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 息を殺しながら階段を降りていくと、案の定そこには一人の人影が見えた。欠伸をしているあたり、一応配置されたというだけで万が一のことが起こるとは思っていないのだろう。その思考の死角だけが、唯一僕たちの持ちうるアドバンテージだった。

 無言のまま冬麻さんと目くばせをし、男へと一気に飛び掛かって持っていたスマートフォンを使って頭を思い切り殴る。特別力が強くはなくても、不意に頭に一撃を喰らえば僕たちが逃げることが出来るくらいの隙は十分に晒してくれる。

 急いで階段を降りてきた冬麻さんの手を取って、僕たちは男の横を通り抜けてデパートから抜け出す。後ろから聞こえてきた怒号は、既に逃げることを決めた僕たちに対して何の抑止力にもならなかった。

 見つからないように慎重に逃げる、という余裕はなかった。既にこのデパートの周りには目視出来る限りでもそれなりの人数の創天教の信者が居たし、タイムリミットである十二月十七日までも遠いわけじゃない。ならば、下手に隠れるよりは出来る限り逃げ続ける方がいいと判断した。

 夜を切り裂くように走る。街はどこまでも閑散としていて、走りすぎる風景の中には灯りのひとつさえろくに見えやしない。僕たち以外が存在しないように思えるのは錯覚で、きっと見えないところには創天教の人間が僕たちを逃がすまいと見張っているのだろう。

 走る。

 走る。

 走る。

 元々、僕は走るのなんて好きじゃないし得意でもない。運動不足に喫煙が重なるのであれば尚更コンディションとしてはおよそ高校生男子として考えられる中でも最悪のものだ。今まで煙草を吸うことに対してのデメリットを感じたことがなかったけれど、キリキリと痛む肺の重たさを感じると苛立ちが募る。こんなことであれば煙草なんて吸っていなければ良かった。

 それでも、走る。痛いほどに冷たかったはずの冬の空気が火照った頬を掠めるのが気持ちいい。じっとりとした纏わりつくような暑さを覚えて、コートなんて脱ぎ捨てて来れば良かったと後悔をする。

「居たぞ!」という声が後方からした。振り返る必要もない、僕たちを狙う声だ。分かり切っていたことだけれども、もう少し見つかるのは遅くても良かったんじゃないだろうかと思いながら道を曲がる。単純に逃げ続けていつまでも逃げ切れるとは思えない、見失ってくれればそれ以上のことはないのだ。

 ひと気の居ない小路に行くのは賭けだった。ここで見つかってしまえば逃げ道はないし、助けを呼んでも誰も来てくれない。最悪の結末が頭を過る。けれど、それと同時にこの道を見つからずに抜けることが出来ればそれが最善でもあった。だから、僕はその小路の方へと進む。迷いは、ない。

 若干息を整えるようにペースを落としながら狭い道を行く。伽藍としたその道には正真正銘誰も居ない。夜闇に紛れて見失ってくれていればそれがいいけれど、それは創天教の人数を踏まえて考えればあまりにも楽観的過ぎる予測だ。ここからどうして逃げればいいかを考えながら、深く息を吸い込む。肺や喉は肌ほどに火照っているわけではなくて、冬の冷気に容赦なく刺されて痛い。

 僕は一瞬冬麻さんの方を振り返った。彼女は何も言わずに僕の方を力強く見返す。それだけで十分だった。その場凌ぎの慰めも、陳腐な労いも要らない。僕たちの間にはそれだけ十分だった。

 走り始める。先は暗くて建物の、道の、街灯の輪郭が闇の中に溶けてぼやける。幸いなのは、こうして進もうとしている道が複雑であり、けれど僕には進み慣れた道だったということだろう。逡巡を挟む必要がない。常に最適解を選ぶことが出来る。

 廃れたゲームセンターを曲がったところで、人影とぶつかりそうになる。一瞬の迷いはその男が伸ばしかけた手によって霧散した。掠めた男の腕を身体を強引に捻って躱し、躊躇なく顔を殴りつける。蹌踉めいた後頭部を更に殴り、低くなった身体を靴の裏で踏みつける。先の状況とは異なり、僕たちには既に走り回って体力の消耗の色が見え始めていた。ここで徹底的に再起出来ないようにしておかないと、逃げる難易度が上がることになる。

 崩れた男の身体をもう一度踏みつけた。他人に対して意識的に、そして執拗に暴力を振るったのは人生で初めてのことだったが、手と足は痛いだけで気分のいいものじゃない。

 男が立ち上がらないことを確認してから僕は再び冬麻さんの手を引いて走り始める。他人に暴力を振るうという行為は体力と魂の一部分を削るものであり、ただでさえ限界に近づきつつあった疲労をより濃くしたけれど、その間に冬麻さんの息が少しだけ整ったようで安心した。

