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第5話 さわやかな5月の誘拐劇 1
◆エドゥアルド10歳 クラウス18歳 ギルベルト30歳
さわやかな5月の風が吹き抜けていく。
薫風を背に受け、馬車は軽快に走っていた。2頭並んだ馬は、どちらも毛並みのいい栗毛だ。気持ちよく響くひずめの音からも、よく手入れされているのがわかる。人の乗るワゴンの部分は、重厚な黒塗りだった。窓には、厚い布が垂らされている。
手綱を握っていた御者が、目を細めた。前方右手のわき道から、白い馬が走ってくる。
馬は、絶妙の角度で、角を曲がった。そのまま、スピードを下げずに、馬車に向かって突進してくる。馬には、黒髪の青年が乗っていた。真っ白なシャツの襟を立て、首元に、黒いタイをきつく結んでいる。下は、ハイウエストのズボンという軽装だ。
馬車とすれちがいざま、青年は、むんずとワゴンの扉を押し開けた。
「わっ!」
慌てた御者が、手綱を引き締めた。2頭の馬が、驚いてそれぞればらばらと後ろ足で立つ。振り落とされる前に、御者は御者台から飛び降りた。
ワゴンが大きく傾いだ。押し開けられた扉が、ばたばたと音を鳴らす。
白馬から、黒髪の青年が、大きく身を乗り出しす。馬車の中に半身を押し込み、中から小さな人影を引っ張り出した。
黄金の髪をした、少年だった。10歳かそこらの年齢だろう。
「なにをする! 無礼者!」
甲高い声が叫んだ。
青年は、浅黒い顔に、にたりと笑みを浮かべた。力を緩めず、勢いのまま、少年を自分の乗った馬上に引き上げる。
空になったワゴンが、バランスを失って倒れた。馬具が外れ、馬が暴れる。
御者台から飛び降りた御者がなんとか馬たちを宥めた時には、白馬は、遥か彼方に走り去った後だった。
◇
マリウス・フォン・ディートリッヒは、シェルブルン宮殿の、ふんだんに日の射し込む部屋で、アーモンドティーを楽しんでいた。このお茶は、アーモンドという固い種を、水に浸して砕き、絞ったものだ。そのまま飲んでも美味だが、ディートリッヒは、砂糖を入れて甘くしたものを好む。アーモンドは、遥か東国より、遊牧民によって持ち込まれたという。この異国の風味が、ディートリッヒは、大好きだった。
貴重な砂糖をふんだんに入れることができるのは、ここが宮殿だからだ。ただし戦争中は、その王家でさえも砂糖を手に入れることができなかった。甜菜糖、などというものが流行ったが、あれは、ニセモノだ。雑味が多すぎる。
あの不自由な、恐ろしい時代から、まだ10年と経っていない。それは、プリンスの年齢を数えればわかることで……。
豪華な布張りの椅子に深々と身を沈め、ディートリッヒは、当時に思いを馳せた。
……。
今から10年ほど前、ウィスタリア帝国は、一人の男によって侵略され、滅亡の危機に瀕していた。男の名は、オーディン・マークス。革命の混乱期を軍人から成り上がり、ついにはユートパクスの皇帝となった男である。
諸国を平らげたオーディン・マークスは、ついに、ウィスタリアにまで軍を進めた。
圧倒的な強さだった。ユートパクス軍は、瞬く間にウィスタリアの首都ウィルンを陥落させた。
しかし、ウィスタリアの屈辱はそれだけではなかった。侵略者オーディンは、あろうことか、ウィスタリア皇帝フランティクスの娘を、妻として要求してきた。歴史と伝統の国、ウィスタリアの威厳が欲しかったのだ。
二人の間には、男の子が生まれた。オーディンにとってたった一人の直系となるこの子は、エドゥアルドと名付けられた。
が、オーディンはやり過ぎた。ウィスタリア初め、ユートパクスに征服された国々は、密かに同盟を結んだ。
