僕とりかちゃん

一色雅美

第1話 

 夏の太陽が僕の黒髪を必要以上に熱していた。蹴るボールにも力が入らず、喉が渇きを訴えている。僕は夏の陽炎にしぼみそうになる瞼を上げながら、数メートル先でボールを左足で巧みに止めた雄二に言った。

「少し休まない」

 僕の大きな声が、空に反響する。もうそろそろお昼のはずだ。

「ああ、いいよ」

 雄二は足元から顔を上げると、あっけなくそう言い、汗で巧妙に光る美形を屈託なく歪ませた。僕は上がった心拍数を呼吸で整えながら、頷く。ブランコの隣にあるベンチに戻ろうとすると、後ろから雄二が大きな声で言った。

「お昼だな」

 振り返ると、雄二が歩きながら遠くに見える公衆トイレに掛けられた時計を見ていた。

「だね」

 言いながら、僕は彼が放つ色気に少しだけ見惚れていた。有郷雄二。小学五年生にしてはやや高い身長で、百五十五センチ。サッカーで焦げた肌色と、外人のような凛々しい美形の顔のおかげで女子からの人気が高かった。だが、勉強はからっきしダメで、僕はよく彼のお世話係として勉強の面倒を見ていた。それでも、幾ら頭が悪くとも、彼は人格が良いし、運動が出来るし、何よりかっこいい存在だからやはり人気がある。僕の永遠のライバルであり、永遠に勝てないと思ってしまう相手。今だって、僕が最初に音を上げたようなもので、彼は汗こそ掻いているが、その顔は余裕に満ちていた。

――なんだか悔しいな。

 僕なんかは熱中症になりそうな程頭がギンギンと痛いし、喉が水分を欲してカラカラに乾いて体調がもうすっかり不調と化している。僕は急ぎ足で木陰にあるベンチに戻り、荒い呼吸の中ショルダーバッグの隣に置いた真新しいスポーツドリンクを手に取った。数刻前に昼飯と共にコンビニで買ったばかりの物で、ひんやりとしたボトルは僕の肌を貫く程冷えている。キャップを急いで開け、ドリンクを一気に半分まで飲んだ。冷たい液体が身体の芯を通り、一斉に幸福がやってくる。目を開けると、僕の頭上から暖かな木漏れ日がわずかに堕ちていた。


「腹減ったわ。ともむ、お前何買ったっけ?」


 僕の隣から雄二が訊いた。見ると、彼も自前で用意した青色の大きなスポーツボトルで喉を潤している。僕はペットボトルを口から外し、キャップを閉めながら答える。

「塩結びを三つ」

「三つとも塩か?」

「そうだよ」

「俺は唐揚げ弁当」

 僕はベンチにスポーツドリンクを置き、ショルダーバッグの中からセブンのおにぎりが入った袋を取り出す。その袋の中からまた一つを取り、慎重に汚れた手に米や海苔がつかないようにパッケージをはがしていく。そうしていると、雄二は灰色で英文字が記された洒落たリュックから、唐揚げ弁当を取り出した。


「やべー、これぜってーうめーやつ」


 雄二は唐揚げ弁当を膝の上に乗せると、包容された割り箸を弄りながらそう言った。確かに雄二の唐揚げ弁当は上手そうだった。弁当には色があり、量も多彩だ。僕が今手に持っている真っ白な米などちっぽけに見えてしまう。まるで何か足りないような錯覚が僕を襲う。だが、塩結びも一口食べてしまえば、口の中でとろけるような米の甘さが広がり早々に満足感を得られた。

「お前さ、サッカー部もう入んないの?」

 雄二が弁当を蓋を開けながら言った。僕は一度だけ雄二を見、すぐに誰も居ない寂れた公園に視線を向ける。青い砂利が太陽の熱で歪んで見えた。フェンスの向こう、すぐ目の前の脇道にも今は誰も通っていない。その向かい側に白い車が停めてある民家がある。その家も、電気がついているか怪しかった。

