……と、相成れば良かったのだが。


「姫様? 聴いていらっしゃるのですか?」


 悪党退治がなされた次の日の朝。


 王宮の奥も奥、皇帝の血に連なる者の中でも限られた人間しか入ることを許されない、俗に『後宮』と呼ばれる場所の一角。


 その中心から大きく外れた、後宮の端も端のきわっきわに位置する、存在することさえ忘れられた一際ひなびた舎殿。


 人が住んでいるかも怪しい有り様の建物の中からは、爽やかな朝に似つかわしくない、低くドスの効いた声と寒々しい殺気が漏れ出ていた。


「また警邏所に入り浸り? また小悪党どもの噂を聞きつけ? また深夜に王宮を抜け出し? また悪党退治に精を出していた、と?」

「……ハイ、おっしゃる通りでございます……」


 昨夜の下男姿から『公主』と呼ばれるにふさわしい襦裙姿に装束を改めた凜華りんかは、おもむきのある調度に囲まれた部屋の中で、なぜか床に直接正座させられていた。


 ──公主の部屋にしては煌びやかさが足りないし、華やかさも高級感もないけど、それでも庶民的ではない空間にきちんと襦裙を着た公主を置くなら、床に直接正座じゃなくてきちんと椅子に座らせるべきだと思うんだけども……


 うなれたまま『ちょうどそこにいい感じの椅子もあるんだし……』と凜華は内心で不満を呟くが、それを素直に口に出すことはしない。したら最後、今日一日がお説教で終わると分かっているからだ。


 ──確かにそういういかにも『公主!』って感じの立ち居振る舞いは苦手だけど、一応私だってそういうことができるように教育はしてもらったんだしさぁ……。ここはそれをぜひとも前面に出すべきだと思うんだけどなぁ……


「……姫様、聴いておられますか?」

「ピャイッ!!」


 そんな現実逃避を考えていたら、二度目の『聴いておられますか?』が飛んできた。


 これはマズい。現実逃避に走っていることがうっすら相手にバレている。


「貴女様は! もう少しご自身が尊い身の上であられることについてきちんとお考えになられてはいかがですかっ!?」


 案の定、凜華にお説教を見舞っていたこうげつは特大の雷を落としてきた。その雷の矛先はすぐに凜華の隣に並んで正座をしている青燕せいえんにも向けられる。


「青燕も青燕ですっ! どうして姫様をお止めしなかったのっ!?」

「い、いや、香月さん。私じゃどう頑張っても無理だって分かって……」

「ではなぜわたくしを呼ぼうという考えに至らないっ!?」

「ヒィッ!!」


 香月の剣幕に青燕の体が跳ねる。


 ──正座をしたままの態勢で宙に跳ねるって、無駄に器用よね、青燕って。


 青燕も青燕で昨夜の装束から後宮の公主にはべるにふさわしい官吏服に着替えているのだが、こちらは凜華と違ってなぜか装束が改まっても雰囲気が変わらない。相変わらず纏う空気は頼りないし、なぜか直接床に正座をしている姿が様になっている。ずり落ちた分厚いメガネも、しょぼくれた雰囲気に非常によく似合っていた。


「姫様! 荒事ならば青燕よりもわたくしの方が向いておりますっ! ご存じでしょうっ!? だというのになぜよりにもよって青燕をお連れになったのですかっ!?」


 そんな風にまた現実逃避に走っていたら、お説教の矛先が凜華へ戻ってきてしまった。


 香月も香月で凜華にこれ以上お説教をしても無駄だと感じ始めているのだろう。語調が叱りつけるものから懇願へ変わり始めているのが分かる。


「いや、でも、夜も更けてたし、その時間帯に女二人ってのは、さすがに危ないかなぁ~って……」

「こんな軟弱なモヤシを連れていくくらいならば、わたくしの方がまだお役に立てますっ!!」

「え、あ、そ……そう、かも……?」

「なぜそこで疑問形なのですかっ!?」

「う、え、あ……ご、ゴメンナサイ……」


 まさしく昨夜の凜華も同じことを思っていたのだが、全面的に肯定してしまうとそれはそれでお説教が長引きそうな気がする。


 そう思ったから中途半端な受け答えになったのだが、これも素直に口に出すわけにはいかない。結果、凜華はまごまごと謝罪の言葉を口にして身を縮こませた。


 そんな凜華を見て、香月の怒りもようやく鎮火してきたのだろう。香月は深く溜め息をつきながら凜華から視線をそらす。


「姫様はもうお休みになったと信じて疑わず、一人部屋で寝こけていた己が嘆かわしゅうございます」


『やはり侍女という役柄に甘んじず、もっと鍛錬に励むべきか……』と続けて呟く香月に、凜華は思わず顔を引つらせた。隣から吐息だけで上がった悲鳴に視線を走らせれば、青燕の顔面からも血の気が引いている。


 ──いやいやいやいや、香月、今より鍛えてどうするの? 何を目指すの? 今でも大概香月の目を盗んで出掛けるのはひと苦労なのに……!


