第8話
日曜日。夢から覚めた時、僕は大量の汗をかいていた。僕は、夢の中で犯罪者だった。何か、とても大切なものを、小さな少女の家から奪いさったのだ。それで、僕は、大勢の警察官に捕まって、牢屋に入れられて、何か、とても酷いことを告げられて――そこで、目が覚めた。
僕は今、ベッドの上にいる。光り輝く窓辺から小鳥の声が聞こえ、さわやかな朝の空気に昨晩との違いを思い知らされる。壁にある時計が五時五分を指していた。僕にしては、かなり早起きした方だ。これも、夢のせいかも知れない。
部屋を出て、トイレに行く。朝というだけで、廊下の空気は山の中のように澄んでいて、とても冷たかった。不意に、野外活動でもこうなのかな、と考えて、一気に虚しくなった。野外活動には、りかちゃんも一緒なのだ。今日、僕はりかちゃんの家に行くのだけど、そう言う実感すら、なんだか夢の続きのような、ぼんやりとした認識しか出来なかった。トイレから出て、朝食を食べようと階段を降りる。三段ほど下がった所で、一階の電気がまだついていないことに気が付いた。僕はすぐに引き返した。お腹も余り空いていないし、朝食はいつも、七時からでお母さんが作ってくれる。
自室は、廊下よりも涼しくは無かった。けど、夏なのに冷房を入れなくても良いほど心地よいから、なんだか嬉しくなる。勉強机の上に、昔水族館に家族と行った時に買った、イルカの小さな縫いぐるみが置かれていた。四角い木のペンケースに二本の鉛筆と赤ペンと黒ペンが刺さっている。広いスペースには、一冊のノートが開かれたまま大部分を占めている。昨日の朝、僕が描いた漫画の続きだった。とはいえ、全然進んでいない。僕は、ゆっくりと椅子に座って、引き出しの中から一冊のノートを取った。『漫画』と言う題名で、下に『六冊目』と書かれている。先が細長い鉛筆を取り、ページをめくった。
そこでは、絵で描かれた二人の男の子が、楽し気に会話をしていた。彼らは後姿で、どこか街中を歩いていた。確か、設定は小学生のはずだが、彼らはランドセルを背負っていない。学校帰りでは無いようだ。
『今日さ、テストがあったんだけど、さんざんだったわ』ユージが言った。
『テスト?へぇ、僕のところは無かったな』カイが答える。彼は、ユージと学校が違う。そこが、この話しのトリックの一つだった。
『いいなぁ。お前の所、テスト無いんだって?』
『あるよ。人間テストがね』彼は、苦笑いをする。『教師に気に入られないといけないのさ。反発は許されないよ。やれと言われたらやるしかない。そう言う方が、不自由だし辛いね』
『そんな学校あってたまるか。俺だったらすぐに辞めるな』ユージは少し怒った風にいう。
『そうさ。辞めたいよ。けど、辞められないんだ。僕は、学校を出ないと行けないから。ほら、中学、高校と道が在るだろ?』
『考えたこともないよ。俺は未来なんかどうでもいいんだ。それよりも、悪いテストをどうやって親に隠そうか、そればかりを考えるね』ユージは腕を頭の後ろで組んだ。
『ほら、君だって支配されてるじゃないか。変わりはないよ』彼は微笑む。
『支配?なんだそりゃ?』ユージは食って掛かる。『俺が誰に支配されてるって?』
『学校も家も変わらないってことさ。君は親、僕は教師。みんな、後数年は支配されたままだね…。まあ、一生そうかも知れないけど』彼は遠くを見つめる。
『けっ、分からないね。支配なんて。俺は未来より今が大事さ』ユージは豪快に笑った。
『まあ。いいよ。僕もよく分かってないから。支配から逃れようとしないことが、もう、その証拠みたいに思えるし』
『囚われ過ぎじゃないか?その、支配ってやつに。それこそ、支配だ!』ユージは元気よく言った。
『そうかもね…。ああ、そうだろうね』
『俺はな、支配よりも…
そこで、会話が止まっている。最後も、二人とも後姿で、ユージだけが描かれていない。なぜだろう。思い出そうとしたけど、失敗した。僕はこれを、いつから描いていないのか、それも分からない。たぶん、二、三日前だろう。僕は宿題を一階でやることにしているから、この勉強机は漫画を描く専門の机のようになっている。だから、余り触れていないのだ。
「…」
ダメだ。やる気が出ない。そもそも、僕はなぜ支配について描いたのだろう。他に描くべきことは無かったのか…。急に、暇になった。特にやることが無い。ゲームをしようにも、朝早くだからなんだか白けてしまう。それに、まだ、僕の頭は正常ではない。りかちゃんの家に行くこと。その事実を、完全に把握できてはいなかった。つまり、逃げているような、浮遊感。
「はぁ…」
ため息が出る。頭は冴えているのに、その冴えを無駄に消費している気分だった。心地が悪い。もう一度、僕はベッドに寝転んだ。布団が、意外と柔らかくて驚く。そのまま目をつむると、小鳥の声が、美しい旋律に聞えた。
眠る…。
それは、とても良い案に思えた。
このまま眠って、起きた時、全てが思いもつかない良い方法で解決しているのだ!
