第8話 オーディン・マークスの死


 数日後。


 「君が行ってくれ」

 上司であるディートリッヒ伯爵に言われ、フォルスト大尉は、ためらった。二人は、ウィスタリアの王子エドゥガルドの家庭教師チューターを務めている。

「しかし、プリンスは、あなたの方をより信頼していらっしゃいます。私などより、ずっと」

「わしは、自信がない。それはつまり……」

 頬髯のある強面の男が言葉を詰まらせた。

「つまり、わしは、教え子に、涙を見せたりしたくはないのだ」

 この男が泣くのか、と、フォルストは思った。軍人である自分よりずっと厳しくプリンスに接してきた、この年上の男が。

 ディートリッヒの鼻は、頬髯の上に覗いていた。すでに赤く色づいていた。

「誤解しないでもらいたい」

ディートリッヒは言った。

「あの男の死を嘆いているのではない。あの男がこの国にもたらした災厄を考えれば、それはむしろ、慶事だろう。だがプリンスの悲しみを思うと……プリンスがどれだけの悲哀に打ち沈むかと思うと……、わしは……、とてもではないが、彼に告げることはできない」

 フォルスト大尉に、そこまでの思い入れはなかった。フォルストは、エドゥアルド王子の体育教練を受け持っている。

 金髪碧眼の、美しい王子だ。こぼれそうな瞳でじっと見つめられると、つい、指導も甘くなりがちだ。走り込みや反復運動など、体にきついものは、後回しにしがちだった。単なる甘やかしと言われれば、それまでかもしれない。

 一方、ディートリッヒは、非常に厳しい教師だった。彼の出す課題は絶対だったし、提出の遅れは許されない。態度が悪ければ、体罰さえも辞さない。

 フォルストなどよりよほど、プリンスを大事にしているからだ。本気で彼の将来を考えているから。ディートリッヒの厳しさは、保護者としての、深い愛情でもあった。


 ……彼に、この任は無理かもしれない。

 ……しかし、だからと言って……。


 プリンスがどのような境遇か、フォルストとて、よく知っていた。彼の父親への深い愛情も、また。

 この国の仇敵であろうと、父は父であることに代わりはないのだ。

 どのようにウィスタリア風の教育を極めようと、そしてまた、プリンス自身が母国語ユートパクス語を忘れてしまおうと、彼の、父親を恋い慕う気持ちだけは、どうすることもできなかった。


 エドゥアルド王子の部屋の前で、フォルストはしばらく佇んだ。

 いったいこの知らせを、どのような顔で、プリンスに伝えればよいのか。

 彼は泣くだろうか。自分はどう言って、慰めればよいだろう……。


 プリンスは、机に向かって本を読んでいた。ドアを開けて入ってきた家庭教師フォルストを振り返った。

 優秀な子どもだ。この前の年、基礎科目終了試験に、優秀な成績で合格したばかりだった。

 「何か御用ですか、フォルスト先生」

 プリンスが振り返って尋ねた。バラ色の頬が輝いて見える。

「殿下……」

 青ざめた体育科教師の顔いろを、エドゥアルドは素早く読み取った。不審そうに小首を傾げる。

 目をつぶり、殆ど一気に、フォルストは言ってのけた。

「ユートパクス帝国元皇帝オーディン・マークス陛下におかれましては、5月5日、配流先のアベリア海の孤島で絶命されました由……お伝え致します」

 エドゥアルドの呼吸が、止まったように感じられた。青く澄んだ瞳を見開いて、彼はじっと、フォルストを見つめた。視線が痛い。フォルスト自身の両目も見開かれていた。目の奥が空気に晒され、乾燥していくのがわかる。耐えられない苦痛だ。

