第7話
僕は陽子とふうかが戻って来る前に、帰宅することにした。いつも以上に、自転車をこぐ足に力が入らなかった。頭も、ぼんやりとしていて、いつの間にか僕は玄関前に立っていた。
家に入ると、懐かしい香りがした。世界がゆっくりと動く中、僕は器械のように靴を脱ぎ、廊下に上がり、歩いていた。
「お帰りともむ。あんたもうすぐ野外活動だから、準備の方しなさいよ。お母さんも手伝うから」
台所から、お母さんが顔を出してそう言った。
「うん」
僕は生返事で答えて、すぐに二階に上がる。会話をする気力も無かった。階段を登る際、足を一歩上げただけで疲れた。途中で何故か頭痛がして、部屋に入り、ベッドで横になるとその痛みはスーッと引いた。
頭の中で、自然とりかちゃんが倒れた時の映像が流れ始めた。
意識がゆっくりと、罪悪感に飲み込まれていく。
僕はミスを犯した。それも最大級のミスを。
僕は、りかちゃんに怪我を負わせてしまった。これは、どうやって償えばいいのだろうか?僕は謝った。けど、それはやはり形式的なものでしかなくて、たぶん、もっと具体的な行動が必要なのだ。
――僕は何をするべきなんだろう?
考えても画期的な案は浮かばなかった。また、謝れば良い。そう思う。
明日、りかちゃんの家に行って――ごめんねって。
でも、怖い、と思った。
りかちゃんは、本当に僕が家に来てほしいと思っているのだろうか?
りかちゃんに怪我を負わせた僕を。
ふうかの怪訝な声が、何度も頭をよぎった。それにつられ、りかちゃんが僕を否定しているように思えてならない。
少し、眠たくなる。瞼が重たい。
視界すべてが暗くならないうちに、僕は意識して瞼を開けた。僕はいつの間にか、眠ろうとしていた。だが、どうして僕は起きたのだろう。そのまま眠ってしまえば良かったのに。
窓から覗く夕暮れのオレンジが僕の部屋を薄暗く照らしていた。奇妙なほどの静寂が、そこにはあった。
ふと、思いつく。
魔法の杖。
たぶん、僕はそれをおばあちゃんから貰っている。
時計を見ると、まだ五時過ぎだった。僕の家は、六時半に食事をする習慣がある。これなら、まだおばあちゃんの家に行って、話しが聴けるかもしれない。
僕はすぐ、部屋を出た。階段を降り、お母さんにおばあちゃんの家に行くことを伝え、玄関を出た。
おばあちゃんの家は、ここから自転車で十分ほどの場所にある。僕は自転車にまたがり、こぐ力を強くする。スピードに合わせ空気がどんどん乾いていった。
少し斜めに立っているように見える電柱の横に、おばあちゃんの家はあった。古びた木製の一軒屋で、外見はおんぼろ小屋と言う感じだ。僕はチャイムも鳴らさず引き戸を開け、家に入る。居間に顔を出すと、おばあちゃんがテレビを見ながらお茶を飲んでいた。
「おや…誰かと思ったらともむかい」
おばあちゃんは僕を見つけると、しわくちゃな顔で微かに笑みを浮かべた。彼女はもう六十三歳だ。まだ、若い方だとお母さんは言っていたけど、感じる覇気は日に日に無くなっているような気がした。
僕は用件を言おうとして、どこから説明しようかと迷い、廊下と居間の間に立ちっぱなしになる。
ぐじぐじしていると、
「まあ入りなさい。お茶用意するからね」
とおばあちゃんが言った。おばあちゃんは黒ずんだテーブルに手をつけてゆっくりと立ち上がる。
「ああ…うん。ありがとう」
僕は生返事をして、亀のようにゆっくりと動くおばあちゃんを見ていた。大丈夫だろうか?不安になる。おばあちゃんが右手の部屋に入っていくのを見てから、僕はようやくテーブルの隅に座った。丁度、僕の後ろに襖があって、その奥に玄関がある。目の前に、畳の部屋があった。その奥にガラス戸があり、そこから、夕暮れの明かりがゆっくりと部屋の暗さを侵食していた。
