって?」

 エドゥアルド・ロートリンゲン公爵というのは、かつてこの国を蹂躙したオーディン・マークスの息子だ。

 戦争に負け、オーディンはアベリア海の孤島に幽閉され、そこで死んだ。だが息子のほうは、母親の実家であるウィスタリアの宮廷に引き取られていた。

 今年、16歳になったはずだ。社交界デビューが近いとかで話題になっている。

 オーディン・マークス。彼こそ、この国を戦乱に巻き込んだ、張本人だ。クラウスの父を死に追い込んだ、悪魔そのもの。その息子が、社交界デビュー?

 顔を背け、クラウスは吐き捨てた。

「いやです、僕は」

 ギルベルトは眼鏡を押し上げた。この頃彼は、書見の時、眼鏡をかけている。強弱の陰影が表れたその顔も、クラウスは好きだ。

「そう言うなよ、クラウス。この話は体育科のロッシのところに来たんだが、彼、足を痛めちゃって。君は、ロッシよりさらに公爵に年齢が近い。適任じゃないか」

「でも、僕はいやだ。オーディンの息子なんて、願い下げです」

吐き捨てるように言うと、ギルベルトは苦笑した。

「確かにロートリンゲン公は、オーディン・マークスの息子だ。でも、皇帝陛下の孫でもあるんだぞ。ウィスタリアの、まごうことなき皇族だ」

「だから? ユートパクスもウィスリアタも、とにかく、皇族や国の為になんか、僕は、金輪際働きたくはない」

「そうか」

案外あっさりと、ギルベルトは持っていた紙をひっこめた。

「だが、考えておいてくれ。公爵のいるシェルブルン宮殿は遠い。ここからじゃ、通えない。この家を離れる、いい機会じゃないか」

「ここから離れる……?」

 声が震えた。

 いつもいつも、怯えていた。ギルベルトに捨てられることを。子どもの頃からずっと。

「そうだよ」

 あっさりと彼は頷いた。

「そろそろ俺も身を固めなくちゃ。お前だって、いつまでも若くはないんだ。早いほうがいいぞ」

 クラウスは唾を飲み込んだ。懸命に軽い調子を出そうとする。

「あなたに関しては、手遅れです。もう三十路ど真ん中でしょ。今頃、何言ってるんですか」

「ひどいなあ。まだ十分、若いと思うが」

「そんなことはありません。若いと思っている年寄りほど、手に負えないものはないんですよ? いいじゃないですか。僕が老後のめんどうは見ますから。そういうことを心配する年齢なんです、あなたは。ここはもう、諦めて、」

「だから、急ぐんだよ」

ギルベルトが遮った。

「だから急ぐんだ、クラウス」



 閉じたドアの向こうで、ギルベルトが、呼びかけている。衝動的に、クラウスは、家を飛び出していた。

 外は小雨が降っていた。しとしとと降り続く雨の中を、どこまでもまっすぐに歩いていく。

 歩きながら、クラウスの気持ちは、治まらなかった。熱い、怒りの気持ちだ。

 ここを出る? ギルベルトと離れて生きて行けというのか。自分がゲシェンクだということを、ギルベルトは忘れたのか。クラウスがいなければ、死ぬことができないくせに。

 二人は一緒なのだ。ずっと死ぬまで、一緒にいなくてはいけないのだ。

 しかし、実際にギルベルトを手にかけることを考えると、体が震えた。

 ギルベルトが好きだ。どうしようもなく、彼のことが好きだ。ギルベルトに手にかけるなんて、できるわけがない。

 幸いそれは、まだ遠い先のことであるはずだ。だから、なるべく考えないようにしてきたのに。

 身を固める。もし本気で、ギルベルトがそれを望んでいるのだとしたら? この年までギルベルトが独身で来たのは、クラウスがいたからなのだろうか。弟とも息子ともつかないのがそばにいたのでは、恋もままならなかったのかもしれない。

 クラウスは、ギルベルトに愛されて育った自覚がある。弟として。あるいは、息子として?