長い戦いが始まった。同盟軍は、北の大平原で冬まで粘った。雪がユートパクス軍を封じ込め、補給通路を絶り、ついにユートパクスを打ち破った。
オーディン・マークスは、アベリア海の孤島に幽閉されることが決まった。
一方で皇妃には、南の穏やかな土地に、荘園が与えられた。彼女は、ウィスタリアの皇女である。そもそも、本人の意に背いた、強引な輿入れだった。南の土地の女領主に封じたことは、慰労の意味もあった。
だが、息子エドゥアルドが同行することは、許されなかった。オーディンの息子エドゥアルドは、母の実家であるウィスタリアの宮廷に引き取られる形で、首都郊外のウィスタリア宮殿に留め置かれた。
いやいや妻となった母と違って、エドゥアルドは、オーディンの息子である。大陸を戦乱の渦に叩き込んだ父と、同じ血が流れている。政権の中枢近くにおいて、監視する必要がある。そう、ウィスタリア国宰相メトフェッセルは主張した。
3歳で父と引き離された彼は、5歳で母とも離れ離れなった。
複雑な事情を背景とした王子である。その事情に見合った、自我を持っていた。かんしゃくもち、とも言える。なかなか言うことを聞かない、難しい性格の持ち主だ。
彼の、ディートリッヒら家庭教師達への反抗は、凄まじかった。
プリンスは自らを、ユートパクス人だといって、憚らなかった。それで、ユートパクスから同行してきた乳母を始め、付き人全てを解雇する必要があった。
「ママ・キューはどこ?」
ある朝起きてきたエドゥアルドは、いつものように、乳母のキュリウス伯爵夫人の姿を探した。
キュリウス伯爵夫人は、プリンスの乳母だった。オーディン・マークスの敗戦と失脚に伴い、帝妃と王子に従って、はるばるヴィスタリアまで来ていた。
「プリンス、お目覚めですかな?」
声をかけてきたのは、大柄な男だった。髪はきれいにカールされ、頬ひげを生やしている。エドゥアルドが今まで見たこともないくらい、こわもてだった。
「お前は誰だ」
泣き出さなかったのは、5歳の男の子として、上出来だといえよう。
「マリウス・フォン・ディートリッヒ。殿下の家庭教師として参上しました」
ユートパクス語で尋ねられたが、ディートリッヒはウィスタリア語で答えた。エドゥアルドは、眉間に皺を寄せた。
「なぜここにいる。ここは、僕のお部屋だぞ」
「殿下。ご起床の時間はとうに過ぎております」
言い終わらぬうちに、ディートリッヒは、エドゥアルドの毛布をひっぺがした。
完全な不意打ちだった。
「ぶ、無礼者!」
去りゆく暖かい毛布に両手両足を絡みつかせ、少年は叫んだ。
「無礼ではございません。しつけと言います。キュリウス伯爵夫人のようなたおやかな女性にはできなかったしつけを、今日から、私がして参ります」
「ママ・キューは、どこへ行った!」
「誰ですって?」
「ママ・キュ……、キュリウス伯爵夫人だ!」
「小さいお嬢さんとご一緒に、お国へ帰られましたよ」
ここだけ、ディートリッヒはユートパクス語で言った。
一瞬だけ、プリンスは半泣きの表情になった。キュリウス夫人の娘、アンヌは、数少ない、エドゥアルドの遊び相手でもあったのだ。
「それに、かのご婦人は、あなたの母親ではありませんね、プリンス。甘えた呼び方はお止めになることですな」
ウィスタリア語に切り替えて、厳格に、ディートリッヒは言い放った。
遊び相手がいなくなってしまった悲しみもどこへやら、自分に向けられた侮辱に、エドゥアルドは激怒した。ベッドの上に立ち上がり、彼は喚いた。
「甘えてなんかない! 僕はもう、赤ちゃんじゃないからな!」
ここに至っても、まだ、ユートパクス語だ。
「おやおやそうですか」
ディートリッヒは軽くいなした。
「そうですね。あなたのお母様は、マリーゼ様ただお一人。遠い南のお国で、今のプリンスのお姿を見られたら、マリーゼ様は、どう思われるでしょう?」
