第4話
「そういえばさ。あの、何だっけ。星空を見るって奴、あれ山に登るの?」
ブランコの柵に座る雄二が大きめのスポーツボトルを口につけ、そう言った。
時刻は四時を回っている。六月の空は夕暮れなど見えないほど明るい。
「ん?そうじゃないの」
陽子がピンク色のスポーツボトルを咥えながら言った。ぷは、と後に声が続く。現在は休憩時間だった。陽子の隣に座るふうかは麦わら帽子でふんわりとした黒髪を仰いでいる。彼女の髪に思いのほか汗の量が少ないのは、体質なのかそれほど動いていないかのどちらかだろう。二人は一番左にある、自転車に近いベンチを占領していた。その隣のベンチに、幸運なことに僕とりかちゃんが腰を並べている。りかちゃんは日に焼けた細い足をぶらぶら揺らしながら、雄二の方を見ていた。この中で僕が一番端っこにいる。
「やっぱそうか。登るの夜だよな?」雄二が言った。
「うん。十八日の一日目の夜だね。確か、八時くらいだったとおもうよ。山を少し登ると丁度いいスポットがあって、そこで二十分くらい夜空を見る時間が作られてる」
りかちゃんがゆったりと声で説明した。彼女の脳内には野外活動の日程が全て入っているのだろうか?僕なんかあの長ったらしい予定表を見ただけで覚えるという行為を諦めてしまった。
「山って虫が出るんだよねぇ…厭だなぁ」ふうかが厭そうに口を開く。彼女はどうもお嬢様気質があるのかもしれない。
「でも、星って綺麗だよ。図書館で見たけど、本当に綺麗だった」陽子が無邪気に言う。彼女は別の意味でお嬢様のようだ。箱には娘――いや、それ以上に純粋な心を持っている。
「星ねぇ。私、あんまり興味ないかも」ふうかが冗談めいて言う。
「え?嘘。私好きだよ」陽子が驚く。
「お昼に五平餅食べれるんでしょ。私は星よりもそれがいいかな。後、夜みんなでトランプしながら話すのが楽しみ」
「てか、女子は何喋るんだ?」雄二が見渡すように聞いた。その中に僕は含まれていない。
「そりゃ、内緒だよ」りかちゃんがあっさり答えた。
「うん。内緒内緒」ふうかが茶化すように言う。「雄二そう言うの気になるんだー」
「気になるんだー」陽子が被せた。
「そりゃ気になるさ。やっぱあれか?恋バナ?」雄二は前のめりになって訊く。
「内緒だよ」りかちゃんが最初に言った。彼女は微笑んでいるが、どこか凄味があった。
「ふぅん…口がお堅いこと。あ、てかふうか、野外活動なんだから、虫なんてそこらじゅうに居るだろ?お前大丈夫なのか」雄二が茶化すように話題を変える。
「でも山の方が虫多いでしょ」ふうかが強気な口調で答える。
「えー、そう?私は別に大丈夫かなぁ」陽子が空を見上げて言った。「でも、カサカサってのはダメかも。身震いしちゃう」彼女は震える演技をした。
「怖いの苦手?意外」ふうかが微笑んだ。
「苦手。お化けとか無理なんだ私」
「でも、部屋一緒でしょ。安心して」ふうかが陽子越しに僕たちの方を見る。「ね、りかちゃんもいるし」
「うん。そうだね」りかちゃんが淡々と答える。
「ともむはお化けなんか怖くないよな?」彼の顔が僕に向いた。彼はからかう顔を向けている。
「怖くないよ。僕、昔からそう言うのは得意だから」これは本当だ。昔から幽霊と言うものを信じていない。見たことがないから。
「本当?」りかちゃんが僕の方を向く。そこには輝かしい笑みがあった。
「ほんとだって」僕は照れながら答える。
数秒間、お互いを見つめあう。
「とか言って、本当は怖がりなんじゃねーの?」雄二の大きな声がシャボン玉が弾けたみたいなインパクトを与えた。
僕らは一斉に、雄二の方を見る。彼はにやにやしながら僕たちを見ていた。
「本当だから」僕はムキになって答える。「そう言う雄二はどうなの?お化けとか信じるの?」
「いるんじゃねーの。なぁ?」雄二がみんなの顔を見渡した。
「私は信じないから大丈夫」ふうかがハッキリと言った。
「え、嘘。いるよ。私お化け私見たことあるもん」陽子が過敏に反応した。
「え、マジ。何処で見た?」雄二が好奇心に任せた声を出す。
「…小さいころだよ。廊下を歩いてたら、ふふふって、声が…」陽子の声がだんだんと小さくなる。
「あ、それなら私も経験してるよ」りかちゃんが元気な声を出す。「それ、空耳ってお母さんに言われた。良くあることだって」
「え?そうなの?」陽子がぽかんとなる。
「知らんよ。俺は無いな」雄二が言う。「お化けかもな、それ」
「ううぅ。やっぱい怖いよ。引っ越ししたい」陽子が呟いた。
喉が渇いた。僕はベンチの隅に置いてあるペットボトルを掴む。暑さにやられたのか、生ぬるいそれは、もう残りがわずかしか無かった。僕は一気に飲み干すと、ポケットの中の小銭を意識しながら、席を立った。
「ちょっとジュース買ってくる」
「おう」
「りょうかーい」
