第6話 さわやかな5月の誘拐劇 2


 「放せ! 放せっ!」

 馬上のエドゥアルド王子は叫んだ。小さい体をふんぞり返らせて暴れる。

 彼を後ろから抱きかかえていた青年は苦笑した。

「僕がこの手を離したら、君は真っ逆さまに落馬だよ。それでもいいのかい?」

 エドゥアルドは息を飲んだ。馬は激しい勢いで疾走している。周囲の景色が、横に流れる帯に見える。

「僕を落としたら、承知しないからな!」

思わず声が上ずった。

 含み笑いが聞こえた。賊が身を屈めた。耳元に、温かい呼気が触れる。

「暴れたらだめだ。見かけはきれいだが、こいつは駄馬だ。ちょっとしたことで、すぐに驚いて跳ね回る」

「そっ、そんな馬に、僕を乗せるな!」

「減らず口の坊ちゃんだなあ。舌を噛むぜ。しばらくお口を閉じていろよ」

 青年はそう言うと、足で馬の横腹を締め付けた。

 鞭をくれるまでもなく、馬はより一層のスピードをあげ、春風の中を駆け抜けていった。



 ようやくのこと、馬が止まった。大勢の人が、行き来している。ウィルンの街角であることに、エドゥアルドは気が付いた。

 高い背から抱きかかえるようにして下ろそうとする青年の手を、エドゥアルドは振り切った。横向きになり、両足を揃えて、鞍から滑り降りる。着地の時、軽く前にのめった。素早く細い、だが強靭な腕が彼を支えた。

「放せ!」

「顔面を、地面にぶつけたいのか」

 青年は呆れた顔をした。

 「お帰りなさい」

 ひどく汚れたみなりの男が近寄ってきた。服はぼろ布のようで、顔も黒く薄汚れている。こんなに汚い男を、エドゥアルドは今まで見たことがなかった。無意識に青年の背後に隠れる。

 男はちらりと、少年を見、すぐに目をそらせた。

「馬はどうでしたかい?」

揉み手をしながら青年に尋ねる。

「うん、まあまあだったよ」

けろりとして青年は答えた。

 エドゥアルドは呆れた。さっきは、臆病な駄馬と言っていなかったか?

 ポケットに手を入れ、青年は財布を取り出した。

「ほら、約束の15クロイツァー」

「30」

「暴利だ。20」

 男はちらりと青年の財布を見た。財布は薄かった。

「仕方ねえ」

 交渉は成立したようだ。男は、白い馬の手綱を引いて、去っていった。


 「なんだい?」

 声をかけられ、エドゥアルドは、はっと我に返った。ぼんやりと、自分をさらった青年をみつめていることに気がついた。いろんなことが立て続けに起こり、軽く放心していたらしい。

 「うま……」

 思わず口走っていた。

「ああ、あれ」

 青年は笑った。

「ちょうどいいところにいたから、借りたんだ。代金をふっかけられて、値切った」

 こともなげに言ってのけた。エドゥアルドは呆れた。

「値切った? 人を誘拐しといて、それか?」

「誘拐じゃない。君のことは、ちょっと連れ出しただけだよ」

「誘拐じゃないか! お前、なにやつだ。なぜぼくをさらった?」

「なにやつ?」

 再び青年は、おかしさをこらえるような顔になる。エドゥアルドはむっとした。

「名乗れ」

「人の名前を問うときには、自分から名乗るのが礼儀だろ?」

「ぼくは……、」

「いい」

 不意に青年が遮った。

「君が誰か、僕には全く興味がない。僕の名は、ヴィクトール。偽名だ」

「お前っ!」

 エドゥアルドは憤った。そっちがその気なら、やりかえさねばならないと思った。

 自分につける偽名を懸命に考える。思い浮かばなかった。

「ぼくは、嘘はつけない」

だからそう言った。今度こそ、青年はぷっと噴き出した。

「えらいじゃないか」

「からかうな」

 エドゥアルドは激怒した。

「お前はまだ、ぼくの質問に答えていない」

「君の質問?」

「なぜ、ぼくをさらった」

「僕の尊敬する人がそうしろと言ったからだ」

「お前の尊敬する人?」

「僕は別に、どうでもよかった」

「わけがわからない!」

エドゥアルドはわめいた。

「そもそもお前は、人さらいじゃないか! 何を偉そうに……あっ、そうだっ! こらっ! ぼくを返せ! 帰らせろ!」

「静かに!」

 唇の前に人差し指をたて、青年は、しっ、と鋭い音を立てた。それが一層、エドゥアルドの怒りを掻き立てた。

「なんだお前は。ぼくがちゃんと話してるのに。人を、まるで子ども扱いして、はぐらかしてばかりいて!」

「だって、子どもじゃないか……」

「子どもじゃない! 10歳だ!」

「……子どもだよ。いいから、静かにしろよ。人が見る」

「うるさい! 賊の言うことなど、誰が……」

もっともっと大声を出そうと、エドゥアルドは息を吸い込んだ。

「……」

 青年が、つと、手を伸ばした。親指と人差し指で、唇をつままれた。

 あまりのことに、エドゥアルドは、呆気にとられた。だが、驚いたのは青年も同じだったようだ。はっとしたように親指が離れた。

 だが、人差し指は依然、唇に残ったままだ。力が抜け、指の腹でエドゥアルドの口を塞ぐように縦にまっすぐ渡されている。

 頬を紅潮させ、少年の口は、半開きになったままだ。指が、ぷっくりとした唇をそっと上下になぞった。

 影が落ちてきた。エドゥアルドがはっとした時、口の端に、柔らかく湿ったものが触れ、すぐに離れた。

 びりっと、何かが走ったようだった。

 すぐに、唇に触れていた指も離れていく。


 エドゥアルドは、混乱していた。

 ……これは、何のあいさつかな?

 彼は、あまり、キスというものをされたことがなかった。

 エドゥアルドにキスをするのは、祖父である皇帝と王族、客人。そして、たまにやって来る母。

 父からのキスは、知らない。

 祖父のキスは、どこか戸惑いがちだった。他の王族や客のキスは、儀礼以外の何物でもない。母親は、エドゥアルドとの約束を何度も破った。ウィルンに来ると言って、なかなか来ない。最後に会った時のキスは、どんなだったか。もう、忘れた。なんだか、ひどく遠慮がちだったような気がする。

 キスは挨拶だ。

 でも、これは、なんだか違う気がする……。性急で衝動的で、ぎこちなく、そのくせ自分勝手で。 

 ……全然、優しくないし。

 そもそも、キスとは、頬や額にするものではないのか?こんな風に、口の端に、唇に触れるようにするなんて。

 でもそれが、自分へ向けられた、何らかの好意であることは、幼いエドゥアルドにもわかった。わかったことはわかったのだが……。


 自分の衝動に、青年自身も戸惑っているようだった。

 少し青ざめたように見える顔で、じっとエドゥアルドの顔を見下ろしている。


 風に乗って、大きな拍手が聞こえてきた。音楽の調べがそれに続く。重なり合うような弦楽器の調べだ。すぐに管楽器が混じり、明るく爽やかに広がっていく。

 「音楽会に行きたいかい?」

不意に、がらりと雰囲気を変え、青年が訪ねた。

「音楽会?」

 どのみち彼は、馬車に乗って、音楽会へ向かう途中だった。あいまいに、エドゥアルドは頷いた。

「町の音楽会だ。君が思ってるのと違うかもしれないけど、こっちも楽しい……はずだ。ちょっと眠くなるけどね」

 優しい目をして、黒髪の青年は言った。






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