そんな幻想が、頭の中でゆっくりと展開されていく…。
目が覚めた時、朝の十一時だった。危ない、とすぐに危機感を覚えた。もう約束の一時までに二時間しかない。僕を起こしたのは、緩やかな暑さだった。すぐ、朝食を食べてないことを思い出す。ベッドから降りて、急いで一階に向かった。一階の明かりは当然点いている。僕は何故か、階段を駆け足で降りた。十一時。まだ、間に合う。それは分かっているのに、何故か、焦りが止まらない。
「おはようともむ。さっき、りかちゃんから電話が来てたよ。あの子、ともむが寝てるって訊くとすぐに電話を切っちゃったけどね。何か深刻そうな声をしてたよ。あんた、何かやったのかい?」お母さんが、ダイニングから顔をだしてそう言った。
「いや…」僕は、階段を降りてすぐの場所で立ち止まった。それは、銅像のような硬直に近い。「今日遊ぶから、たぶん、そのことだと思う」僕は、言いながら、亀のスピードのように、ゆっくりと居間に入った。
りかちゃんが電話を?どうして?用件は?
頭が一気に冴える。思考が加速していたが、心は動揺しっぱなしだった。
「そう。ちゃんと仲よくしてるならいいんだけど…」お母さんは、台所で腰を低くして、姿が見えなくなった。
「うん…」僕は、何故か、壁沿いにある受話器の前まで歩く。その距離は、余りにも近い。
「朝ごはんあるけど、食べる?」
「うん」僕は生返事をする。受話器が、目の前にあった。
受話器が、ぼんやりと僕の視界に映っている。僕は、りかちゃんの家電を暗記していた。つまり、いつでも、通話が始められる状態にある、と言うことだ。どうやって、話をすればいいのだろう。りかちゃんは、僕になんの用だったのだろう。もしかして、今日遊ぶことを中止にしたいとか、そう言う連絡かもしれない。僕を嫌って…。
僕を嫌って…。
厭な想像だ。厭な言葉だ。
勢いで、僕は受話器を握る。右手だ。耳まで運んだ。でも…。
僕を嫌って…。
番号が押せない。
嫌って…。
いや、違う。違うだろう。
訊いてみないと分からない。伝えないと、伝わらない。
どこかで聞いた言葉。今が、そのよくわからない教訓に背中を押してもらう時なのだ。
番号を押す。冷たい電子音が、急に、耳に届いた。心臓が一瞬、本当に跳ね上がった。
ツツー、ツツー、ツー、ツツー。
厭な音だ。本当に、厭な音。
頭が回らない。
なぜ、僕は電話を今したのだろう。コンディションは、寝起きで抜群とは言えないというのに。
………。
『はい』りかちゃんの、凛とした、しかし少し幼稚なアニメ声が聞えた。
『ともむです』僕は、敬語になった。『その、電話があったって聞いて…』
『ああ、うん』りかちゃんは、そこで一度言葉を止める。『今日、ともむ私の家に来るじゃない?それが、その、言いにくいんだけどさ…ふうかも来ることになって…』
『え?』思考が一気に停止した。体中が酷く冷たい。まるで、雪山に放り投げられた瞬間のような感覚。『ふうかが?どうして?』
『もともと今日、ふうかと遊ぶ予定だったんだ。そのことを、昨日ともむとふうかに話そうと思ったんだけど、その、私が怪我しちゃって、うやむやになっちゃって…怪我はさ、別に、ともむを攻めてる訳じゃないからね。もう、そのことは忘れて。それで…一応、ふうかに、昨日ともむが来ることを言ったんだ。ふうか、承諾してくれたけど、かなり怒ってて…』
『うん』それは、安易に想像が出来た。彼女は、りかちゃんに怪我をさせた僕を目に見える形で恨んでいる。そんな相手に、遊びを横入りされた形になるのだから、怒るのも当然だろう。『僕は、行かない方がいい、よね?』正直、怒った彼女の前にするのは僕にとって精神的にとてもきつかった。
『あ、いや、来てほしいかな』りかちゃんが急いで言う。『ともむが良ければ、だけど…時間が無いから』
『時間?』
『あ、うん。私、もう、今日の午後しかまともに時間取れないんだ。塾とかあるから…』
『あ…うん』僕は、言葉につまりかける。そうだ。りかちゃんは、僕と違って忙しいんだった。『いや、大丈夫。行くよ』
どちらにせよ、僕はりかちゃんにきちんと謝らないと行けないし、ふうかにも謝るべきなのだ。謝ることを避けちゃ行けない。