「お母様? お前、お母様の知り合いか?」
「私の雇い主ですよ」
「……」
エドゥアルドは絶句した。
正確には、祖父のフランティクス帝に雇われたわけだが、祖父も母も似たようなものだろう。
「お母様に恥をおかかせにならぬよう、さっさと着替えをなさい。あなたのその……寝巻き着は、いささか配慮に欠けます」
プリンスの寝巻き着は、ふわふわした純白の生地だった。フードがついている。同じ色のフードには、うさぎの耳のような形の布が、縫い付けられていた。キュリウス夫人の手で縫い付けられたものだ。
プリンスにはぜひとも、軟弱なユートパクス文化を捨てさせる必要がある、とディートリッヒは痛感した。
なにがなんでも、質実剛健なウィスタリア文化を身に着けてもらわねばならない。
その日から始まった、プリンスとの戦いは、言語を絶するものだった。当時のことを思い出すと、今でも、ディートリッヒは、ため息を禁じ得ない。
まずは、プリンスの持ち物から、父王、オーディン・マークスの紋章を外すことから始まった。オーディンの紋章には、龍が使われている。龍は徹底的に取り外され、マークスの「M」の文字も、悉く抹消させた。衣類、食器、日用品から、おもちゃまで。代わりに、ウィスタリア王家の、双頭の鷹の紋章が張り付けられた。
プリンスは、激しく抵抗した。持ち物を隠したり、筆記具を持つ侍従の手に噛みついたり。ハンガーストライキを起こされたときは、本当に難渋した。ディートリッヒも一緒になって食を抜き、お互いに背中を向けあって過ごしたものだ。
だが、いくら反抗されても、ディートリッヒは、プリンス……エドゥアルドのことを、嫌いではなかった。
エドゥアルドは、本人が納得さえすれば、大変な努力家だった。まっすぐな性格だったのだ。ここまでねじ曲がった環境でなければ、さぞかし素直な、愛らしい少年であったろうに……。
師の思いはなかなか伝わらず、ディートリッヒは、苦戦を強いられてきた。
家庭教師に採用されて5年。当初より、いくらかマシになったとはいえ、今でも、少年の全力の抵抗には手を焼くことが多い。
とはいえ、それ以上に、彼には愛情を感じている。まるで本物の身内のような、そう、父親のような愛情。
ディートリッヒは、大変な、世話焼き気質だった。エドゥアルドへ向けるまなざしには、いくらかは、母親の目線も混じっているのかもしれない。
5年経った今も、反抗的な子どもであることに変わりはない。何か言うと、まず、「いやだ」と帰ってくる。だが、全く報われていないかというと、そうではない。少しずつ、少しずつではあるが、プリンスは彼に、心を開きつつある。
ディートリッヒは知っている。この頃、プリンスは、ユートパクス語を忘れかけている……。
……。
ディートリッヒは、カップのアーモンドティーをゆっくりと口に含んだ。甘くエキゾチックな味わいが、口の中いっぱいに広がっていく。深い満足のため息が漏れた。
「た、大変です、先生っ!」
侍従が駆け込んできた。
ちなみに、現在のプリンスの付き人は、そのほとんどが男である。政府宰相の方針だ。もちろん、風紀が乱れるのは好ましくない。だが、少しは女官もいたほうがいいのではないかと、ディートリッヒは思っている。日々の生活には、潤いも必要だ。
だが、宰相には力がある。彼のいうことは絶対だ。噂では、皇帝陛下も逆らえないらしい。
「先生!」
駆け込んできた侍従は、うまく止まることができず、敷物にしわをよせ、前へつんのめった。
「何事だ。騒がしい」
「今、馬車が空で帰ってきて……、プリンスが……プリンスが、何者かに、さらわれました!」
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