雄二とふうかが返事をした。すると、あ、私も、と言ってりかちゃんが一泊遅れて立ち上がった。僕は歩こうとした足を、慌てて止める。りかちゃんは足を早めて自転車に辿り着き、籠の中に入れたハンドバッグを弄り始めていた。ふうかと雄二の暖かい視線が、僕の方に向けられる。分かりやすくにやついた顔だった。僕は彼らの意図を理解し、顔が赤くなりそになった。不自然に体温が上がる。今すぐにでも逃げ出したいと思った時、お待たせ、とりかちゃんが僕の方に走ってきた。彼女は右手には丸いポーチを握っている。僕は近づくりかちゃんを見て、息を吐くのも忘れてとっさに声を出した。
「あ、うん。それじゃあ行こう」
砂利の道を僕たちは並んで歩いていく。公園から道路までの道のりが酷く長く感じられた。進むたびに後ろからの雄二たちの視線が気になったし、公園と言う箱の中が窮屈に思えた。僕は歩きながら意味もなく右手を小銭が入っている右ポケットに入れ、左手を造作なく前にぶら下げていた。無意識的な行為であったが、僕はそれを辞めることが出来なかった。りかちゃんと二人きりなど一年ぶりもいいところで、僕の頭は熱中症に近い症状を作り出していて、行動の処理がままならなかった。つまり、意識が散漫としてマルチタスクをしようとしてことごとく失敗しているような状態だったのだ。そんな僕に対し、りかちゃんがは僕の隣でにこにこと笑みを浮かべながら歩いている。時折、熱いね、と軽口を叩いてポケットからピンク色のハンカチを取り出して額をぬぐっている。緊張しているのは僕だけだった。当然、りかちゃんにしてみれば、水分を補給するのにいい機会だったから僕の同行に参道したというだけだろう。
数メートル公園の砂利を歩くと、横道の道路に出た。夏の暑さがアスファルトを照らすように、僕らを熱し始める。地面の固さが変わっただけで、僕は不思議と安堵した。それは公園と言う場所から離れたからだろう。自動販売機は二つ路地を曲がった場所にあった。三十階建てのマンションの目の前。道のりはまだある。
少しの沈黙。
「あのさ」
道を一つ曲がった時、りかちゃんが口を開いた。僕は足の進みを少し緩め、顔を横に向ける。りかちゃんの褐色に近い肌が汗の水滴で驚くほど美しく火照っていた。僕は息を飲む。道幅が狭いせいで、僕らの距離は近くにあった。
「ん?どうしたの?」
そう答えた僕の声は、思ったほど緊張で震えては居なかった。ただ、頭の中はやはり熱中症に近い症状を訴えていた。
「あの、馬鹿にしないで欲しいんだけど…」
りかちゃんの頬が、少しだけ赤く色気を出している。上目遣いになり、何かに媚びるよな、少女特有の構いたくなる可愛さを醸し出していた。何だろう。僕は彼女の言おうとする問いを考えながら、その思考が回っていないことを自覚する。りかちゃんの後ろに、赤い背の低い自動車が見えた。僕らは足を止めていた。
「二年生の夏に、ともむに貰った…その魔法の杖って、覚えてる?」
「え?」
僕は猛スピードで記憶を辿る。そんなものあっただろうか。二年生と言えば、まだ僕とりかちゃんが彼女の家でおままごとをして遊んでいた時期。でも、夏?何かあったっけ?学校のプールの中を青い空の下で泳いだ記憶が出てきた。でも、違う。たぶんそれは今年の記憶。鮮明な記憶が上手く思い出せない。僕は記憶力が悪いらしい。気が付くと、りかちゃんが不安げに僕を見つめていた。僕の頭皮からじわじわと汗が湧き出てくるのが意識される。
「ごめん。分からない」
とっさに出たセリフだった。すぐに僕は後悔する。
「あっ…うん。いいよ。そうだよね、ごめんね。そっかぁ」
りかちゃんの言葉が陰る。僕は、とてつもなく、ダメなことをしたと思った。
「…いや。僕が忘れてるだけだから。たぶんりかちゃんの記憶が正しいよ。杖…どんな杖だっけ?」
「…魔法少女が使うような杖、だよ」
りかちゃんはどこか恥ずかしそうにそう言った。
「魔法少女?あの、プリキュアとかそう言うの?」
意外だった。彼女に、プリキュアとかそう言うのを見る習慣は無い。家が、アニメを禁じている。
「うん。そうなの…その、その杖のことで、ともむに相談したくて…」
「え?」
「今度、私の家に来てくれない?見せるから。たぶんそれで思い出してくれると思う」
「あ、うん」僕は唖然となって生返事をした。それからようやく、誘いの嬉しさが込みあがって来る。「楽しみにしてる。いつがいいかな?」
「すぐ。明日にでも」りかちゃんは間を置かずにそう言った。
明日は、日曜日で休日だった。来週の水曜日から僕たちの野外活動は始まる。
「分かった。午後?」もちろん、休日に予定はない。
「うん。一時くらいに来て。場所は分かるよね?」
知っている。三年生の時、彼女が引っ越してから一緒に登校することも、遊ぶことも無くなったけど、家は教えてもらっていた。
「大丈夫。ちゃんと覚えてるよ」
「良かったぁ。本当、ありがとう」
りかちゃんは今日一番の笑みを浮かべた。僕は不思議と動悸が激しくなって、少しハイになっていた。
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