 やはり、廃れていると言うより、寂れているのだと思う。土曜日の午後だというのに誰も居ないのは少し寂しかった。

「やだよ。みんな強いじゃん。僕なんかが入ったって、早々コケにされるだけだし」

「んなこと言わずによ。入ってみねーと分かんねーだろ」

「いいよ、卓球部の方が。体育館だから、グラウンドに出ないしさ」

「でもお前、今外で遊んでるじゃねーか」

「いつも外ってのは厭なの。サッカーは普通に好きだし」

「当り前よ。学校でも放課中にサッカーしてるだろ」

「最近はあいにくドッジだよ。でも、気分次第かな」

「あれ、そうだっけ?」

「雄二は記憶力悪いよな。だから勉強出来ないんだよ」

「んなことねーよ。確かに物忘れは酷いけどな、ちゃんと覚えなきゃいけないことは覚えてるもんだぜ」

「例えば?」

「例えば、俺は家族全員の誕生日は覚えてる。もちろんお前も、りかのもな」

「え、なんでりかのも覚えてんの?」僕は焦る。

 厭な耳鳴りがした。心臓の鼓動が五月蠅くなる。厭な冷や汗が背筋を凍らせるように上から下に辿って行く。身体が芯から冷えていく。

「あ?だってりかの誕生日は覚えやすいだろ。一月一日」雄二は思いのほかあっけらかんとそう言った。すると、耳鳴りがゆっくりと治まりだす。

「ああ…うん。そうだね…そう言えば、そうだった」

 僕は、ほっと息を吐く。体が熱さを取り戻した。

 そうだ、雄二がりかちゃんを狙っているわけがない。雄二サッカーばかりで女の子に興味なさそうだし。うん、りかちゃんとも今年初めて同じクラスになったって言ってたから、大丈夫のはず。

 僕が心の中で呪文を唱えていると、雄二の声がずれた音のように耳に届いた。

「お前、りかと幼馴染なんだろ。お前のおかげで、今日りかと遊ぶ約束になったんだし。だから知った方がいいと思ってな。ともむの友人として……」

 雄二はそこで、言葉を止め、長考に入った。彼はまるでダビデ像のように動かない。厭な予感がする。しばらくして、「あ、そっか」と、雄二が何かに気づいたようにつぶやいた。それと同時に、好奇心に満ちた顔が、ゆっくりと僕の方に向く。

「もしかして、ともむ。お前りかのことが――」

 ああああぁぁぁ。

「ん、んんな訳ねーじゃん!」僕は急いで彼の言葉を遮った。

「その反応…なあ、当たってんだろ。なんだ、それなら早く言えよ」雄二は呆れたような、達観したような声を出す。

「は?別にそう言うんじゃないし」僕は勢いでそっぽを向く。そのままうつむいた。急に静かになる。陰になった砂利が黒く見える。熱にやられたのか、頭痛がした。口が乾燥している。思考がどこか浮遊して、俯瞰して僕を眺めているようだった。

「ふっ、バレバレだわ」

 雄二の声が静かな公園に唐突に響く。僕はハッとなり、顔を上げた。雄二の方を向くと、彼はなんとも優しい表情をして僕を見つめていた。

「まあ、りかちゃんには内緒にしてやるよ。告白は自分でしろ」

「うっせえよ」

 僕は照れながら答える。

 とたん、静かになった。耳をすませば、木漏れ日を落とす寿樹からは蝉の鳴き声が聞こえてくる。田畑が近いから微かにカエルの鳴き声が聞こえるが、車の音はしない。田舎だ。僕はおにぎりを三口食べ、スポーツドリンクで喉を潤した後、意味もなく食べる手を止め、静かな世界に見惚れていた。よくわからないが、たぶん、悩みの種が一つ消えたことが僕にそのような錯覚を思わせているのだろう。僕の今の心の状態はまさに、静、だった。放心とも言える。

 しかし、それは経った数秒のことで、まるで港に津波が押し寄せるような勢いで僕は夏の暑さと、風の冷たさと、自身の呼吸音を思い出した。同時に、雄二の声が残り香のように耳に入る。

