第14話

 火曜日。午前授業が終わり、学校から帰ると、家には誰もいなかった。平日だから、みんな仕事に行ってるんだ。僕は時間を見て、バッグに財布を入れてカラオケ店へ自転車を漕いだ。真夏の暑さに汗をにじませながら、熱を通した空気を吸う。駐輪場につくと、すでにりかちゃんが待っていた。

「おつかれぇ!」

 彼女は満面の笑みで僕を迎えてくれた。僕は自転車から降り、鍵をかける。駐輪場の自転車はあまり多くなかった。

「おつかれ」

 僕は挨拶を返し、りかちゃんの方に向かう。りかちゃんは桃色の手提げカバンを持っていた。

「歩いてきたの?」

「お母さんには内緒だよ」彼女は意地悪に微笑んだ。

 僕らは並んで店内に向かう。受付を済ませ、少し待つと呼ばれた。こうして外に出てみると、りかちゃんの右腕の怪我がよく目立だった。それを見ると、罪悪感が心のなかから湧き出て来て、僕は目線をそらした。

 個室は二階にあった。僕らは階段を上り、890番の部屋に入った。

「さて、何歌おうかなぁ」

 りかちゃん踊りそうな勢いで僕のとなりに座った。個室は狭い。L字に長椅子があり、机がその眼の前にある。りかちゃんは悩む指でタブレットを操作した。

「えっとぉ…じゃあこれ」

 りかちゃんは何度も首をかしげながら、タブレットに指をタップしていく。しばらく経って、大きな液晶画面に出たのは、アニソンの名前だった。

「え、歌えるの?」僕はりかちゃんにアニソンのイメージはなかった。

「歌えるよ」彼女は胸を張った。「ふうかに教えてもらったんだ」

 さて彼女が歌おうとすると、僕らは採点が入っていないことに気がついた。ふたりともカラオケ初心者だったから、その入力にまた時間を食った。

「よし、これで大丈夫」

 そうして歌われたりかちゃんの歌声は、綺麗で、幼くて、悠長なものだった。本当の声優が歌っているような、そんな錯覚すら僕は覚えた。

 彼女が歌い終わると、僕は拍手をしていた。点数は、93点だった。

「すごいね!」

「えへへぇ…すごいのかな?」彼女はほほえみながら、首を二十五度かしげた。

「90点超えるのはすごいんだよ」僕はどこかで覚えた知識を言った。

「えっ、そうなんだ」りかちゃんは驚いて見せる。「良かったぁ」

 彼女の満足そうな笑顔に僕も嬉しくなった。

「次、僕だね」

 僕はタブレットを操作する。

 大画面にちょっぴり曲名が浮かんだ。

「なんの曲入れたの?」りかちゃんはそれをみてから、僕の方を向いて言った。

「聞いてのお楽しみ」

 僕が歌い終わると、りかちゃんは拍手をしながらこういった。

「いい曲だね。私この曲知らないなぁ」

 点数は73点。

 まぁまぁじゃないかな?