埃が被さった古いテレビに、若いニュースキャスターが映っている。すぐに画面が変わって、可愛い子犬がはしゃいでいるシーンになった。それは、チワワが二匹と、飼い主の男の人がじゃれている様子だった。僕は、黙ってそれを見ていた。しばらくして、おばあちゃんがお盆にお茶とお菓子を乗せて戻ってきた。
「久しぶりだね、ともむ。また、お母さんに何か言われたのかい?」おばあちゃんは、お盆をテーブルの上に置きながら言った。
「違うよ。その、聴きたいことがあって…おばあちゃん、魔法の杖って知ってる?」
「魔法の杖かい?」おばあちゃんは、お茶の入った湯呑を僕の目の前に置きながら、ゆっくりと発音する。「それなら、知ってるよ。大分昔に、ともむにあげたじゃないか」
「やっぱりそうなんだ。でも僕、あんまり記憶が無いんだけど…」僕は湯呑を手に取る。暖かかった。
「そいつは変だねぇ。でも、わたしゃあげたよ。ほら、確か幼馴染のりかちゃんの願いを叶えさせてあげたいって、あんたそう言ってたけどねぇ」
「え…りかちゃん?」
「そうだよ。りかちゃん。その子も忘れちゃったのかい?」
「いや。覚えてるよ。僕、りかちゃんにその魔法の杖を上げたみたいなんだよ…ねぇ、魔法の杖って、どんな効果があったの?」
「あれはねぇ、本当に叶えたいことを、三つまで叶えられる杖だよ。おばあちゃん特性のね。使えるのは、子供だけだよ。子供の純粋な願いだけ、叶えてくれる。今、杖はそのりかちゃんが持ってるんだね?その子はもう三回分使っちゃったのかい?もう、あれは作れないよ」
「どうだろう。使ったのかは、分かんない…」僕は湯呑を口に運んだ。
僕は、その杖を使った記憶も、りかちゃんに上げた記憶も無かった。そもそも、どうしてりかちゃんは、今更僕に魔法の杖を見せようと思ったのだろう?
「あんた、浮かない顔してるよ。何か悩み事でもあるんじゃないの?」
「え?」僕は伏せていた顔を上げた。
「あんたがここに来るときは、大抵何か悩んでいる時だけだよ。ほら、言ってみな」
「えっと…その…」僕はゆっくりと、湯呑をテーブルに置く。頭が混乱していた。呼吸が乱れている。僕は、ゆっくりと深呼吸をする。頭の整理がついたのは、数秒経ってからだった。「僕、今日、りかちゃんに怪我を負わせちゃって…その、明日りかちゃんの家に遊びに行くんだけど、なんて謝ればいいのか分からなくて…」言いながら、僕は泣きそうになっていた。
「…ごめんなさいって言ったのかい?」おばあちゃんは、優しい声を出した。
「うん。一回だけ」僕は頷いた。
「りかちゃんは許してくれなかったのかい?」
「ううん。別に気にしてないって、言ってくれた…」
「なら、気にしないでいいんだよ。遊びに行くんだろ。たぁんと遊べばいいさ。許してくれたんなら、りかちゃんだって、ともむを嫌っている訳じゃ無いんだからね」
「うん…」僕はもう一度、湯呑を持った。暖かい湯のみが、僕の心を明るく照らすようだった。
外に出ると、冷たい風が僕の頬を撫でた。頭が自然とシャキッとしている。もう、心の中の不安は無くなったようだった。ズボンのポケットに在る五百円玉を落とさないように、僕は自転車を漕ぎ、帰路についた。五百円玉は、おばあちゃんが僕にくれたものだ。
六時前に家に着いた。
「お帰りともむ。どう?おばあちゃん、元気そう?」居間に入った僕に、台所で調理をしているお母さんが訊いた。
「うん。声はシャキッとしていたよ。動きは、心配だけど」
「そう…。ならいいけど。一人暮らしだから、心配なのよね」
「おばあちゃん、病気とか無いよね?」僕は心配になって聞いた。
「無いと思うんだけど」
僕は食卓の席に座る。数分して、温かいご飯とお味噌汁とコロッケが食卓に並んだ。お父さんは、まだ仕事から帰っていないから、お母さんとの食事になる。
「頂きます」
二人で手を合わせる瞬間、僕はおばあちゃんが隣に居たら寂しくないのにな、とふと思った。
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