それはとても小さな、
1
真夜中の屋上は、小説を読むには暗すぎる。
ここが星の瞬きを美しいと言えるような田舎であれば、活字を追うのにも十分な光量が存在していたのだろうか。日本人の原風景に刻まれているような田舎に行ったことがないので分からないけれど、少なくとも僕の住んでいるこの退屈なまでに退屈なこの田舎の夜空は先進国らしく排気ガスで薄汚れていて本が読めるほどの明るさはなかった。
蛍の光はとっくに流れている。階下の店はひとつ残らず閉店している。それでも僕が屋上に居ることが出来ているのは、何も特別な技術を用いて侵入したわけではない。閉店する前から屋上に忍び込んで身を潜めていただけの話だ。もしもこの屋上が人で賑わうような場所であれば警備員もしっかりと巡回をして残った客の有無を確認もしたんだろうけれど、閉店間際まで屋上に居るような酔狂な人間は普通この屋上には居ない。ろくに見回ることもなく物陰に隠れた僕を見逃して、施錠はなされた。
小説が読めないとなると、途端に僕は時間潰し方に困ることになる。何をするのが正解なのか、なんてことをもっともらしく考え始めることになる。人生の浪費の仕方に正解なんてないのに、正解を求めてみようとする。
もうずっと眺めていた空を見上げる。人工的な光で覆われた街は殆どその姿を見せないにしても相変わらずあのつまらない姿を見せているようで、見飽きそうなほどに見ても空を眺めている方がマシだったのだ。僕はつまらなさ以前に、他の理由でこの街のことが嫌いなのかもしれないと今更になって気が付く。きっとそれは閉塞的な環境に対する鬱屈と、その中で何をすることも出来ない自分に対する自己嫌悪をないまぜにした何かなのだろう
空にはまばらに見える星と、それから月が浮かんでいた。美しい三日月。ゴンドラの中から見た薄い月とは違い、闇の中で煌々とその存在を主張しながら僕たちを見下ろしている。人間を見下ろすことは、気分が良いことなのだろうか。それとも、人間を見下ろさざるを得ないことは、見つめ続けなければいけないことは苦痛なのだろうか。どうなんだよと尋ねてみても月は何も返さない。当然だ、あれは幻想的な何かしらの象徴ではなく、ただの石の塊なのだから。
星に祈って、何になるのだろうか。僕たちへと届いた光は何年も前の、あるいは何十年、何百年も前のものであり、既に終わってしまったものに過ぎない。それに、その光を生み出した星が生きているのかすらも分からない。死んでいるものに対して、僕たちは祈っているのかもしれない。
過ぎ去ったものに対して、死んだものに対して、手の届かないものに対して祈ることに何の意味があるのだろうか。神様が死んだこの世界で、願いを叶えてすらくれないものに縋ったところで、虚しいだけじゃないか。
それでも、と僕は思う。それでも、人は祈るのだ。そして、祈りという行為はきっとその行為自体に意味があるのだ。願いを叶えて貰うことに意義があるのではない。叶うことがないと分かっていても、それがまやかしに過ぎないのだとしても、そうであって欲しいと強く想うことに、意味があるのだ。例えば、人を愛することのように。
この世界において、最善の結果になることは殆ど有り得ない。物事が最善の結果に収まること、それを人は奇跡と言うほどなのだから。ゆえに最善を求めようとせずに最悪を避けるようにして生きていく。
最悪は最善に近い位置にある。最善を求めた結果、最善を手に入れられず何も残らないことを、人は最悪というのだ。だから、最善を望まない。身分相応の結果に納得をして、受け入れながら進んでいく。最悪ではない結果は、大抵の場合リカバリーが効くのだから。
けれど、今回に限ってはそうして納得することの出来る範囲で曖昧に引き下がることが出来ない。最善か最悪かの、二元論でしか結果を表すことが出来ない。そして、他の最善と同じように、今回の最善もまた奇跡と呼ばれるようなもので、成功する確率は高いわけじゃない。
それでも進むしかないのだから。
僕は星に祈る。月に祈る。それが無意味な行為であるとしても、強く、ただ純粋に想う。