 けれど、僕の点数に、りかちゃんは言いにくそうな顔をした。

「これが平均点?」

「そうなのかなぁ」

 僕らは二人首をかしげる。ふたりともカラオケの平均点を知らなかった。

「まぁでも、それでいいんじゃないかな?」

「そうだね。点数はあんまり考えないようにしよう!」

 それから僕らは、歌を歌い続けた。

 時間の経過は早かった。休憩しようと言った時、もう二時間が経っていた。

僕らはドリンクを取りに行き、ゆったり長椅子に背を預けた。

「疲れたぁ。喉がチクチクする」りかちゃんが飲むオレンジジュースはこれで五杯目だった。

「僕も流石に歌いすぎたかなぁ。でも、りかちゃん結構アニソン知ってるんだね。意外だった」

「やっぱり、似合わない?アニソンとか、アニメ声とか」りかちゃんは苦笑いを浮かべている。

「そんなことないよ。全然似合ってる!」

「本当?」りかちゃんははにかむ。

「うん。僕はりかちゃんの声、好きだなぁ」

「ありがとう…あ、そうそう」りかちゃんは、左手でやりずらそうにハンドバッグを弄った。「実はね、杖を持ってきたんだ」

「え、そうなの?」

「うん」りかちゃんは杖を取り出す。それは本物の魔法の杖。けれど見た目は、おもちゃコーナーで売られている安物の杖みたいだった。「私ね、夢があるんだ」

「夢?」

「うん」彼女はそこで息を飲んだ。「私…声優になりたいの」

 りかちゃんの表情は真剣そのものだった。

「いいんじゃない?」僕は思わず僅かに視線をそらした。

「え…」彼女は目を丸くする。

「いいと思うよ。りかちゃんの声、すごい素敵だし」

「ほんとぉ?」彼女は前のめりになって僕の顔にその笑みを近づけた。

「ほ、ほんとだよ」

「でも、私、誰からもこの声褒められたことないんだけど…」

「僕はすごいいいと思うよ。りかちゃんが声優なんて、すごいじゃん!」

「応援してくれる?」

「うん。するする…あ、もしかして願い事って…」

「うん。声優になれますようにって、願いたいの」りかちゃんは僕をじっと見つめた。「いいかな?」

「いいと思うよ」

「あ…」

「あ?]

「あぁ…よかったぁ」りかちゃんは大きく息を吐いた。「ともむには言っておきたかったんだ。願い事」

「僕?」

「そう…だって、この杖、ともむからもらったやつだから」りかちゃんは杖を前に突き出した。「それに、ともむに知ってほしかったんだ。私の夢」

「夢…」

「ともむだけだよ、私の夢を教えたのは!」

「どうして僕だけ?」

「いやぁ、その…」りかちゃんはとたんに頬を膨らませ、ゆらゆらと体を動かす。「ともむには言ったほうがいいと思ってね。夢を叶えるチャンスは、ともむがくれたんだから」

 心臓の鼓動が早くなる。え?なんだろう、すごく嬉しい。

「いや…特別なことは何もしてないよ」

「遠慮しないで。ほら、次、歌お!」

「ああ、うん」

 僕は照れ隠しも含め、一気にメロンソーダを飲み干した。ちらりと見ると、隣でりかちゃんがタブレットを操作している。ハッとした。りかちゃんがとても生き生きとした笑顔でいたんだ。僕は身近で彼女のそんな表情をみれて、とびきり嬉しくなる。彼女の右腕に包帯が巻かれてなければ、更に気分はよかったんだろうけど…。

 曲を入れ終えたのか、りかちゃんの顔が上がる。大きな画面に小さな文字で『恋愛サーキュレーション』と出た。

「あ、それ知ってる!」

「え、そうなの!嬉しぃ」

「僕も好きだよその曲」

「ふうかがこの前教えてくれてね。気に入ってるんだぁ」

 りかちゃんの目がスッと画面に向いた。マイクを両手で持って、いつでも口が開けるように準備している。ふっと意識が抜けた時、りかちゃんの可憐な歌声が僕の耳に聞こえてきた。

「せーの」

 ふんわりとした曲に、甘ったるい声。とても美しい空間に僕は居た。

 

 四時になると、僕達はカラオケ店を出た。りかちゃんはこのあと塾があるのかと思ったけど、怪我をしているから塾や習い事は暫くの間休みになったらしい。それじゃあ、と思って僕は勇気を振り絞ってりかちゃんを家に誘ってみた。

「あ、ごめん。今日はすぐに帰らないといけないんだ」

 りかちゃんが本当に申し訳無さそうにそういった。

 胸を引き裂かれるような痛みを伴いながら、僕らはその場で解散をした。


 夏の四時はまだ空は青くて少し暑い。りかちゃんと別れて自転車をゆるく漕いでいた僕は、ふと公園のそばで自転車を止めた。特に理由はなかった。

 公園では僕の知らない男の子が六人くらいでサッカーをしていて、少し背の高い男の子と女の子がベンチでゆったりしていた。

 その公園は僕が使う公園の一つで、人が多くて、とても広い。ぼうっと熱に輝く地面を見ていると、明日が野外活動だということが、なんだかすごく遠くのことのように思えてくる。今まで僕はりかちゃんといっしょにいたのに、明日から三日間あえなくなるのだ。

 僕は青空を見上げた。涼しい風が頬を撫でる。冷たい風に、鳥肌が立つ。

「三日間か…長いなぁ」

 僕が帰る時、りかちゃんは最後僕にこういってくれた。

 野外活動、楽しんできてね!