「――ないか?」

「え?」

「あ?」

 目が合う。

「ごめん、聞いてなかった」

「ああ?んじゃあもう一回言うぞ。あの漫画、続きまだか?」

「え…ああ、漫画か。まんが…あれ、完結するかなぁ」

 あの漫画とは、僕が現在制作している『主人公が魔法の杖で人々の願いをかなえていく』と言うお助け漫画のことで、描いている僕もいつ終わるのかが分から無いほど長い作品だ。それは題名は無く、ただノートの表紙に漫画と書かれているだけのものだ。現在は合計六冊作ってある。雄二は僕の漫画の唯一の読者で、僕は誰にも見せるつもりは無かったのだが、雄二が僕の家に来た時にうっかり見られ、それ以降彼は僕の漫画のファンになったのだと言っていた。

 だが、僕は残念ながら漫画を描くことに対する熱意はそうないから、完成を期待されても困ってしまう。漫画家の叔父の影響で描き始め、それが習慣かしたというだけであって、特に思い入れもない。何か思いついたら描くけれど、思いつかなかったら描くことは一切ない。素直にゲームの方が楽しいのだ。過去に数か月放置とかも平然としている。それくらい僕のやる気は無いものだから、雄二に幾らねだられても作る気にはならない。だから僕は今雄二にもうネタは無いと言っているのだが、それでも出せ出せとせがまれているのだった。


「いつだよ。もう俺が指定した締め切り過ぎてんぞ。」


「締め切りなんてプロの話でしょ。まだ小学生だし。僕はお金を貰ってないから、締め切りなんて守らなくていいの」

 ここは譲れない。だが、多少の罪悪感から僕の口調は脛ているそれになってしまう。

「はぁ。せっかく読者が居るってのに、漫画家さんは漫画を描かねーのかよ」

「だから、僕は漫画家になるつもりはないよ。陰気臭い」

 こういうと、雄二は厭な顔をする。だが、僕も意地を張っているため、雄二の嫌う言葉を選ぶしかない。

「あのなぁ。漫画家だってすごいんだぞ。それくらい分かるだろ?」

「でも。僕はプロじゃない」

「じゃあ、こうしよう。来週の野外活動、あるだろ?そこで確か、カレーを作るはずだ。確かともむは野菜を切る係だったよな?お前料理下手だろ。あれ、俺が代わりにしてやる。後、お前の嫌いなシイタケが食事に出たら俺が食ってやる」

「え」

「ただし、お前が漫画の続きを持ってきたらの話だ」

 どうだ?と言う視線が僕に向けられる。僕は内心喜んで引き受けたい内容だった。なぜなら、まだ雄二に渡している漫画の在庫は後二冊分も残っているのだ。雄二には四冊目で最後だと言ってあるが、僕はまだ雄二に渡せる分を残している。

「よし、引き受けた」

 僕は勢いよくそう言った。すると、雄二は驚きの顔をし、そしてすぐに何か疑り深い目で僕を見た。

「な、なんだよ」

「いやぁ。お前何か企んでるだろ」

 じぃ~~と鋭い視線が僕に刺さる。僕は目を閉じたいのを我慢して、犯罪者が刑事に問いただされている気分でじっと彼の視線に堪える。

「はぁ、まあいい。お前顔に出やすいタイプだから気をつけろよ」

「あ、うん」

 昼飯を食べ終えると、今度は動く気分ではなくなりだべッと僕ら二人は夏のぬるい風に身を任せることにした。良い風とは言えないが、空腹を埋めた後の身体の重みと運動後のだるさ、静かな世界が相まって、ゆったりすることは出来た。


「あっ」


 ぼうっとしていると、目の前の脇道から少女たちが三つのママチャリを引いて入って来るのが見えた。向こうはこちらに気づき、手を降っている。

「意外だな。来ないと思ってたのに」

 雄二がふと呟いた。彼女たちは事前に来れるかもしれない、とだけ言っていたのだ。

「僕も。来ないと思ってた」

 女子たちはサッカーに興味がないだろう。そう言う印象が僕にはあったのだ。そうしている間にも、少女たちはどんどんと僕らに近づいてくる。

「お待たせ~」

 先頭を進む日に焼けた少女が、僕らに笑顔を振り撒きながら甘ったるいアニメ声でそう言った。りかちゃんだった。僕が彼女たちの登場に固まっていると、雄二が横で手を振り立ち上がった。ハッとし、僕もすぐに立ち上がり、雄二を抜いてりかちゃんに駆け寄る。三人はブランコとベンチの間に自転車を止めた。

