第7話 cの警告


「はっ! かっさらってきた!」

 どすんと隣の座席に腰を下ろし、ギルベルトは、声を立てて笑った。黒髪の青年の膝の上に突っ伏すようにして、小さな寝息を立てている少年を指さす。

「君は、全く……」

 何か言いかけて、言葉を途切らせた。

 青年の膝の上で、少年が身動きした。ふわふわした金髪が揺れ、真っ赤な耳がのぞいた。眠っている子どもの体温は高い。少年は、熟睡していた。

 あきれたようにギルベルトが、少年をさした人差し指を振る。

「で、なんで寝てるの?」

「最初のうちは、起きてたんですけどね」

青年は苦笑した。

「双子の、弟の方が出て来た辺りで、寝落ちちゃって」

「ずいぶん早いな。オペラが始まってすぐじゃないか」

むっとしたように、ギルベルトが言う。

 二人で観るはずだったオペラは、とっくに終わっていた。ギルベルトが作曲を担当したオペラだ。双子の恋と、人違いが、テーマだった。


 ……。

 3時間ほど前。

 黒髪の青年……クラウス・フィツェックは、ギルベルト・ロレンスと、徒歩で劇場へ向かっていた。

 ギルベルトは、クラウスの恩人であり師でもある。

 父親に撃たれ、瀕死の重傷を負ったクラウスは、ギルベルトによって、助けられた。そのことは、もう、よく覚えていない。

 ただ、ゲシェンクの呪いのことは、いつも胸の内にある。自分は、このギルベルトを殺さなければならないという重すぎる宿命……。

 クラウスは、ギルベルトを尊敬している。同じ家に住み、仕事を手伝えることを、誇りに思っている。12歳年上のギルベルトは、クラウスの、すべてだった。

 この手でこの人を殺める……そんなことは、できそうにない。

 だが、すべてはまだ、ずっと先の話だ。


 クラウスは、隣を歩くギルベルトを、こっそり盗み見た。

 藁に似た色の、薄い色の金髪、水色の瞳。体つきは大柄で、たくましい。女性に人気があるのを、クラウスは知っていた。

 ギルベルトは、大学で、音楽理論を教えていた。時々、作曲もする。内輪の音楽会で披露すると、いつも大変な人気だった。

 だが、彼には決まった人はいない。いろんな女性とつきあって、でも、すぐに別れてしまう。はらはらと脇で見守りながら、クラウスは複雑な気持ちだった。

 幸せになってほしいという思いと。いつまでも自分のそばにいてほしいという、熱望と。

 ギルベルトは、女性を愛する男だ。ちゃんと、クラウスは知っている。

 もちろん、ギルベルトとの間に、何かがあったわけではない。当たり前だ。ギルベルトは男だし、自分も男だ。

 用心深く、実に細心の注意を払って、クラウスは、自分の心を隠していた。

 でも……。

 いつまでも決まった恋人を持とうとしない男に、微かな希望を抱いている。


 その日は、ギルベルトが曲をつけたオペラが劇場で公開される日だった。だいぶ前から、ギルベルトは、クラウスと二人だけで観に行くと、約束してくれていた。

 ギルベルトの周りには、取り巻きが多い。学生。同業者。ファン。そんな中で、二人だけで外出できるのだ。肩を並べて、太陽の下を歩ける。大勢の人に混じって、堂々と、隣り合った席に座れる。一緒に、同じオペラを観れることがでる。