 その言葉が、ずんと重く僕の胸に沈んでいる。ぼうっとしていると、サッカーボールがこっちに飛んできた。それは入口から数メートルのところで止まり、僕は逃げるようにまた自転車を漕いだ。

 

 着いた先は、おばあちゃんの家だった。家に帰るにも早いし、僕にはおばあちゃんに打ち明けたいことがあった。

「また、何か悩みことかい?」

「…うん」

 湯呑みが目の前に置かれた。僕は湯呑みを取って、スッ、とお茶を吸い込む。同時に、よいしょ、とおばあちゃんが僕の前に座り込んだ。

「りかちゃんとは仲直りしたんだろ?」

「うん。そうなんだけど…」僕は言葉を止める。「野外活動が、明日あるんだけど、そのりかちゃんが怪我したせいで野外活動にいけなくなったんだ」

「なるほどねぇ…そいつは残念なことだね。それで、りかちゃんに恨まれたのかい?」

「ううん。その、恨まれてないことが、なんだか心地悪くて…」

「それじゃあ、ともむはどうしたいんだい?」

「え?」

「りかちゃんにもう一度謝っても、状況は変わらないよ」

「うん…」

「実は、りかちゃんが野外活動に行けない代わりに、野外活動が終わったあと、班のみんなでりかちゃんとパーティーをする約束をしてるんだ」

「そりゃいいじゃないか。みんな優しいねぇ」おばあちゃんはそう言って、お茶をすする。

「うん。そうなんだけど…三日も合わないのはさみしいと、思って」

「そりゃ、仕方ないことだね。ともむが野外活動に行かないわけにはいくまいし」

「うん…そう、だよね」

「野外活動が終わるまで、我慢だね。せっかくなんだ。そのパーティーをしっかり楽しむんだよ」

「うん」

「そう言えば、りかちゃんは何を願ったんだい?」

「あ、うん。声優になりたいって願うんだって」

「そうかい。声優になりたいのかい」

「叶うよね?」

「叶うさ。その願いが本心からだからね。純粋とは、迷いがないということでもあるんだよ」

「大丈夫。りかちゃんの願いは本心からだよ」

「そうかい。なら大丈夫さ」と言って、おばあちゃんは席を立った。「ちょいとお菓子を持ってくるから、待ってな」そう付け加える。

「うん」

 僕は一人茶をすする。りかちゃん、願い事叶えれただろうか。

 でも、声優になりたいって願い事、どうやって叶うんだろう。

 連絡とか来るのかな。あなたは今から声優ですって、どこからか連絡が来るんだろうか。それとも、急にみんなから、声優だね、って言われるのかな。

「また暗い顔をしてるね、あんたは」

「あ、おばあちゃん」僕は顔を上げる。

「何が、あ、だい。ほら、お菓子だよ」

 おばあちゃんはぽんと丸い木皿を机に置いた。ポテチが入ってる。一つ食べると、コンソメの味がした。

「まだ悩み事があるのかい?」

「ねぇ、願い事ってどういうふうに叶うの?りかちゃんの声優になりたいって願い事、誰かから連絡が来るの?あなたは声優になりましたって」

「来る日に来るんだよ、そういうものは」

「じゃあ、数年後とかもありえるわけ?」

「そんな長くはかからんよ。ものにもよるけどね…りかちゃんの場合は数日くらいじゃないかな。きっと、りかちゃんから動くと思うよ。願い事は本人の叶えたいという意思があるから、願い事になるんだよ。動くのはあくまでも本人だよ」

「奇跡じゃないの?」

「奇跡みたいなものだよ」

「ふぅん…」

「そう考え込まなくてもうまくいくさ。おばあちゃんを信じなさい」

「うん」

 僕はポテトをかじる。明日は、野外活動一日目。全然、そんな気がしなかった。

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