第4話 おじさんはその人を殺したの?
何日かかけて、ギルベルトはクラウスにゲシェンクの話を聞かせた。砂漠の砂が水を吸い込むように、クラウスは、全てを吸収し理解した。実際に、自分の身に起こったことだ。死にかけた体が蘇生したのだ。子どもは子どもなりに、いろいろ思い至ることがあったのだろう。
「おじさんは、誰に助けてもらったの?」
尾根に続く細い道を歩きながら、クラウスが尋ねた。
「おじさん?」
ギルベルトはむっとした。
「俺はまだ、19歳だ……」
死線を超え、逃げることで精いっぱいだった。髭も沿っていなければ、もう何日も体を洗うこともしていない。目立つ軍服は脱ぎ捨て、クラウスの父親の服を失敬してきた。
……無理ない、のか?
目に邪気のない光を宿し、クラウスが尋ねる。
「おじさん、その人を殺したの?」
……。
彼は、戦友だった。
背後からのユートパクス軍の攻撃で、味方は、壊滅的な打撃を受けた。ギルベルトも大腿部を損傷し、大量の出血をしていた。
死ぬのは時間の問題だった。目を閉じ、痛みと戦っていた。時折意識が途切れ、激痛で現実に引き戻される。
あちこちで、断末魔の呻きが聞こえた。死んでゆく戦友達の声だ。なかのひとつがやけに大きいと思ったら、自分だった。獣のように唸っている。
そうしてまた、ふっと意識を失った。
どれくらいそうしていたろう。朦朧とした中に、突如、光が差し込んだ。
……もうだめか。ここまでか。
……死ぬ間際に明るい光を見るというのは、本当なんだな。
特に、何の感慨もなかった。
ギルベルトの両親と弟は、国境近くに住んでいた。最初のユートパクス軍侵攻で、逃げ遅れて死んだ。ギルベルトだけが、生き残った。家族と離れ、ウィルンで一人暮らしをしていたからだ。
従軍は、志願してのことだった。国を守ろうと思った。
国を。美しき母国、ウィスタリアを。
父と母と弟の生まれ、死んでいった国を。
佳き帝王、フランティクス皇帝の治めるこの国を。
だが、力及ばなかった。今、こうして、死んでいくのは、全く、本意ではなかった。
ウィスタリアを、守れなかった。全く、不甲斐ない。命を捨て、火薬を抱いて敵軍に突っ込むことさえ、かなわなかった。
仕方がないのかもしれなかった。結局、自分は、その程度なのだ。やるべきことはやった。やれる、せいいっぱいまで、やった。
だから、もう、いい。今こそ、自分と和解するのだ。家族をまったくの無策に死なせてしまった、己の無能さと。自分だけ生き残った罪業と。
そのとき、誰かが、どん、と、ギルベルトの胸を叩いた。
「何をしている。敵は引き上げた。早く逃げろ」
ギルベルトが薄い目を開けると、戦友の歪んだ顔が見えた。
「行け。生きろ」
「……そんなこと、できるわけないだろ」
だって、自分は大けがをしている……。
「脚の怪我なら、治した。お前は、生きられる」
驚いて自分の足を見た。軍服のズボンは血まみれだった。だが、その下の足に、皮膚がある感触がする。血の乾いたズボンが、ごわごわと感じられる。
そういえば、脳を揺するような激痛が、嘘のように消えていた。試みに足を動かしてみると、驚いたことに、自由に動く。
呆然とするギルベルトに、友は、ゲシェンクの秘密を語った。
その話なら、文献で読んだことがあった。しかしまさか、実話だったなんて。
「出血が激しかったが、お前だけが間に合いそうだった。とりあえず、生きてた。だから、俺は、お前に血を与えた」
友は、苦しそうだった。腕が、肩ごと吹き飛ばされていた。
「お前は、ここから生きて帰れる。ウィスタリアの精鋭部隊が、ユートパクスにやられて全滅したなんて、癪に障るじゃないか。だから、俺はお前に血を飲ませた」
ギルベルトは混乱していた。とりあえず、自分は生きるのだ、とだけ思った。
