第3話 僕の片割れ
スリジエが異変を感じたのは、落雷があった日から三日後の夜だった。
今宵は見上げる空に月が無く、あまりにも暗く静かなことに不安の念に苛まれてなかなか寝つけないでいた。
あの日消えた手の紋は、選択を受けた全ての者にいまだ戻る兆しは無いという。そのため問題の発端となった第三王子殿下は浮気相手と共に王宮の地下牢、それも国家反逆者が置かれるところへ投獄されていた。
ふう、と無意識に息を吐く。
(……この落ち着かない気持ちはなんだろうか)
青黒い夜空を見上げながら、スリジエの心にじわじわと染みるように広がる焦慮。
(まだ三日。それとも、もう三日、か)
人間が一方的に破った誓約に関して、精霊王の怒りが落雷一つで終わるとは思えない。
そのうえ、ティユル国は接する隣国たちの動きにも注意しなければならない。東には昔ティユル国の王と対立して国を興したトロンが、西には人間より大いに強い獣人の国ベスティアが。どちらも国境沿いの小競り合いが絶えないらしいと聞いている。
もっとも、スリジエが考えることなど国を治める者たちが当たり前のように問題視しているだろうが。
スリジエは再び無音の溜息を吐く。
ここ後宮には、当然だが王宮内の慌てふためく様は一切入ってこない。落雷当日こそは後宮内の人間までも右往左往していたが、翌日には普段通りの空気に落ち着いている。ただしまた天変が起きたらと不安なのか、毎日のように喧しく中庭で催されていたお茶会は鳴りを潜めていた。
(すっかり昼間も静まって、それは過ごしやすくていいんだけれど……)
お茶会が開かれないことで妃や王女付きの者たちが後宮内を出歩く姿は少なく、ここ二日は出歩いても棘のような他人の目を感じずにいた。
しかし喜んでもいられない。何かしら、事は必ず起こるだろう。
せめて、とスリジエは目を瞑る。
(せめて僕が成年を迎え、
王子として誕生した者が後宮に居られるのは成年になる一日前までだ。それまでに王子の処遇を決められるのだが、国王から見放されているスリジエは何ら身分を与えられず放逐される可能性が高い。
国のため生きることはこの先も無いが、だからといって何か目的がある訳もない。
その好意に戸惑いつつもスリジエは感謝して、二人で後宮を出て行く準備をし始めていたのだ。
スリジエが誰彼無しへの祈りから覚め、ふと何気なく見下ろした先に黒い影が横切ったのが映った。
女であると気づいたのは被るフードの裾から覗くヒラヒラとしたレースにだ。
(こんな時に逢引か?)
スリジエがいる居室は後宮内で一番警備が手薄なところだ。だからか夜になるとときおり騎士らしき男と侍女らしき女が夜陰に紛れて逢瀬をする姿を見つけることがあった。
だが今は国の緊急事態と言えるときだ。なんて不謹慎なとスリジエが不快な気分に陥りそうになって、険しく細めた目にその姿は映り込んだ。
(あれは……っ)
スリジエの目は落雷前まで見えていたキラキラだけでなく、昔からこうした月明かりの無い夜でも人の顔がはっきりと見えた。
その目が、動きによって僅かに外れたフードから覗く咲いたばかりの花のような美しさの横顔を捉え、驚きで大きく目を瞠る。
なぜなら毎朝鏡で見る自身の顔に似ているから。
(間違いない、妹のオルキデだ)
閉じられた窓に手を付き思わず身を乗り出すようにして小走りの姿を凝視する。
例え国王の駒としてであっても箱入りに育てられた妹が、既に人々が眠りに落ちる時刻にこのような場所を一人で出歩けるはずがない。それが迷いの無い足取り。誰かの手引きかとスリジエは注意深く周囲を見やれば、夜よりも暗い空間の先にやはり深くフードを被った長身の男と思われる存在が立っていた。
スリジエが妹のオルキデと会話を交わすのは
『ごきげんよう、お兄様』
思い出すのはスリジエが七歳になった春の季節。ソールの手に引かれて連れて行かれた先は母親と妹の茶会の席。
幼少期に離ればなれになって以来の突然の接触に驚き、そして動揺して何を言えばいいか分からず口籠もるスリジエに、オルキデはたどたどしくもそう挨拶をした。
スリジエは彼女の言った『お兄様』の言葉に再び驚いた。彼女に兄と認識されていたと思ってもいなかったから。
でも、その挨拶とは裏腹に身振りは好意の
『まぁお兄様は口もきけないの?』
無邪気な口調であったが、スリジエの目は妹が兄を見下げて見ていることを捉えていた。それは黙ったままの母親も同じで、そして母親の後ろで控えていた周りの侍女たちもクスクスと笑っている。
(……僕は利用価値のない王子、という認識か)
スリジエは老宦官から手を離し、無表情で一礼した。
ソールに連れて来られたものの招かれた茶会ではなかったからさっさと退場させられたが、それからというもの、母親とはそれっきりであったがオルキデとは幾度と顔を合わせた。それは決まって妹の機嫌が悪いときで、憂さ晴らしの相手として。
妹の顔は可憐ではあったが、大人になるにつれ王女としての高慢さを隠しきれていなかった。
白く細い手が持つ扇子で打たれることはなく、スリジエはただその価値の無さを
その言葉の数々に、スリジエも最初は気分が悪くなったものの、言い続けられればそれらはオルキデが周りから言われていることなのだと気づく。
それからのスリジエは顔を合わせるたび、
(そう、婚約したという話は噂にも上がってなかったはず……)
それなのにスリジエの視線の先でフードを被った者同士が抱擁している。姿の小さい方が大きい方へ寄り添い甘えるその雰囲気は、誰が見ても思い合う恋人同士のそれだろう。
しかし王族として序列が低くとも妹は王女である。オルキデの周囲にいる者たちは置かれている立場をきちんと教育していたはずだ。
夜陰に乗じて逢引する関係など立場上許される訳がない。
(オルキデの側付きの侍女はこの愚行を知っているのか?)
スリジエは厭きれから溜息を零したそのとき、長身の男がこちらに顔を向けた。咄嗟に窓端に身を寄せ体を隠す。
室内の明かりは消してありこちらの姿ははっきりと分からないはずだ。それなのに、とそっと覗き込む。深くフードを被っている相手と視線が合った気がする。
立ち位置から見難くはなったがスリジエの目は長身の男に問われたオルキデがこちらへ顔を向けそして何かを伝えていた。
(え、ここを知らない相手?)
スリジエは目を瞠る。
オルキデの相手は後宮に勤める騎士ではないのか? いや王城にいる騎士でも認められていない王子の存在は知っているはずだ。
嫌な予感がスリジエの背筋を冷たく流れたとき、じっと見ていた目に男が歪んで笑う口元と覗く牙を見た。
人間には無いその牙に獣人だと思い当たったのと同時に、夜のしじまを切り裂くような悲鳴が遠くから次々に上がり、やがて慌てた様子のソールが部屋に滑り込んできた。
上がる悲鳴と老宦官にスリジエが気を取られていた間に、フードを被った二つの姿はそこから消えていた。
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