 せん香月。


 その名を知らない者は宮中にいない。


 と言ってもその名声は、女官として得たものではないのだが。


「自分の部屋に下がっていたとはいえ、姫様の気配が動いたことに気付けないなんて……。たるんでいる証拠だわ」


『禁軍に猛華もうか在り』


 今でこそ板についたたおやかな挙措と女官装束で隠されているが、香月は『柳華りゅうかの猛華』『鮮華せんか激女げきじょ』と讃えられ、敵軍からも自軍からも恐れられた女武人だ。


 軍部時代の香月が打ち立てた武功は数知れず。一番大きなものだと、十年前の大戦おおいくさで自軍を率いて最前線で戦い、劣勢だった柳華軍を盛り返して停戦協定を結ばせるに至るまで敵国を追い込んだというものだろうか。


 香月自身がその武勇伝を凜華に語ることはないが、今でも香月を慕って何かと顔を出しに現れる当時の部下達が冗談半分で凜華に香月の武勇伝を教えてくれるから、凜華も有名な話はいくつか知っている。


 ──香月の武勇伝、私、どれも好きなんだけどな……。もっと香月自身が教えてくれればいいのに。


 その大戦で負った怪我が原因で軍部を引退せざるを得ず、人の紹介を受けて凜華の元にやってきたのだという話は、以前香月自身から聞いた。凜華が香月から直接聞いた身の上話はそれだけだ。


 だが一方で香月が今でも時々、侍女仕事の傍ら禁軍まで稽古をつけに行っていることを凜華は知っている。


 つまり香月の怪我は剣を握れなくなるほど酷いものではなかったか、かつては酷かったのかもしれないが今は回復している、ということではないだろうかとも凜華は思う。もしかしたら『怪我』は軍部から身を引く建前で、主な原因は別のところにあったのかもしれない。


 ──突っ込んで訊いてみたいけども。


 身の上を自発的に話さないということは、話したくない理由が何かあるということだろう。そこに無理を言ってまで事情を話させるのは何かが違うと凜華は思う。


「よろしいですかっ!? 次からはそういう気遣いはせず、必ずわたくしをお連れくださいますようっ!!」

「ヒャッ!! ヒャイッ!!」


 そんなことを考えていたせいで『次回ってことは、悪党退治自体はやめなくてもいいの?』という部分に突っ込みを入れることを忘れてしまった。言ったら言ったで面倒なことになりそうだから、言わずにいて正解だったのかもしれないが。


「まったく……。姫様がこんなに日々おてんに過ごされていることを『白銀の君』がご存知になったら、どんなご反応をされることか……」


 だがそんな考え事は香月の言葉でどこかに吹き飛んでしまった。


『白銀の君』という言葉に反射的に顔を上げれば、凜華の反応をうかがいつつもあえて澄ました顔を取り繕っている香月の横顔に行き合う。


「白銀の君は、姫様が危険な目に遭うことを望んではいらっしゃらないと思うのですがねぇ」

「うっ! そ、それはそうかもしれなけれど」


『白銀の君』


 その名を出されると、凜華はどうしても弱い。


「で、でもでも! ふみの文脈からして、私が日々悪党退治をしていることも、剣の腕がそこそこあることもご存知のようだし! その上で私の日々の行動をいさめられたことはないし……っ!」

「ですが、全面的に肯定しているということもないと思いますよ?」


 ごもっともな言葉に凜華は思わず言葉に詰まった。


 先帝の血を引く公主であっても数多あまたいる御子の中の一人にすぎず、母も故人で後ろ盾が何ひとつない凜華は、宮廷からすでに存在を忘れ去られている。帝位が腹違いの長兄に渡ってからは、おおやけに落ちてくる金子も止まった。