 今日という日を、クラウスは指折り数えて待っていた。嬉しくて、ゆうべは、眠れなかった。


 並んで歩く二人の後ろから、黒塗りの馬車が近づいてきた。ぐんぐん間合いをつめ、追い抜こうとする。

 ギルベルトとクラウスは道の端へ寄り、大きな馬車をやり過ごそうとした。

 二人の横へ並んだ時、ワゴンの内側に垂らされた布が動いた。窓に貼りつくようにして外を見ている顔が、ちらりと見えた。

「子どもだ」

ギルベルトが言った。

「子どもが、たった一人で乗っていたね」

「紋章は見えませんでした。どこの子でしょうね」

「相変わらず、君は、目がいいな」

 どんなことでも、……たとえ、視力がいいという些細なことでも、ギルベルトに褒められると、クラウスは嬉しくなる。

 でも、彼には、素直になることができない。

「あなたより若いですから」

 つんと顎を上げて見せた。ギルベルトは苦笑した。

「初めて会った時も、そんなことを言ってたな。お前、俺のことを、おじさん、って呼んだんだぜ?」

「今では文句なしのおじさんでしょ」

 今年、クラウスは、18歳になった。ギルベルトは、30歳だ。

 ふと、ギルベルトの顔が曇った。何かにじっと、耳を澄ましている。

「あの音……」

 馬車が走り去っていく、がたがたという音が聞こえる。

c♭ツェスだ。ツェーの音が半音下がってる。あの馬車、車軸がおかしくなってる」

「え?」

 ギルベルトは、あらゆる音を、音階で捕らえる。

 本来なら「ツェー(ド)」であるべき音が、半音下がって聞こえる、というのだ。

 クラウスにはわからなかった。普通の馬車が立てる音と変わらない。

 馬車は、がたがたと走り去っていく。大通りを曲がり、脇道へ入るのが見えた。この道は山道に繋がる。周囲は切り立った崖だ。

 「異音が混じっていた」

 なおもギルベルトが主張した。

 ギルベルトは、音楽を専門としている。鋭い耳の持ち主だ。クラウスには聞こえない、何らかの異常を、その耳が聞き取ったということだ。

 ギルベルトが、クラウスの手を、ぎゅっとつかんだ。

 クラウスの心臓が跳ね上がる。

「大変だ、クラウス。車輪が外れる。馬車は壊れるぞ。中の人は谷底に転落する」

「え……でも……」

 いったい自分に、何ができるというのか。

 なおもギルベルトは言い募った。

「子どもだ。きれいに澄んだ、青い目の子どもが、犠牲になる」

 ……。


 聴衆は、殆どが劇場を出てしまっていた。残っているのは、クラウスとギルベルト、そして、クラウスの膝の上で眠っている、子どもくらいしかいない。

 「しかし、かっさらってくるとは。いや、君らしい。全く君らしいよ、クラウス」

「静かにしてください。子どもが目を覚まします」

 クラウスはちらっと膝の上の子どもを見た。それから、噛みつくような目線を作曲家に送った。

「あなたがそうするように言ったんじゃないですか!」

 自分がどんなにこの日を楽しみしていたか。ギルベルトと二人でオペラをみることを、どんなに心待ちにしていたか。危うくクラウスは、ぶちまけてしまいそうになった。

 それなのに……。

「俺はそんなこと、一言も言ってない。子どもをさらえ、だなんて」

 澄ましてギルベルトが言う。

「……じゃあ、他に、どうしろと!?」

「御者に注意を促す、とか?」

「あ……。そうか。その手があったか!」

「なんだ。思いつかなかったのか」

 ギルベルトはあきれたようだ。クラウスは顔を赤らめた。

 「で、どこの子なんだ?」

「さあ」

「さあ? 本人に、聞いてないのか?」

「ええ」

「立派な馬と馬車だった。手入れはいまひとつだったが。褒美のひとつも貰えるとは、思わなかったのか?」

 何もいらない、とクラウスは思った。ギルベルトと一緒にいられれば、自分は、なにひとつ、ほしくはない。

 でも、それを口にすることはできなかった。ギルベルトを困らせたくはない。つっけんどんな口調で、彼は言った。

「余計なことには、巻き込まれたくないですし」

「賢明だな」

 ギルベルトが身を屈めた。少年を膝に乗せたまま椅子に腰かけているクラウスの耳元に口を寄せる。

「冷酷なふりをしているが、君には決して、むごいことなんかできない。そんな君が、俺は、大好きだ」

 残酷なことを言う、と、クラウスは思った。自分がどんな思いでそばにいるのか、この人は、ちっとも、わかっていない。



 街中を血眼で探し回っている侍従たちの前にプリンスが現れたのは、それから暫く経ってのことだった。

 ウィルン市内の劇場のある繁華街を、両目をこすりながら歩いていた。寝ぼけているようだった。

 保護され、シェルブルンの宮殿に連れ戻された王子に、ディートリッヒ先生は飛びついた。細い体をきつく抱きしめ、おいおいと泣き始めた。女官の何人かが、もらい泣きをしている。

 ごわごわした髭を擦りつけられて、プリンスは、途方に暮れた顔をしていた。


 どこで何をしていたのか。

 誰と一緒だったのか。

 落ち着いてから、ディートリッヒ始め、諸先生方が問い質した。だが、はかばかしい答えは得られなかった。

 ただ、双子が、とか、人違い、とか、口走るばかりだった。ラッパの音がうるさかった、とも。なにか、変な夢でも見ていたようだ。

  「車を直せと、言ってた」

 少しして、プリンスは言った。

  急ぎ、車係に調べさせたところ、車軸と車輪を繋ぐ部分に大きな傷があった。

 これで山道を走ったら、大変なことになっていただろう。車輪は外れ、馬車は、馬もろとも谷底に転落していたに違いない。そうなったら、王子は……。

 ディートリッヒ先生は震え上がった、思わず、寝かせつけたばかりのプリンスの寝顔を見に寝室まで走った。


 傷は、自然に摩耗したものか、故意につけられたものかは、判然としなかった。最終的に、経年劣化と判断された。

 長く続いたユートパクスとの戦争のせいで、宮廷経理は、火の車だった。いろんなものを、耐用年数以上に使い込んでいた。

 事前に認知できて、よかった。大事に至らなくて、本当に良かった。人々は、胸をなでおろした。

 車軸の傷を誰が教えてくれたのか。それは、とうとうわからずじまいだった。






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