「意外と早かったね」

 図書館帰りだと訊いていたから、もっと遅くなると思っていた。

「え?ほんと?」

 りかちゃんは不思議な顔をし、右手首に巻いたピンク色の細い腕時計を見る。

「あーやっぱり、一時五分。ちょっと遅れてるよ」

「五分くら遅刻じゃねーよ」

 声に振り向くと、雄二が僕の数歩後ろにいた。木陰がまだ伸びているギリギリの場所に彼は立っている。

「あ、雄二君」りかちゃんが言った。

「おお、サッカー小僧いたんだ」

「雄二じゃん、宿題終わった?」

 続けて後ろから追加攻撃のように、女子の声が耳を通過する。ふうかと陽子だった。彼女たちはりかちゃんの付き添いで来たようなもので、普段遊んでいないから僕はドキリとしてしまう。

「問題ねーよ」

 雄二が笑みを浮かべて答える。だが、その笑みは僕に向けているように思えてならなかった。僕は雄二に微笑みを返し、ゆっくりと首を前に戻す。それからペットボトルのお茶を飲んでいる肌白のふうかに焦点を当てる。


「そういや、ふうかってサッカー出来るの?」


 僕は素直に訊いてみた。後の二人はともかく、僕の記憶では、ふうかはスポーツをすると言う印象は無かった。

「んー、ちょっとなら出来るかなぁ」

 ふうかはペットボトルを自転車の銀色の籠に放ると、思案顔でそう答えた。彼女はそれから麦わら帽子を頭の上から取り、扇子代わりにして仰ぎ始める。彼女は特別内気ではないが、かといってスポーツを自主的にするわけでもない少女だった。何に興味があるのかいまいちよくわからないから、僕は彼女相手はやりにくい。僕が黙っていると、タオルで額の汗を拭きながら、陽子が目を輝かせてこう言った。

「ともむ君ってサッカー上手いの?」

 幼さが残る透き通るような純粋な声だった。太陽の日差しがいっそう強くなった気がする。それくらい効力を持っていた。陽子のやや茶色に近いポニーテールが、微風になぞられふわりと揺れる。彼女の顔全てが僕に向いていた。輝かしい顔とその自信に、僕は卑屈になる。

「いや。そこまで上手くないけど」

 僕は目線を逸らしたいのを根気で我慢する。陽子は陸上部のエースで、確実に僕よりサッカーが上手い娘である。彼女は体育で行うスポーツ全般で能動的に活躍している優等生なのだ。だが、成績は悪い。けれど、クラスでは女子は陽子、男子は雄二と頭文字が偶然にも『ゆう』の二人がそれぞれのトップ・リーダーとされているから、人望がある。たぶん、その純粋さが人を寄せつけるのだろう。雄二が懐の深い人格者ならば、陽子は純粋な理想形である。りかちゃんは陽子と同じ陸上部で、彼女も陽子と同じくらいスポーツは得意な方だ。だが、りかちゃんは陽子とは違い勉強ができ、雰囲気に品があり陽子が持つ獣のそれではない。りかちゃんはまさに文武両道を成し遂げた娘だった。そういうところも、僕がりかちゃんを好きな理由なのかもしれない。

「雄二君は?」

 陽子はついで、と言うように(しかし輝かしい瞳と軽蔑のない純粋な声で)僕の肩越しに雄二に問うた。

「あ?俺はサッカー出来るぜ。当たり前だ。それよりお前ら、飯は食っていたよな?」

「うん。ちゃんと食べてきたよ」

 代表してりかちゃんが冷静に答えた。彼女は自転車の籠の中から鍔の付いた帽子取り出し、被る。そうなるともう野球少年にしか見えなくなる。鍔の陰に隠れ、小顔で鋭い視線が少年を思わせるのだ。

 雄二が僕の隣に着て、宣言する。

「よし、じゃあチームわけだ。五人だから、一人キーパーで、二対二。なんか文句あるやついるか?」

 その言葉に全員が賛成を示し、僕らは誰も居ない静かな公園でサッカーを再開した。

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