第3話 夏の暑い日
※残酷な描写があります
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◆クラウス7歳 ギルベルト19歳
近年、西の大国、ユートパクスが勢力を拡大していた。民衆に選ばれた王オーディン・マークスの軍は、無敵だった。オーディンのユートパクスは、周辺の国を次々とたいらげた。そしてついに、歴史と伝統の国ウィスタリアに侵攻してきた。
4年前、ウィスタリアはユートパクスに大敗した。首都ウィルンは事実上ユートパクスの手に落ち、皇帝はじめ皇族たちは国内外へ逃亡した。
だが、ウィスタリア軍はひそかに力を貯えていた。この年、皇帝の弟フリッツ大公を総大将に、反撃を開始した。川を挟んで激しい戦闘が行われた。
フリッツ大公は、有能な軍人だった。橋を落とし、濁流を呼び込み、おおいにオーディンを悩ませた。
だが、ユートパクスも負けてはいなかった。密かに属国より兵を集め、倍に膨れあがった軍隊で再び攻め入ってきた。
ついに、ウィスタリア軍は破れた。首都ウィルンは陥落した。
ギルベルト・ロレンスは、ウィスタリア軍の国民兵だった。ウィスタリア軍は壊滅状態だった。ギルベルトの部隊では、彼一人が生き残った。
ギルベルトは夜陰に紛れて川を渡り、落ち延びてきた。ユートパクスの兵士に追われていた。
それは、夏の暑い日のことだった。
その家の鉄の門は開け放されていた。庭は荒れ果て、犬小屋は空だった。糸杉だけが空高く、凶暴な緑に燃えている。
なぜ、その家に入ったのかわからない。強いて言えば、誰かが呼んでいる。そんな気がした。
玄関は施錠されていなかった。エントランスから続く絨毯は、見る影もないほど泥だらけになっていた。
……軍靴に踏みにじられた跡だな。
ギルベルトにはわかった。この家は、敵兵の略奪に遭ったのだ。
すでに人の気配はなく、ユートパクス軍は引き上げた後のようだった。家の奥から、微かに饐えた匂いがした。
……突き当りの部屋だ。
本能が告げた。
……あそこで、誰かが、呼んでいる。
重い樫材のドアを押し開けた。半ば、予感していた。しかし、思った以上の惨状だった。
書斎らしい。壁際に、重厚な革表紙の本を満載にした本棚が置いてある。ひじ掛けのついた座面の広い椅子、猫足のライティングテーブル……。だが、それらに気が付いたのはずっと後だった。
部屋の中は血の海だったのだ。人が二人、倒れている。大人の男と、子どもだ。男の頭は吹き飛んでいた。手に散弾銃を握っている。
体の軽い子どもは、部屋の隅に吹き飛ばされていた。黒い髪の子どもだ。血の軌跡が丸く飛び散り、壁を汚している。
戦場で、ギルベルトは、血も死体も、見慣れていた。だが、この情景はひどすぎた。大人の男が子どもを撃ち、その後で自分の頭を吹き飛ばしたのだ。
男の頭からは脳漿がこぼれ、こちらはもはや、どうしようもない。先に撃たれた子どもも死んでいるのだろう。どうやら腹を撃たれているようだ。その部分の流血が、特に凄まじい。仰向けになった顔に、血の気はなかった。固く瞼を閉じぴくりともしない。小さな体から、驚くほど大量の血が流れ、父親の血と混じっている。
胸元で十字を切り、立ち去ろうとした時、微かな物音が聞こえた。投げ出された子どもの指先が、微かに床をひっかいたのだ。
慌てて駆け寄った。口元に手をかざすと、僅かながら息がある。
ためらっている暇はなかった。
それを、英雄的な行為だとは思わない。自己犠牲だとも、思わない。とにかくそうすることをギルベルトは選んだ。
腰に下げたままだった軍刀を彼は引き抜いた。軍服の袖をめくりあげ、一瞬のためらいもなく自分の左の二の腕を切り裂いた。滴り落ちる血を、慎重に子どもの口元に垂らす。
うまく呑み込んでくれない。黒髪の頭を抱え込み、右手の親指と人差し指で頬を挟んだ。力を籠め、強引に口を押し開く。そこに過たず、左腕から血を落とし込んだ。
子どもの腹の辺りの血が、煮えたぎったように踊りあがった。シューっと音がして、赤い霧のようなものが立ち上っていく。霧はあっという間に蒸発して、消えていった。血塗れの服の、無残に破れ飛んだ繊維の間から恐ろしい傷口が見える。それが、みるみるうちにふさがっていく。
子どもがせき込んだ。黒い目がぱちりと開く。ぽろり。腹部から銃弾が床に零れ落ちた。自分の力で起き上がり、子どもは、不思議そうにギルベルトの顔を見た。
◇
ギルベルトは、ゲシェンクだった。
ゲシェンク。それは、贈り物。
ゲシェンクの血には、何ものにも勝る治癒力がある。どのような病も怪我も、一瞬で治してしまう。
だが救うことができるのは、生涯で唯一人だけだ。その上、ゲシェンク自身も、大きなリスクを負わなければならない。死ねなくなるのだ。誰かに血を与え、その命を救ったなら、与えた者は死ねなくなる。不死の命を生きることになる。
不死は、しかし、恩恵ではなかった。年は取るのだ。怪我も病気も普通にする。それでも死ねない。苦しんで苦しんで、でも生き続ける。肉体が消滅しても、魂だけはこの世に残り、苦しみ続ける。