 暗い道を曲がり、走り抜けていく。吐き出される息の音と二人分の足音だけが静寂の中でやけに響いて、すぐに見つかってしまうのではないかという焦燥が頭の中で暴れる。

 十二月十七日まで、あとどれくらいだろうか。それほど長くはないはずだ。けれど、手を伸ばすほどに遠のいていくように感じる。合せ鏡の世界のように、どこまでも辿り着けない果てのように感じる。

 呼吸が上手く出来ない。気管を刺す乾いた空気が痛い。口の中の甘ったるい唾液が気持ち悪い。それでも走らなければいけない。逃げなければいけない。

 それへの反応に遅れたのは、闇に紛れていたせいではなくてひとえに疲労による視野狭窄のせいだろう。気付いた時には既に遅く、振り上げられた何かを躱すことは出来なかった。

 衝撃が左腕に走り、追って熱と痛みが現れる。咄嗟に腕を挟んだお陰で動けなくなるような事態は避けられたが、状況が悪いことに変わりはない。

 冬麻さんの無事を確認すると同時に二撃目が振り下ろされる。同じように使い物にならなくなった左腕をなんとか噛ませるが、これでいよいよ本当に左腕から感覚がなくなった。

 急いで距離を取るが、追跡者は暗闇の中で何かしらの鈍器を持ちながら僕ににじり寄って来る。どうやら狙いはまず僕の方らしい。冬麻さんが狙われずに済んだことに対する安堵と、僕が居なくて彼女は逃げ切ることが出来るだろうかという不安がないまぜになる。けれど、必要なのは割り切ることだ。

「行け!」という叫びに男は一瞬怯み、そして冬麻さんの方を見やる。それが残された唯一の活路だった。内側からガンガンと響く痛みと吐き気を引き摺りながらなんとか男に突進をして、蹌踉めかせることに成功する。これで逃げるだけの余裕は作ることが出来たはずだ。

 けれど、出来たのは逃げる余裕を作ることくらいだった。満身創痍の僕の突進では男を倒すようなことは出来ず、体勢を立て直した男に頭を思い切り殴られる。

 ある一定以上の閾値を超えた痛みは、痛みとして認識されない。ただ視界が歪み、言い表すことの出来ない異物感が身体の中に現れるだけだ。受け身を取ることも叶わずにアスファルトに投げ出される。衝撃のせいで未だ回っていない頭の中で、誰かが僕の身体の上に跨り、殴っていることを感じる。内臓がぐちゃぐちゃに混ぜられたような浮遊感。最低の気分だ。

 僕はここで死ぬのかもしれない。まるで僕らしくないようなことをしたせいで、真夜中の路上で野垂れ死ぬなんて、最悪にもほどがある。

 けれど、最悪でも不快ではなかった。死に方を選ぶことが出来る以上の幸せが、存在するのだろうか。僕は僕の意志の中で死ぬ。それは、一生のうちに本気で愛することが出来る人を見つけられるくらいに上等なことなんじゃないだろうか。

 頬に当たるアスファルトの冷たい、ざらついた感触が肌に染み込む。ここは、寒い場所だ。

「ああああああああ!!!!」

 静寂を切り裂いたそんな声と殆ど同時にごっ、という鈍い音がして身体の上にあった体重の重心が崩れた。

 終わらない咆哮と鈍い音。途中からべちゃべちゃというグロテスクな水音が混じり始める。

 身体の上に居た誰かはついに完全にバランスを崩して僕の上から崩れ落ちた。取り敢えず、僕はまだ死ななくていいらしい。死はやっぱり、幾ら覚悟していても、どれだけ幸福なものだったとしても怖いものだな。心の底からとめどなく湧く安堵はじんわりとした温かさがあった。あるいは、単なる血なのかもしれないけれど。

「山名君!」という声がして身体を抱きかかえられる。脳は思考を放棄していて、それが冬麻さんだと気付くのに暫く時間が必要だった。

 逃げているものだと思っていた。逃げて欲しかった。けれど、それが自分勝手な考えだということは分かっている。僕が彼女に死んで欲しくなかったように、彼女も僕に死んで欲しくなかったのだ。だから、どうして、と問うことはやめる。まだ何も終わっていないのだから。