苦しい息をしながら、友はふっと笑った。
「……だが俺は、お前が殺してくれなきゃ、死ねなくなった」
「あ……」
そうだ。友は自分を助けてしまったから……。瀕死の自分に、治癒力の高い血を与え、自身はゲシェンクとなってしまったから。
「話がわかったなら、俺を殺せ」
苦しげな声が催促する。
ギルベルトは息を飲んだ。
友は、腰から軍刀を引き抜いてギルベルトに渡した。
「さあ、早く」
この傷は、治りようがない。死なずにいたら、やがて破傷風を引き起こす。苦痛はいやますだけだ。
苦しんでいる友を殺すのは、戦地では当然の救済だった。ギルベルトは軍刀を振り上げた。
吹き出た血の色を。
その生々しい匂いを。
表情をなくし、輝きを失っていく瞳を。
ギルベルトは、生涯、忘れることはないだろう。
……。
こうして、ギルベルトは、潜在的なゲシェンクになった。彼の血液には、高い治癒力が宿っている。不思議なその力は、未だ見ぬ誰かを救うことができる。
戦友から恩恵を受けると同時に、ギルベルトは、ゲシェンクとなった友への義務も果たした。苦しむ彼を殺した。
だがそれは、戦地だったからできたことだ。きわめて異常な状況にあったから。
つい先日、ギルベルトは子どもの命を救った。それまでは、ゲシェンクになる気はさらさらなかった。このまま誰をも助けずに死んでいくつもりだった。
それなのにあの時、子どもがまだ生きていると知った瞬間、ギルベルトの体は動いていた。自分の腕を切り裂き、血を与えた。
そうして、だからいつの日か、ギルベルトはこの子ども……クラウスに殺してもらわなければならない。
ギルベルトは思った。この子にそれは、可能だろうか。
「……俺は、誰にも、自分の血を与えるつもりなんかなかったんだ。誰も救わず、一生を終えるつもりだった」
ぽつりと彼は言った。
「俺は、普通に死にたかったよ」
「……」
何も言わずに、クラウスは、真っすぐに、ギルベルトを見つめた。
……それならなぜ、自分を助けたのだ?
そんなことは、クラウスは尋ねなかった。
子どもはただ、命が助かったことを、素直に喜んでいた。ギルベルトに感謝さえしていた。
「まあ、いいか。お前を生かすことができた」
クラウスの人生は、これからだ。
◇
幼いクラウスを連れ、ウィルンへ戻ってきたギルベルトは、大学へ戻った。今ではそこで、音楽の教師をしている。
クラウスも同じ家に住み、ギルベルトの養育を受けた。彼には他に、行くところがなかったのだ。
親子とも兄弟ともつかない、不思議な関係だった。もっとも、年の差は12歳だったので、親子というには、無理はある。ギルベルトは老けて見えるので、兄弟というのも、違う感じがする。
◇
思春期に入ったころから、クラウスは、ひどい悪夢に悩まされるようになった。
振り返った父親の恐ろしい顔。火を噴く散弾銃。繰り返し繰り返し、夢に見る。まだ子どもだった頃は、そんなことはなかったのに。
夜中に絶叫するクラウスに、ギルベルトは何度も叩き起こされた。同じベッドに入り、抱きしめ、あやした。
クラウスは、おさまらない。暴れて、ギルベルトを追い出そうとする。
体に触れたのは、偶然だった。驚いて、ギルベルトのほうが、手をひっこめた。
しかし、これは、効果があった。あれほどの悪夢がおさまり、クラウスはぐっすり眠ることができるようになった。
目を覚ましたクラウスは、ゆうべのことは、何も覚えていない。ベッドからそのまま、足音を忍ばせ、井戸端へ向かう。……夢精したと思っているのだ。
戻ってくると、きまり悪そうに、ギルベルトにおはようのあいさつをする。お茶のカップを口から離し、何食わぬ顔をしてギルベルトも、おはよう、と返す。
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