第2話

 土曜日の朝。つまり今朝のことである。僕は雄二と午前から遊ぶ約束をしていたので、その日はいつもよりも早めに起きていた。だから、身支度を済ませてしまうと、雄二と遊ぶ十時までにおよそ三時間も空きが出来てしまって、僕は特にやることがなく、暇つぶしに最初は漫画を描いていた。夢の中でふと、何かを掴みかけた気がしたから、それを漫画で表現しようと気まぐれを起こしたのだ。しかし、これが上手くいかない。僕の記憶の中には、何やら宇宙に浮く星から落っこちた僕が、落ちた地面で何かを見つけ喜んで、それがすごく仲の良い人の為になるアイテム――と言う曖昧なことしか保存されておらず、後は夢の余韻を頼りに想像していくしかないのだった。


 必死こいてそのアイテムを思いついても全てがその夢の持つ雰囲気に今の自分が合わせたような気がしてならない。だから僕は悶々と三十分は椅子に座り考え込んでいた。そんな時、りかちゃんから電話があった。珍しいことだった。りかちゃんとは幼馴染だったけど、仲良く遊んでいたのは小学三年のころまで、四年のころクラスが別れると、それっきしになっていたのだ。けれど、今年はクラスが同じになり、野外活動の班が一緒になったため、多少話す縁が出来た。その時のりかちゃんの印象は、活発になったな、と言う感じだった。昔の少し鬱々とした暗い雰囲気が消えていたから、そのギャップがまた、僕の恋心に火をつけた。だが、所詮それだけで、昔のようにおままごとやプールへ行くなどはしないだろうと、漠然と思っていた。だから、この電話を受けた時、僕は心臓が張り裂けんほど喜んでいた。

 僕らは携帯電話を持っていないから、当然電話は置き電話である。僕は母の声に従い一階に行き、すぐに受話器を取った。

『えっと、変わりました、ともむです』

 少しの間、耳に不愉快な雑音にも似た機械音が流れる。その数秒は僕の精神を逆なでするようで、ドキドキが止まらなかった。

『あ、ともむ?』

 出た声はやはりアニメ声で、思ったよりも平然としていた。

『あ、うん。そうだよ。それで、どうしたの?』

『うん。今日ね、九時ぐらいからふうかと陽子を誘って図書館に行くんだけど、ともむも来ない?』

『え…』

 意外な申し出だった。僕はともかく、りかちゃんから誘いがあるなんて…。

『せっかくだから野外活動の班みんなを集めようと思ってね。急だけどさ。どうかな?』

『雄二は?』

『まだ誘ってないから分かんない。私雄二君の家電知らないから。ともむからお願いできる?』

『あ、あのさ。実は今日、午前から雄二と遊ぶ予定があって…』

『あ…そうだったんだ。それじゃあ無理かな…』りかちゃんの声が、急に沈む。

『あ、いや。でも、聞いてみるよ。雄二が行く気になったら僕も行くから』

『いいの?』

『うん』

『ありがとう』

『うん。また連絡するよ』

『お願いね』

 電話が切れる。喉が乾いていた。心臓の鼓動が急に冷めたように落ち着いている。蝉の鳴き声と、窓から刺す陽光が急に感じられ、僕は夏を思い出した。受話器を置くと、居間でテレビを見ていたお母さんが、りかちゃん元気そう?と僕に聞いた。僕はうん、と答えると、すぐにキッチンに入り、冷蔵庫の表面に張ってある電話番号を確認した。紙にはりかちゃんと雄二君の電話番号だけが書かれていた。他にも調べれば分かるだろうが、この二人しか僕に必要な電話番号は無かったのだ。僕は雄二君の電話番号を確認して、受話器を取り、ボタンを押す。数秒の雑音に似た緊張感を伴う厭な音を聞くと、はい、と他人行儀な声がした。すぐに分かった。大人の声だ。たぶん、ともむのお父さん。

『あ、あの、雄二君の友達のともむです』

『ああ、ともむ君か。あのバカと遊んでくれていつもありがとね。雄二の奴呼んでくるからちょっと待ってな』

 ツ――、と音にひびが入る。しばらく待つと、よう、と陽気な声がした。僕は彼の姿を想像し、また、暑さを思い出した。

『で、何の用だともむ。まさか遊べなくなったなんて言わねーよな』

『え』

 急に怒ったような声で話すので、僕は委縮してしまう。

『ち、違うよ。あのね、さっきりかちゃ――りかから連絡があって、午前中図書館に行くから、せっかくだし班のみんなで集まろうって』

『へぇー、図書館ねぇ。そりゃまたどうして?何かするのか?』

 雄二が少しだけ声を尖らせた。やっぱり苛苛しているのかもしれない。

『それは訊いてない。ごめん。でも、何かするんだと思うよ』

『野外活動っても調べるもんなんてねーだろ。まさか勉強するんじゃねーよな。俺はな、今おやじから勉強させられてんだよ。後二時間半。俺とお前が遊ぶ時間になるまでずぅーっと勉強させられるんだ。だから俺は図書館なんてぜってー行かねーからな。あと、ともむ。お前は俺と遊べ。出なきゃ俺は、一日中勉強尽くしだ。マジで図書館に行くな』

『分かったよ。りかちゃんには断っておくから…えっと、頑張って』

『ああ。そう言うことだから頼んだぜ』

 プツン、と電話が切れる。僕はやはりその時になって暑さを思い出す。喉の渇きが忘れていたように実感が湧いてくる。けど、実際は喉など乾いてはいない。受話器を置いて、一度居間の方を見る。お母さんはテレビに見入っていて、僕の電話にもう気を配ってはいない。一呼吸置いて、もう一度受話器を取る。これから僕は、りかちゃんに行けないと連絡をしなくちゃならない。少しだけ、心が不安に襲われる。

 番号を押すと、三コールでりかちゃんが出た。

『はい。ともむ?』

『あ、りかちゃん。あの、ごめん。行けないって。雄二君が、勉強は厭だって』

 沈黙。

『うん…そっかぁ。…うん。仕方ないね。急な誘いだったし』

 りかちゃんの寂しい声が数秒遅れて僕の耳に届いた。僕はその声に、何故か焦る。

『あ、でも』

 言いながら、僕は必死に繋ぐセリフを考える。

『午後もサッカーするから。西園公園ってとこで。その時来てもらえれば、うん』

 言いながら思う。りかちゃんはサッカーなんてしないだろうに、なんで僕はサッカーに誘ってるんだろう。

『午後ね…分かった。みんなに聞いてみる。行くんだったら、一時には行くから』

 強い意志の籠った声だった。僕は少しぼうっとしていたから、ハッとなる。

『あ、うん。分かった。雄二にも伝えとくね』

『うん。それじゃあ、ありがとね…あ、あと…』

『ん?』

『え、あ…ううん。何でもない。それじゃね。バイバイ』

『バイバ…』

 通話が切れた。冷たい印象が、僕の耳に厭に残る。そしてまた、僕は喉の渇きと夏の暑さを思い出した。時計を見ると、五分ほど進んでいた。経った五分しか経っていないことに、僕は不思議な気分になった。

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