 それでも凜華達が極貧といえどもいまだにここで生活していられるのは、この宮にたった一人だけ後見人と言える存在がいたからだ。


 その相手こそが『白銀の君』……凜華のあこがれの君である。


 ──と言っても、私、直接お会いしたことはないし、この気持ちを『憧れ』って言葉で表していいものなのか分からないんだけども。


 この宮唯一の後見人の姿を、凜華は直に見たことがない。白銀の君という呼び名も凜華が勝手につけたものだから、本当の名前も分からない。凜華どころか、香月や青燕、その他この宮に仕えてくれている数少ない使用人の誰も、白銀の君の正体はおろか、姿形さえ知らないという。


 どういった縁から凜華の宮に援助をしてくれているのか、何の意図があるのか、いくら推測してみても予測すら立てられない。


 ただ、その人がこの宮に生活していけるだけの金子や食べ物、衣や必要物資を援助してくれているから、凜華は母が亡くなった後も生きてこられた。その事実だけは確かだ。


 いつも援助の品は月に一度、夜半に宮のどこかにひっそり置き去りにされていく。そこを待ち伏せしようとしてみたことは過去に何度もあったのだが、まるでこちらの考えを読んでいるかのように品の置き場が毎回変わるせいで、凜華の待ち伏せが成功したことは一度もない。香月も同じように待ち伏せしていたことがあるらしいのだが、香月の方も毎回空振りに終わっているらしい。


 ──香月の待ち伏せを回避できるなんて、白銀の君は野生動物か何かなのかしら?


 確かに存在を感じるのに、何年も姿どころか素性の欠片さえ掴ませない後見人。


『白銀の君』という呼び名は、いつも援助の品と一緒に凜華宛てに残してくれる文の料紙が美しい白銀色をしていることから取った。


「確かに、白銀の君が、私に日々を平穏安寧に過ごしてほしいと願ってくれていることは、分かっているんだけど……」


 白銀の君はいつも、几帳面な文を凜華宛てに残してくれる。


 初めて援助の品を送ってくれた時から毎回欠かさず添えられている文には、凜華のことを案じ、時にいさめる言葉が丁寧に綴られている。


 そうやって残されてきた文は、全て凜華にとってはかけがえのない宝物だ。文箱ふばこに大切に保管してある手紙を時々読み返しては、勇気をもらったり、心を温めてもらったりしている。『誰か支えてくれる人がいる』という事実は、凜華にとっては他に代えがたい心の支えだ。


「でも、それに甘えっぱなしでいる自分には、なりたくないの」


 文はいつだって白銀の君からの一方通行だ。素性も何も分からない上に品の置き場所も毎回変わるから、返事を書いても渡すすべが一切ないというのが実情だった。それでもいつか渡したいと願って凜華が書いた返事の文は、白銀の君からの文を入れた文箱の中に、もらった文の数と同じだけ入れられている。


 相手のことを知りたくても知る術がない凜華は、手紙を読み返しては白銀の君がどんな人なのか、昔から繰り返し繰り返し想像してきた。


 筆跡からして、教養のある男の人ではないだろうか。


 幼い頃の文には凜華でも分かりやすいように平易な言い回しを使ってくれていたから、相手の立場に立って物事を考えることができる人なのだろう。


 凜華の日々の行動を何となく知っているようだから、宮の中に関係者がいるのかもしれない。


 生活していけるギリギリの金子とはいえ、それなりの大金を一括で毎月用意できるのだから、富豪であることには間違いないだろう。


 純粋に凜華の健やかな成長を願い、日々の安寧を祈る。


 決して長くはない文にいつも込められているのは、凜華を真綿でくるむような優しさばかりで。幼い頃から宮中の暗い感情に揉まれて一際作為に敏感になった凜華をしてでも、文や援助の品から作為や偽善を感じたことは今まで一度もない。