『…いいの?ありがとう!』りかちゃんの声が跳ね上がった。『あ、それと、杖のことなんだけどふうかには内緒でお願い!』
『うん。分かった』僕はすぐに答える。『杖の相談って、電話越しじゃダメなの?行くと、相談出来ないと思うんだけど…』
『うん…ちょっと言いにくいことだから、会って話したい。相談はふうかが帰った後でいいかな?』りかちゃんは、急に真面目な声を出した。
『うん。全然いいよ』僕は落ち着いて発言する。『じゃあ、一時に。その…怪我はどう?』
『うん。なんともないよ。捻挫だって』
『本当にごめん』僕は勢いよく謝った。
『気にしなくていいよ。じゃあね』
『あ、うん。バイバイ』
『バイバイ』
通話が切れる
すぅっと心が落ち着いていく。すがすがしかった。一波乱乗り越えた、と言った解放感がある。一波乱はこの後起きそうだけど…。
「仲直り出来た?」ソファに座るお母さんがそう言った。「ごはん。朝ごはんの分置いてあるから食べちゃって」
「喧嘩してないから」僕はそれだけ言って、食卓に並べられた白米とお味噌汁、野菜とウィンナーの前に腰を降ろす。
僕はりかちゃんに嫌われてなかった。
そう思うと、とても心が軽くて、すごく、にやにやしてしまう。
「りかちゃんとは仲良くしてよね。幼馴染なんだから」突然、母が笑うような声を出した。
「分かってるよ」僕は箸を持って、まずは野菜から食べ始める。キャベツのシャキシャキとした触感が、不思議と心地よかった。続いて、ウィンナーを食べようとしたとき、玄関が開く音がした。僕のお父さんだろう。たぶん、車を洗った帰りだ。数分経つと、彼は居間に姿を見せた。
「お、ともむ。起きたか」お父さんは、サングラスの顔に蔑むような笑みを見せた。外見は怖そうな人だが、僕はとても優しい人だ。
「うん。今日りかちゃんの家に行くんだ」
「そうか。りかちゃんか。なんか久々に聞いたなぁ」
「あんた、ともむの幼馴染じゃない」お母さんがソファから大きな声を出した。
「でも、もう遊んで無かったんじゃ無いっけ?」お父さんがお母さんの方を見る。
「今日からまた遊ぶの。昨日も遊んだし」僕は不貞腐れながら答えた。
「そうよ。仲良くしなきゃね、せっかくの幼馴染なんだから」お母さんが強く言った。
「まあ、別にいいけど、怪我すんなよ」
「うん…」僕は、急な言葉に上手く言い返せなかった。
いつもなら、「分かってるよ」って、いうんだけど…。
「ごはん食べる?」お母さんがお父さんに聞く。
「ああ。うん。食べるよ」
「じゃあ、ちょっと待ってて」お母さんが、台所まで来る。
お父さんが、僕の隣に座った。
「ともむ、卵焼きとかあるけど居る?」お母さんが台所から言った。
「うん」僕は顔を上げて、元気よく答えた。
卵焼きは、僕の好物の一つだ!
「そういやぁ、ともむお前、もうすぐ野外活動じゃ無かったか?」お父さんが急に言った。
「うん。野外活動あるよ。次の水曜日に」
「楽しみ?」
「うん。楽しみだよ」僕は言いながら、自分の声が沈んでいるのに気が付いた。
りかちゃんが怪我で野外活動に来れないってことは…ないよね?
「存分に楽しめよ。責任は全部先生が取ってくれるから、多少の騒ぎをしても別にお前が叱られるわけじゃない。まあ、怪我だけはするな」お父さんが、楽し気な声で言う。
「うん…」僕は、少し不安になって、食事に集中した。
「あんたも手伝ってあげて。この子、まだ野外活動の準備してないんだから。今日まとめちゃうよ」お母さんが強く言う。
「ああ分かったよ」お父さんは返事をして、僕の方を向く。「ともむ、残念だったな。準備っていうのがあるらしいぜ。遊びから帰ったら、一緒にやろうか」
「うん。そう言えば、やってなかった…」
少しして、卵焼きが追加で運ばれてきた。僕とお父さんは、一斉にそれを箸でつまんだ。
「まあ。分けた方が良かったかしら」お母さんが、笑いながら言った。
僕は苦笑いをした。お父さんは豪快に卵焼きを頬張ると、上手い、上手いと笑って答えた。
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