蜜蜂とキス

眞魚エナ

蜜蜂とキス

 間接キス、みたいな。

 高校生にもなって、そんなことを意識してしまう自分が少し恥ずかしくもある。

 ただ、そんなことが今の片想いのきっかけでもあるので、子供っぽいと冷笑に付すのも抵抗があるのだ。

 休憩時間の教室でいつも自分の席に座っているのは、別に友達がいないとかでもなく。ここで座っていれば時々得られる横顔があっただけ。


 私の前の席。背が高くて爽やかな男子だった。角ばった眼鏡の奥に柔和なほそい瞳が覗いていて、人のいい性格が見ているだけでも伝わってきた。休憩に入ると彼は自分の席で友達と談笑していることが多くて、陽気ながら品のある話し方をする人だと傍目にも知れた。

 有り体に言えば、好印象な人物だった。でしかなかった、のだけれど。

 きっかけといえば、愛飲していたミルクティーのペットボトルをたまたま机の端に置いていて、彼も自分の飲み物を机に置いていて。体を横に向けて隣の席の友人と話していた彼は、夢中になっていたのか、間違えて私のミルクティーを手に取って、口に含んでしまった。たぶん、利き腕の側にあったから、つい。

 すぐに気づいた彼は友人にからかわれながらも平謝りに謝った。「いいよ、気にしないから」と、私は手を振って愛想笑いを返した。思えばこれが初めての彼との会話だった。

 そのまま事は収まって、べつに飲み物を捨てたりもしなかったけれど。

 けれど、飲み干すのにはずいぶん苦労した。

 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、口をつける度に、いちいち、意識する羽目になって。


 小学生みたいで呆れてしまうけれど、これが私のきっかけ。

 けれど彼と私の間にそれ以上の接点はなく、片想いに終わるであろうことはわかっていた。

 まぁ、そんな良い感じの人だから、放っておけば彼女くらい、できるのだ。

 彼と友人の会話から、私はあっさりと失恋したことを知った。

 ため息をひとつ。それで終わり。

 べつに。報われるつもりなんか、なかったのだ。



 とある昼休み、ミルクティーを買いに自販機に向かっていると、偶然彼の後ろ姿を見つけて。隣には彼の手を引くきれいな髪の女子生徒がいた。

 その正体など推測するまでもなく。

 よせばいいのに、追いかけてしまって。

 そして、人目につかない校舎の陰で、ふたりが顔を寄せ合い、青春っぽいことをしているところを、目撃した。

 わかっていた。わかっていたことだ。

 私は踵を返して、教室に戻った。

 望むべくもない。私には間接キス程度で十分だ。

 だというのに、舌を刺す果実の酸味のように、この胸が軋むような感覚があった。

「片想いって、つらいね」

 そんなふうに独りごちた。



 そしてその日の放課後、

 目を瞑って、背中に周った腕と、未だに緊張した唇の感触をたしかめる。

 ――ここはさっきの、校舎の陰。

 彼と彼女がキスをしていたあの場所で、今は私と彼が口づけている。

 けれどそれは瞼の裏の出来事で、本当は誰もいない空き教室。差し込むのは魔性を思わせるあかい夕焼け。

 去来するのは高揚ではなく倦怠感だった。

 重なった唇に伝う雫があった。

 不快さに私は唇を離して、冷めた視線をくれてやる。

「片想いってつらいね」

「……最ッ低」

 傷心の色を擦りつけるように手の甲で涙を拭い、はそう吐き捨てた。

 私が欲する彼の痕跡を、彼女はみつばちみたいに運んでくる。



 私と彼女が日直の日があった。たまたま放課後の仕事が長引いて、私たち二人だけで教室に居残っていた。この日も夕焼け空の日で、私は日誌を書いて、彼女は黒板消しの汚れを落としていた。

 彼女が彼と付き合っていることはすでに知っていたけど、特段気まずさもなかった。会話がないわけではないけど、話題もない。それが元来私たちの関係のはずだった。

「わたしの彼氏のこと、好きなんでしょう」

 驚いたというよりは、わけがわからなくて、不愉快だった。彼への感情は誰にも伝えてなどいなかった。

 どうして、と問うと、見てればわかる、と返される。

「報われるつもりなんかなかった。けど腹が立ってさ。取り上げてやりたくって」

 自分の手にナイフを突き立てるような、悲痛な笑みを浮かべて、彼女は声を荒げた。

 取ったりしないよ、と口にする暇もなく、それは違うのだとわかった。

「知ってる? 女の子とキスするより、男の子とキスする方が、ずっと簡単」

 それはまるで、自らの足で絞首台に向かう死刑囚のような、告白だった。

 ――心に。

 どろどろで真っ黒な廃液が降りていくのを感じた。

 そんなことで、彼の想いを、弄んでいるのか。

 私は静かに言った。

「私ね。間接キスがきっかけで彼のこと好きになったんだよ。子供みたいでしょ」

 少し背の高い彼女を睨みつけ、その唇を噛みつくように奪う。

 抵抗はわずかだった。

 ひどく熱かった。

 それはもうきっと、彼の体温ではなかったはずなのに。

 壊れた人形のような顔をしている彼女に、吐き捨てるように告げた。

「かんたんだよ。私に間接キスさせてくれればいいんだよ」

 それは心からの欲望だったのか、ただ彼女を傷つけるためだけに握った諸刃の刃だったのか。今となっては、わからない。



 ――そうして、歪んだ蜜月を過ごす。

 こんなこと、長くは続かないとわかっていた。

 彼は彼女に騙され、彼女は私に魂を陵辱され、私はしょせん彼女の唇しか知らない。

 誰の恋も叶わない、不毛な三角関係。

 いつか彼は彼女に「それ以上」を求めるだろう。その時彼女は、それでも私を求めて、彼を受け入れるのだろうか。

「さぞ滑稽でしょうね」

 彼女は乱暴に涙を拭い冷笑した。

「好きな人にキスしてもらえるくらいで、必死で言うこと聞いて。バカみたい」

「まさか」

 私も鼻で笑った。

「間接キスなんかで浮かれてる方が、よっぽど惨めだと思うけど」

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