地獄道 イブキ

山城渉

 苔むして、広がって。芽吹いて、広がって。

 湯気を浴びながら、しみじみと浸る。

わか

 向こうからしたのは、世話役の声。

「沐浴も過ぎるとお体に障る」

 聴きながら青年は鼻歌を続けた。

わかってば」

 種を放って、広がって。根ついて、広がって。

 温い湿度にじわりと心も満たされる。春と同じ。

「へへ」

わか!」

「わあ」

 小窓から飛び込んできた世話役が、顔にびたりと貼りついた。

「どきなさいよ。びっくりしたろ、森ねずみ」

「然らばお聞きくだされ」

 青年が勢いよく顔を左右に振ると、世話役も負けじとしがみつく。

「お聞きくだされー!」

 諦めて首をますぐに戻す。

 大げさにため息をついて、青年は腰に手をやった。

「もう。せっかくの春を」

「は、春ぅ?」

 世話役は黒目をくりくりさせた。

「何を仰る。この地に四季などありませぬ」

「だからこそでしょ」

 青年の言い分がさっぱりなようで、世話役の鼻はひくついた。

 薫風に沸く屋外は、青々していて、体いっぱい吸い込んだ。

 世話役は目と鼻の先。

「土粥の用意ができてございまする」

「あっそ」

 世話役の胴をつまんだ。触り心地の良い毛皮。

 顔面から優しく剥がして、芝の上に放り投げた。

「ふんぎゃ!」

 ちょっとだけ重そうな音がした。

「そのような無体を働く方に育てた覚えはござりませぬ!」

「俺を育てたのは森ねずみじゃないし」

「なんたる冷酷!」

 青年の歩みに追いつこうと、世話役は大急ぎで四肢を回転させる。

「我輩、親父殿より直々に少の世話役を仰せつかったのですぞ!」

「……あの人」

 こちらを見ながら坊主と呼ぶニタニタ顔を思い出し、ちょっとだけ憂鬱になった。

「何考えてるか分かんないからなぁ」

「あのお人なりのお考えあってのことでしょう」

「どーでもい」

 世話役は耳の先を前後させ、青年の身体を滑るように登る。

「くすぐったいよ」

 足、腰、背中から、一気に肩口へ。

 ふんふんと忙しく呼吸する世話役が耳元で告げた。

「そういえばわか、なんぞ報せは届いておりまするか」

「んーん……仕事のならちゃんと書面で来るでしょ」

 青年の声には、一抹の人恋しさが感じられる。

 草露を裸足で踏み締めて、水玉が空気にぱんっと舞った。目配せただけで露を浮かせ、一口台にまとめる。

「あむ」

「あーっ!」

 世話役が叫んだ。

「拾い喰らいはなりませぬとあれほど!」

「……」

 答えずに、青年は肥えた土の上をゆく。

 緩い風が吹き抜けた。青年は口を開け、空気を喰んだ。

「鯉幟みたい」

「はて?」

「なんでもなーい」

 青年の深呼吸。ざわめいていた森羅が清まった。

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地獄道 イブキ 山城渉 @yamagiwa_taru

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