 ──だからこそ。


 その行為に一方的に甘えたくないと、昔から思ってきた。


 相手が凜華を援助するに至った経緯も、思惑も、凜華には分からない。ただ、その純粋な好意を受け取るにふさわしい人間でありたいという願いは、ずっと凜華の胸の中にある。


「白銀の君からの援助を、当たり前って顔で受け取るような人間にはなりたくないの」


 ずっと、幼い頃から考えてきた。『純粋な好意を受け取るにふさわしい人間』とは、一体どんな人間なのだろうと。


 その自問に対する明確な答えは、まだ見つかっていない。それでも考え続ける中で生まれた一種の『信念』が凜華の中には息づいている。


「今までずっと受け取ってきている手前、今更何言ってるんだって言われても仕方がないんだけど……、でも! 私、自分でも何かできるような、そんな人間になりたいのっ!」


 その信念に従い、凜華は真っ直ぐに香月を見上げた。力強い視線に凜華の意地を見たのか、香月は軽く肩をすくめると若干語調を柔らげる。


「それで悪党退治というのは、いささかぶっ飛びすぎなのでは?」

「だ、だって……! 手っ取り早くて、世間様のお役にも立てて、清く正しく美しくお金が稼げる手段を他に思いつけなくて……っ!」


 凜華の剣の師匠は香月だ。香月が軍部に指導に行く時に着いていって、軍部の人間と一緒に稽古をつけてもらっているから、軍部の兵士と比べてもそこそこ役に立てる腕前であることも分かっている。


 剣よりは自信がないが、棒術や槍術、弓術も一応心得がある。一応、自分でもやれるという算段があって始めた悪党退治だ。


 そもそも警邏所とのコネも、この軍部の鍛錬に着いていった時に作ったものだ。


 つまり警邏所の人間は香月を通じて凜華の立場を知っているし、凜華の腕前も知っている。凜華に万が一のことがあったらさすがに問題になると分かっているから、簡単な案件しか凜華に投げてこないし、凜華の腕で手に負えないような現場に凜華を派遣することもない。


「いえ、そもそも『公主』という立場にある御方に、悪党退治を手伝わせる警邏所の人間も大概おかしいと思うのですが……」


 そう言いながらも、香月は諦めの溜め息をついたようだった。


 ──警邏所長の義了ぎりょうって、香月が軍部にいた時の部下だったんだっけ?


 かつての部下ならばそういうことも考えるか、と香月も自分を無理やり納得させたのかもしれない。あるいは、そもそも自分が軍部の鍛錬に凜華を伴っていくようになったことが間違いだったと覚ってしまったのか。


 だが『猛華』と恐れられた女傑は、そんなことで落ち込んでくれるようなタマではなかった。


「とにかく、姫様はご自身の行動を反省してください。本日は手習いをしがてら、反省文をしたためていただきます」


 香月の表情を見て『ほーら、私の行動だけ責めるのは間違ってるじゃないのよー』と内心ではやし立てていた凜華は、溜め息ひとつで気分を切り替えてしとやかな笑みを向けてきた香月に凍り付いた。


「反省文?」

「はい。ざっと巻物一本分ほど」

「巻物一本分っ!?」


 想像以上の文章量を要求してきた香月に、凜華は思わずギョッと目を剥く。


 だが凜華の頓狂とんきょうな声にも香月の淑やかな笑みは崩れない。


「ええ。美しい文字は公主のたしなみ。姫様の文字は、いささか元気が良すぎます。反省文を美しく仕上げていただければ一石二鳥。長文を書くことによって集中力も養われますゆえ」

「ちょっと待って香月! さすがに長すぎない? 巻物一本分の紙と墨を無駄にする余裕なんてこの宮には……っ!」

「それでは用意をしてまいりますゆえ、しばしお待ちください」


 思わず凜華は香月にすがりつこうと腰を上げたが、長時間石床に正座させられていた足は急な動きについてきてくれない。


 足の痺れに気付いて悶える凜華を笑顔で切り捨てた香月は、優雅に一礼すると凜華の叫びに一切耳を貸すことなく室から姿を消してしまった。


「あーあーあー……。香月さんのことですから、きっと書き上がった反省文、警邏所まで回覧させるんじゃないですかね」


 四つん這いの体勢から一寸も動けなくなってしまった凜華の隣で、青燕が呑気に呟く。


 凜華が震えながらなんとか視線を青燕に向けると、青燕は『どっこらしょー』とじじくさい声を上げながら足を崩したところだった。余裕のある態度から察するに、青燕の足は凜華よりも痺れが軽症で済んだらしい。


 何だか青燕のくせにズルい。隣にいたことを忘れるくらい気配がなかったくせに。


「イヤですねぇ、あれ以上お説教が飛び火してくると面倒だったんで、意図的に気配を消していたに決まってるじゃないですかぁ~」

「青燕のくせにズルい……っ!」

「えぇ~」

「『えぇ~』じゃないわよ、『えぇ~』じゃっ! 今日は警邏所に顔を出して、昨日捕まえたヤツらがどうなったのか事の顛末を聞こうと思っていたのに……っ!」

「ついでにその報奨金と、次の仕事をもらってこようとしていたんでしょう?」

「よく分かっているじゃない青燕のくせに……っ!」

「姫様、その『青燕のくせに』っていうの、やめていただけませんか?」


 元々下がり気味の眉をさらにハの字に下げた青燕は、控えめに文句を言うとおもむろに立ち上がった。その軽やかな動作が信じられずに凜華は思わず無防備に目を見開く。凜華の足はまだ全く痺れが取れないというのに……むしろ中途半端に血が巡って今からが一番痛い状態だというのに、青燕はもうすでに立ち上がれる状態まで回復したらしい。