 身体から大切なものが零れ落ち、代わりに鉛を流し込まれたような感覚がする。立ち上がることさえも億劫で、出来ることならば冷たいこのアスファルトの上で寝転がっていたかった。けれど、抱きよせてくれた冬麻さんの肩を掴んで立ち上がり、彼女の手を握る。

「行こう」

 暗闇の中で、彼女の逡巡が見えた。改めて自分たちが居る状況の危うさを突き付けられて、そして目の前でこうして僕が殴られて、それでも行こうと言われて。

 ただ、決断は一瞬だった。

「うん」

 僕たちはもう決めたのだ。逃げることを。世界を捨てることを。ならば、今更止まる必要などなかった。例え何があろうとも。

 重たい身体を引き摺るようにして走る僕を引き摺るように彼女が走る。定まらない思考と平衡感覚の中で僕はなんとかそれにしがみつく。言うまでもなく、冬麻さんだけで逃げた方が速いのだろう。それでも彼女は僕の手を取ってくれた。二人で逃げてくれた。その彼女の決断がもう動かないほどに疲れ切った脚を前に進める。身体を動かす。

 走る。

 走る。

 走る。

 永遠にも思えるような夜の中を僕たちは走っていく。

 この街の狭さに対して、僕はずっと辟易とした感情を抱いていたけれど、こうして自分の足で走っていると思っていたよりもずっと広かったんだな、と思い知る。そのお陰で、僕たちは未だに追跡者に捕まっていないことを考えて、初めてこの街に感謝をした。

 もう少し。あと少しで、辿り着くことが出来る。人の目につかない道を選び続けたせいで大きく迂回していたけれど、僕たちには明確な目的地があった。考え得る中で最も確実に、彼らから逃げきることが出来る場所が。

「久々利!」という声が、後ろからした。

 一度話しただけだけれども、その声の正体を僕は知っている。冬麻幸雄。創天教の教祖であり、冬麻久々利の父親であり、彼女を死に追いやろうとした人間。

 彼の声には、カフェで聞いた時からは想像がつかないような威厳があった。荘厳であり、威圧感のある、従わせる力を持った声。その声は、最後通告だった。今ならまだ救世主として真っ当に受け入れてやるという、まだお前には戻る場所があるという、醜悪な強制力を持ったものだった。

 好むと好まざるに関わらず、それは冬麻さんにとって絶対的な声だったはずだ。父であり、教祖であり、予言者の、間違っているはずのない絶対的な正しさを持った声。

 けれど、彼女が振り返ることはなかった。手を握られる力が増す。離れないように確かに握られていた手が、今まで以上に溶けて混ざり合うようにひとつになる。

 それは決別の宣言だった。もう縛られることはないのだという、決意の表れだった。

「待て! 行くな!」

 冬麻幸雄に追うだけの体力はないのか、言葉だけが僕たちの背中に投げかけられる。彼の言葉に含まれた色は変わらない。荘厳であり、威圧感のある、従わせる力を持った声。けれど、遠のいてくほどにそれが徐々に惨めな音に聞こえた。彼のもとに、もう冬麻久々利は居ない。救世主は居ない。彼もまた、捨てられた人間になったのだろう。行いの償いとして、当然の結果であり憐憫すら湧かないけれど。

 走り、走り、互いのペースが走り始めた頃からもう随分と落ちていることを自覚する。それでも、走り続けなければいけない。逃げなければならない。

 そこでようやく、灯りが見えた。ぽっかりと暗闇の中に浮かび上がるように、それは煌々とこの時間でも夜闇を照らしていた。

 カンカン、という音がして、轍の上をそれが近づいて来る音がする。最善のタイミングだ。これ以上はない、これを逃すわけにはいかないタイミング。

 僕たちが目指していた場所は、駅だった。これに乗ることが出来れば、僕たちはこの街から離れることが出来る。世界が終わるまで、彼らに捕まることはない。

 足音がした気がした。それは幻聴かもしれない。それでも、僕たちはその音に弾かれるように最後の力を振り絞り、駅の中に駆け込む。

 切符なんて買っている時間はなかった。改札を無理やり通り抜けて、駅のホームに這入り、閉まりかけていたドアに滑り込む。

 しゅー、という音がしてドアが閉まった。周りに人影はない。どこへ向かうかも分からない電車が僕たちだけを乗せて走り始める。僕たちは恥も外聞もなく、崩れ落ちるように席に座り込んだ。支え合うようなかたちになっていなければ、恐らく寝っ転がることにさえなっていただろう。それほどに身体の中にはもう何ひとつ余力と呼べるようなものが残っていなかった。