 それは、彼が望む形ではなかった。もう、ずっと。

 だが、彼には、幸せになってほしい。その幸せが、自分と同じものであったのなら、どんなにか幸福だったろう。


 ……でも、違うんだ。

 ……彼は、違う。


 自分の気持ちを、彼に悟らせるわけにはいかない……。



 この頃、クラウスは、安定している。夜中に悲鳴をあげて、暴れることもなくなった。やっぱりは、思春期の一過性のものだったのだ。

 だが、ギルベルトの認識は間違っていた。


 数日前の夜のことだ。彼は、久しぶりに甲高い悲鳴にたたき起こされた。

「クラウス……」

 クラウスは、寝台の上で起き上がっていた。ドアを開け、ギルベルトが入っていくと、両手を前に突き出した。抱いてくれ、というかのように。

「クラウス」

 だが、その目はしっかりと閉じられている。久しぶりで発作が起きたのだと、ギルベルトは悟った。

 そっと手を握る。冷たく汗ばんだ手が、ぎゅっと握り返してきた。指にキスをし、肩にそっと腕を回した。クラウスは、目を覚まさない。発作の深い眠りに落ちたままだ。

 押し倒すように寝かしつけると、暴れて半身を起こそうとする。ひどく怯えている。もがき、なんとか起き上がろうとしている。

 両肩を抑えつけた。柔らかい布団の上に置いておかないと、心配だった。何かにぶつかって、怪我をしてしまうかもしれない。

 ギルベルトの下で、クラウスがいやいやをしている。首を左右に揺すり、もがいている。こんなに激しく動くのに、目はしっかりと閉じられたままだ。

「大丈夫だ。俺だよ、クラウス」

「ギルベルト……」

 口の形が動いた。声は出ない。

「そうだ。俺だ、ギルベルトだ」

 クラウスの動きが止まった。

 不意に、その顔が、激しくゆがんだ。瞼から、涙が一粒、ぽろりと落ちた。

「クラウス?」

 ギルベルトの指が涙を掬った。透明な涙は、ギルベルトの肌に触れ、すぐに乾いてしまった。そのままそっと頬を撫で、唇をなぞった。

 柔らかい唇が、半分開いている。我慢できなかった。気が付いたら、自分の口をつけていた。

 ギルベルトは、慌てて顔を離した。キスは、キスだけはしないようにしてきたのに。

 用心深く様子を窺う。クラウスは、深い眠りの中だ。心の中に根深く巣食う怯えの中で、深く深く眠っている。 

 もう一度、顔を下げた。自分の唇で、柔らかく、食むように彼の唇を挟む。

 我慢ができなくて、そっと舌を出し、前歯を舐めた。少しの空いた隙間から、奥に割り込む。眠った舌を捕らえ、絡ませようとした。

 クラウスの体が、びくっと震えた。


 ……だめだ。

 ……もう、これ以上は。


 唐突に身を起こした。体の異常を感じた。慌ててベッドを出ようとする。

 下から、低い悲しげな呻きが聞こえた。

「ギルベルト……」

「なんだ?」

 思わず問い返す。

「……好き」

 頭がかっとなった。

 なんで、こんな、乱暴な、

 そうじゃなく、

 ……もっと優しく。

 布が裂ける音がした。明日の朝、クラウスは破れた寝間着を怪訝に思うに違いない。

 すべてが、制御不能だった。ギルベルトはクラウスの下ばきを引きずりおろした。

 一瞬だけ、クラウスが目を開く。ギルベルトの顔を見、にっこりと笑った。すぐにまた、固く瞼が閉じられる。

 ……なんて凶暴な色気だ……。

 自分が抑えられない。力任せに彼をうつぶせにした。体の下にクッションをあてがい、腰を高く持ちあげる。慌ただしく自分の下ばきを押し下げた。

 眠った体にのしかかる。太股のわずかな隙間に自分自身を割り込ませる。

「あ……」

小さな悲鳴が漏れた。

 目を覚ましてしまうかもしれない。熱い頭のどこかでそう思った。その時はその時だ。

 思いやる余裕は、もうなかった。

 そのまま動き続けた。

 ……。


 深い自己嫌悪の中、眠ったままのクラウスの体を拭き、ギルベルトは立ち去った。

 そうして、手遅れになる前に、彼を手放す決意をした。





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