「正座をするのにもコツがあるんです。痺れにくい座り方というものがあるんですよ、姫様」


 いざという時は全く空気が読めないくせに、青燕はこういう時だけ無駄に凜華の表情を読むのがうまい。凜華の視線の意味を正確に理解した青燕はニコリと笑うと『私、こういう事態には慣れていますので』と続けた。


 ──『石床に直接正座する青燕』がやけに様になっていたのはそのせいか……!


「それでは姫様、本日は大人しく香月さんと一緒に手習い……もとい、反省文の作製にいそしんでくださいね。私は私の仕事を片付けきますから」

「ちょっと青燕! さっきの私の話聞いてたでしょっ!? どうやったら今日中に警邏所に行けるかを……っ!!」

「いや? 無理でしょ。あの剣幕の香月さんが解放してくれると思ってるんですか?」


 あっさり凜華を見捨てて室を出ていこうとする青燕を必死に呼び止めるが、青燕から返ってきたのは無慈悲な言葉だけだった。きょとんとした顔に浮いた『何言ってるんです?』と心の底から思っていそうな表情がその言葉に拍車をかけている。


「私も自分の仕事が溜まってきてしまっているので、今日一日、姫様に大人しくしていてもらった方が助かりますし。警邏所は明日でも大丈夫ですよ。むしろ、反省文を何とか今日中に終わらせて、明日朝一で動けるように態勢を整えることに力を注いだ方が建設的です」

「窓際族の青燕に溜まる仕事なんてあったの……っ!?」

「それに、自分の行いを反省せず、逃げ出して好き勝手する姿って、格好悪いと思いません?」


 失礼だと分かっているが衝撃を隠せなかったことを素直に口に出してしまったのだが、青燕がそこに怒ることはなった。


 ただ、香月が操る剣よりも鋭い言葉がガッスリと凜華の胸に突き刺さる。


「今ここで香月さんを出し抜いて、反省文作成大会から逃げおおせたとしましょう。……それは、姫様が言う『清く正しく美しい姿』なのですか?」


 そう言われてしまうと、もう凜華に反論する言葉はない。


 もちろん、凜華にだって分かっている。ここで逃げ出すのは心配して叱ってくれた香月に対して不誠実だし、何より自分の信念に反する。そんなことをしてしまったら白銀の君に合わせる顔がない。


 ──いや、実際今まで一度も顔を合わせたことはないんだけどもねっ!?


「それでは、頑張ってくださいね」


 また凜華の表情を的確に読んだ青燕は、凜華が何かを言うよりも早く笑みを残して室を出ていった。


 あの『読み』がどうして荒事の場面になると出てきてくれないのだろう、と八つ当たりを思いながらも、凜華は深く溜め息をついて四つん這いの状態から何とかお尻をぺたりと石床に付ける形で座り込む。


 香月も青燕もいなくなってしまうと、室の中は途端に静かになった。


 人の気配の薄い部屋。


 古びた、とても公主が住んでいるとは思えない舎殿。


 開け放たれた窓から入る風にたなびく香もなければ、雅やかな楽の音も、翻る絹も、おおよそ後宮らしい物はここにはない。


 ……だけど。


「この宮には、白銀の君がいてくださるんだもの」


 姿も名前も分からない後見者。知っているのは、その人がいつも凜華を案じてくれているということだけ。


 手跡しか知らないその人に、凜華はいつからか親愛とも憧れとも淡い片恋とも言えない感情を抱いている。


「こんなことで、めげたりしないわ」


 いつかきっと会えると信じて、いつ出会っても恥ずかしくないように、清く正しく美しく生きようと決めた。


 清く正しく美しくあるためならば、反省文の一本や二本、美しく書き上げてやろうではないか。


「だから、悪党退治に出掛けることには目をつむってもらおう!」


 両手を拳の形に握りしめて気合を入れた凜華は、とりあえず椅子に座るべく、いまだに痺れが残る足をかばいながら立ち上がったのだった。

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