 車内の明かりに当てられて露わになった姿は、我ながら酷いものだった。自分の血なのか返り血なのかは分からない血がてらてらと光りながら黒いコートを更に黒くさせている。

 頭はずきずきと痛んで疲労は容赦なく身体中を内側から突き刺していて、けれどどこか心地よさのようなものがあった。僕たちは間違いなく、世界に勝ったのだ。世界なんていう手の届かない曖昧なものではなくて、目の前にある確かなものを取ろうとして、そして実際に手に取ることが出来たのだ。

 窓外は黒くてろくに見えないけれど、電車は一定の速度を保ちながらあの退屈な街から離れていっていることは分かった。どこまでも平坦でつまらない、閉塞的な街が離れていく。消えていく。それは今まで心のうちにあった鬱屈を全て打ち飛ばすような爽快さがあった。僕は自らの意志であの街から離れている。かけがえのない大切な者とともに。

 空には月が見えた。ただの石の塊に過ぎないそれは、相変わらず煌々と地上を照らし続けている。科学的に解明のされたそれは、しかし目には見えない力学を持っているんだと僕は思う。こうして今ここに座ることが出来ているのは祈りのお陰であるような気もするから。

 柔らかな温度が身体に纏われて、冬麻さんが僕の身体を抱いたことを知る。屋上での抱擁が特別なものであったことは確かだった。けれど、何もかもが終わったことを示すこの抱擁は更に深く僕の心の中に沁み込んでいく。

 左腕は力が入らないままで、右腕を使って彼女を抱きしめる。彼女の髪からは夜の匂いがした。もう恐れるものではない、静かな夜の匂いが。

「終わったな」

「うん。そして終わるんだね、これから」

「ああ。今は、何時なんだろうな」

「二十三時五十七分」

「本当に?」

「本当だよ。この腕時計、何度も時間に狂いがないかを確認したんだから」

 背中の方に回されていた腕がこつこつと僕の腕を叩く。確かに彼女の左手首には腕時計がしてあったらしい。十二月十六日のうちに世界を救わなければならなかったのだからする必要があったんだろうけれど、今使われている目的はまるでその真逆だった。世界の終わりを観測するために、時間を確認している。

「はは、なんだよ。狙ったようなタイミングじゃないか」

「救世主だから、運を持ってるんだよ」

「元、だろ。世界なんて救わないんだからさ」

「ふふ、そうだね。もう救世主じゃないや」

 抱き合いながら僕たちはくすくすと笑う。それは、あのつまらない街よりも、地球よりも、宇宙よりも小さいけれど、完成された完璧な世界だった。

 例え悪魔が現れて、世界がずたずたに引き裂かれたとしても僕たちの世界はきっと終わらない。完成された世界の中に悪魔が入り込む余地はないのだから。

「なあ」

「ん?」

「来年の夏は海に行こう。人は多いだろうけど、夏の海も見てみたいからさ」

「……うん、行こう、夏の海。それで、目いっぱい遊ぼう」

「そうだな」

 夏の海で冬麻さんと遊んでいる姿を想像する。僕の中の冬麻さんは冬の中に制服姿でずっと佇んでいるけれど、夏になれば彼女もブレザーを脱ぐ。制服姿だって、救世主を辞めたように辞めるだろう。彼女がどんな服の趣味なのかは想像がつかないけれど、彼女なりの夏服を着て、僕たちは海に行く。

 想像するだけでも楽しい時間に、美しい彼女はきっと現実として目の前にすればその想像を超えてくるのだろう。来年の夏が待ち遠しい。もしも、世界が終わらなければの話だけれども。

「五十九分だよ」

「あと一分か」

「もう一分もない」

 その通りだ。話している間にも時は当たり前のように進んでいく。一秒一秒と刻まれていく。

「ねえ、山名君」

「何?」

「君と会えて良かった」

「そう言って貰えると僕も嬉しいよ」

「今なら世界が終わってもいいよ、私」

「……そうだな。その意見には僕も同意する」

 本当に世界が終わって欲しいと願う人は、この世界で最も不幸な人ではなくて最も幸福な人なのだろう。今この時を永遠にしたいからこそ、悔いがないからこそ、世界なんて終わってしまってもいいと思える。

 僕たちの祈りはこれ以上ないほどに純粋で確かなものだった。

 もうすぐ十二月十六日が終わる。

 もうすぐ世界が、終わる。

 言い残したことはあるだろうか。彼女の匂いの中で僕は言葉を探し、最後の一言を見つけた。

「冬麻さん」

「ん?」

「好きだ」

 十二月十六日が終わる。

 世界が終わる。

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それはとても小さな、 しがない @Johnsmithee

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