 やがて、大量の涙が、プリンスの目からあふれ出た。声を押し殺して、彼は、泣き続けた。



 「どうだったか?」

 教師控室に戻ると、心配そうに、ディートリッヒが尋ねてきた。そんなに気になるのなら、自分が行けばよかったではないかと、フォルストは恨んだ。

「私が想像しておりましたより、プリンスはずっと、涙を流されました」

「そうだろう」

せかせかとディートリッヒは頷いた。

「我々もプリンスに寄り添い、かつての偉大なる帝王に弔意を表そうではないか」

 上司の提案に賛同することは、フォレスチにはできなかった。

「そんなことはできません! あの男は、戦犯です。この国を戦禍に巻き込み、悲惨と失意のどん底に落とし込んだ張本人なんですよ!」

「しかし、エドゥアルドの父であることに変わりはない。教え子の父親の死を悼むことをさえ、この国は許さないというのか?」

「皇帝陛下はお許しになるでしょう。しかし、メトフェッセル宰相が……」

「しっ、静かに!」

フォルストを諫め、ディートリッヒは周囲を見回した。

 戦争が終結した時、ウィスタリアの宰相、メトフェッセルは、オーディン・マークスの処刑を強硬に主張した。幼いプリンスが、母親について南の荘園に下るのを阻止したのも、彼だった。

 辺りに誰もいないのを確かめると、ディートリッヒは力強い声で言った。

「われらがフランティス皇帝は、決してオーディン・マークスの死刑をお認めにならなかった。彼は、皇帝の娘婿であり、孫であるプリンスの父であるのだ。メトフェッセル宰相が何と言おうと、プリンスと共に在る我々には、その死を悼む権利がある」



 エドゥアルドは泣き続けた。フォルスト大尉が退出したことさえ、気が付かなかった。

 エドゥアルドは、父親の顔をよく覚えていない。

 ……大変お優しく、戦地におかれてさえ、いつも、殿下のことを考えて下さいました。

 そう教えてくれた母も、ここにいない。遠く南の荘園に下ってしまい、滅多に会いに来て下さらない。仕方のないことだと、皆は言う。ウィスタリア王家の一員として、エドゥアルドは、寂しさに雄々しく耐え続けてきた。

 しかし今、エドゥアルドには耐え難かった。愛してやまない父を失った。その悲しみ、苦しさを分け合うことのできる唯一の肉親は、母親しかいない。それなのにその母が、身近にいないということに。

 最後の別れとなった日の未明。軍服に身を包んだ父が、静かに子供部屋へ入ってきた。出陣の朝だった。起きてしまうと制止する母を振り切り、ベビーベッドに近づいた。寝顔をじっと見つめ、足に触り、そっとキスをしたという。

 生まれた時からお世話係を務めていた女官から、何度も聞かされた。その女官も、ユートパクスへ強制送還されてしまった。

 エドゥアルドは、ベッドに倒れ伏して、泣き続けた。涙はいくらでもあふれ出てきて、布団を濡らした。

 どれくらいそうしていたろう。

 唇に、柔らかい感触を感じた。唇に渡された細く長い指。瑞々しく柔らかい唇を、きゅっと押し、そうしておいてからエドゥガルドの口の端に押し当てられた唇は、ぶしつけでさえあった。性急で衝動的でぎこちなく、そのくせ自分勝手で。全然、優しくはなかった。


 ……ヴィクトール。


 はっと目が覚めた。

 ヴィクトール。黒目黒髪の、あの、青年の名前だ。彼を馬車からさらい、命を救った、あの、怪しげな……。

 あの青年の、あのキスは、何だったのだろう。自分はなぜ、あの青年のことを思い出したのだろう。父の死を悲しみ、涙も枯れるほど泣き果てた今、この時に。ずっと忘れていたのに。

 倒れ伏していたベッドから、エドゥアルドは身を起こした。

 辺りは薄暗く、夕闇が色濃く迫り来ていた。エドゥアルドは、窓の外を、じっと見つめた。みじろぎもせず、いつまでも見つめ続けた。



 シェルブルン宮殿は、いつものように、典雅に落ち着いていた。その中の一角、エドゥアルド王子の起居する棟にのみ、半旗が掲げられた。近衛も侍従も、お付きの女官たちさえも、みな、黒いリボンを身に着けていた。静かに深く、彼らはオーディン・マークスの死を悼んだ。

 偉大なる帝王、侵略者にして、かつての支配者の。いいや。そんなことは、どうでもいい。彼が、彼らの愛する小さなプリンスの、父親だったからだ。それ以上でも以下でもなかった。






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