唯一その苦しみから解放してくれるのは、彼が血を分け与え、命を助けた者だけだ。己が命を救った者だけが、己を殺すことができる。永劫の苦しみを、終わらせてくれることができる。
己の血を以ってゲシェンクが救える者は、生涯で一人だけ。彼が、彼だけが、自分を救ってくれたゲシェンクに死を与えることができる。
ゲシェンクは、一度自分が命を救ったならば、その者を何度でも救うことができる。生涯、守護することができる。
なぜなら……。
もし自分が救った者が、先に死んでしまったら? 自分を殺さずに死んでしまったのなら。彼の命を贖ったゲシェンクの、そこから先の運命は、恐ろしくて言葉に出せない。
密かに言い伝えられている噂がある。
黒い森を抜けた先にある、エリスの荒野。棘のあるつる草で覆われた、この荒涼とした平原は、昔、鳥葬の場だったという。死体を転がしておいて、鳥に食べさせるのだ。
エリスの荒野は、いつも、風が吹きすさんでいる。ごうごうというその風の音に、時に、人間の、苦痛に悶える叫びが、混じって聞こえる。それは、未だ死に切れぬ、ゲシェンクの声だという。
ゲシェンクの血を分け与えられ、命を救われたとしても、その者はまだ不死ではない。その血で命を贖われただけでは、ゲシェンクには
ただ、命を贖われた時点で、彼の血液には高い治癒力が宿る。そう。いずれ別の誰かの命を救うために。
たった一人の、誰かを救う為の。その人を、生涯守り続ける為の。もちろんそれは、自分自身ではない。ゲシェンクの血は、自分には効かない。また、自分を救ってくれたゲシェンクにも無効だ。彼は、いずれ命の恩人を殺さなければならないという重い宿命を負うているから。
新たに出会う、未知なる者への……
◇
子どもは、クラウス・フィツェックと名乗った。父親に撃たれたのだと言った。ギルベルトの思った通りだった。
父のことを、恨んではいないようだった。ただ、混乱していた。母はいないという。
子どもを連れて逃げるのは危険だ。だが、置いていくわけにはいかなかった。なぜなら、たった今、ギルベルトは不死の身となったからだ。
己の血をもって、クラウスの命を救ってしまったから。今後、ギルベルトを死なせることができるのは、幼いこのクラウスだけ。クラウスに殺してもらわなければ、ギルベルトは、永遠に死ぬことができない。
戦争の混乱の中、一度離れたら、どこで再会できるか、わかったものではない。まして年端もいかない子どものことだ。もしかしたら、ギルベルトより先に、死んでしまうかもしれない。そしたらギルベルトは……病気か、怪我か、あるいは肉体の衰えとともに、永劫の苦しみを味わうことになる。
血まみれの家で、ゆっくりと考えている時間はなかった。集落のあちこちで、ユートパクス兵の気配がする。敗れ、落ち延びたウィスタリア兵士を探しているのだ。
敵が迫っている。ギルベルトはクラウスを連れて逃げた。
ギルベルトの故郷は、ウィスタリアの首都ウィルンだ。親兄弟はすでにないが、友人や知人たちがいる。戦争に負けても、なんとか生きる手立てはあるはずだ。ウィルンへ帰ろうと思った。
従軍を決意するまで、ギルベルトは学生だった。再び学業を再開したかった。
街道を辿るルートは危険だ。首都は陥落している。ウィルンまでの要所要所で、ユートパクス軍が見張りをしていた。山へ入り、大きく迂回するしか手はない。
山は峻厳で、道はあるとはいえ、けもの道だ。子どもにはきつい。だがクラウスは、文句ひとつ言わずについてきた。自分のほかに頼れるものがいないのだ。そのことに気づき、ギルベルトは複雑な気持ちになった。
その夜は、小さな洞窟を見つけて、眠った。こうなると、敵兵より肉食獣の方が怖い。だが、たき火を焚くわけにはいかない。敵に見つけられる恐れがある。
「大丈夫だ。ここは、オオカミの巣だ」
ギルベルトが言うと、クラウスは、目を瞠ってあとじさった。
「安心しろ。オオカミは死んでいる。それも、つい最近だ」
「なぜ、そんなことがわかるの?」
「糞が乾燥してるから。でも、風化はしていない。匂いが残っている。他の獣は、近寄ってこない筈だ。今夜は安心して眠れる」
背嚢に詰め込んできたパンを取り出した。
「食え」
子どもはじっとギルベルトを見た。遠慮しているのだ。
「お前の家から持ってきたものだ」
そう言うと、両手を差し出し受け取った。
食べ終わると、もう寝るしかない。明日の朝は早い。大きな岩に凭れ掛かるようにして、ギルベルトはマントの前を開いた。
「ここへ来い」
子どもは何も言わなかった。
「火は使えない。跡が残るからな。敵に目印を残すようなものだ。だが、夏とはいえ山の夜は結構冷える」
「……」
クラウスは近寄ってこなかった。じっとこちらを窺っている。月明りの下でも、その目が全く表情を宿していないことに、ギルベルトは気がついた。
「……俺は、お前の親父じゃないぞ」
彼は言った。
「誰もがみな、子どもを殴ったりするわけじゃない」
そう言って、目を閉じた。
もそもそと、近づいてくる気配がした。暖かい塊が、マントの下に潜り込んでくる。しっかりとくっつき合って、二人は眠った。
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