最善の終わりに向かうことが出来ますようにと。
かちゃり、という鍵の開く音がした後で、がちゃりというドアの開いた音がした。最悪で醜悪な仮定が当たってしまったことを良かったというべきなのか悪かったというべきなのかは分からないけれど、いずれにしても僕の仮定は間違っていなかったらしい。
ドアから離れ、フェンスへと向かうその影を見て僕は物陰から立ち上がり、声をかける。
「こんな時間に奇遇だね、冬麻さん」
彼女はびくり、と跳ねたように肩を動かす。それはそうだ、普通こんな時間の屋上に人が居るはずもないのだから。活字を追うには暗くとも、月光は彼女の顔を確かに見えるほどの明るさで照らしていた。怯え、それから困惑へと目まぐるしく変わっていく表情は、サプライズを仕掛けた側の人間からすると愉快な気持ちになるものではある。
「……山名、君?」
「この屋上も随分見慣れた場所だと思っていたけど、こうして真夜中に見てみるとまた感覚が違うものなんだな。まるで違う場所のように見える。昼まであれば惨めな廃れ具合も真夜中になるとどこか神秘的になるっていうのかな。人が居ないという点だけで僕はこの屋上を評価していたけど、それはきっと一面だけを見て他人を判断していたようなものであってその安直な評価は覆すべきなのかもしれない」
韜晦めいた言葉を並べながら僕は冬麻さんに近づいていく。一番の最悪は、ここから彼女がヒステリックに救世主としての役割を遂行することだったけれど、それよりも困惑が勝ったようで彼女は言葉を探しながら突っ立って僕の到着を待っていた。
手の伸ばせば触れることの出来るところにまで近づく。それでも冬麻さんは、相変わらず戸惑ったような表情を見せるだけだった。
説明を急ぐ必要はない。激情でどうにかなる問題であれば勢いのままに捲し立てることも可能性のひとつとしてあったのかもしれないけれど、この状況においてそれは悪手だ。だから、僕はポケットからセブンスターの箱を取り出して一本を冬麻さんの方へと差し出す。
「一服、どうだ?」
彼女はまだ理解出来ていないという面持ちのまま、それでも逡巡の末に煙草を受け取った。僕はそれに火をかざしてやる。彼女の咥えた煙草に火が点いて、煙が立ち昇ってゆく。僕もまた、彼女と同じように煙草を咥えて、火を点けた。こういう日に限って、あるいはこういう日だからか。吸い慣れてろくに味を感じなくなっていた煙草がやけに美味しく感じることが出来た。
何を言うこともなく、何も聞くこともなく、僕たちは闇と煙の中に埋もれる。その沈黙は今まで僕たちが過ごしてきたものとは質の違う、不思議なものだった。これが終われば、いかなるかたちではあっても終わりへと向かうことになることが分かっている、最後の猶予期間としての沈黙。
煙草から口を離しても口から出る息は白い。もう今年の終わりまでももうすぐで、言い逃れることが出来ないほどに冬の最中にある。真夜中にもなればこれくらいの寒さは当然のことなのだろう。
この夜の中でも冬麻さんは相変わらず制服を着て、赤いマフラーをつけていた。マフラーだけで耐えられる寒さではないだろうに、寒くないのだろうか。いや、寒いに決まっているのだ。それでも、既にその恰好に慣れてしまったから寒さを表面に出すことを忘れてしまっただけで。
冬麻さんは、何か言葉を探しているように見えた。ただ、彼女が口を開けばそれは本質へと近づき過ぎてしまう。勿論僕がここに来たのはその本質のためだけれども、もう少しでいいから僕はくだらない話がしたかった。いつも通りの、僕たちの会話がしたかった。
「屋上に僕が居て、後から冬麻さんが来てって、なんだか最初に会った時を思い出すな。僕が屋上で煙草を吸ってて、いきなり冬麻さんが現れた時」
一か月も経っていないことのはずなのに、やけに昔のことに思える。そう錯覚するほどに、僕たちが過ごした時間はあまりにも濃いものだった。きっと、これから生きていてこれほどの時間を過ごすことはもうないのだろう。それほどかけがえのない時間が人生の早い段階において過ぎてしまったことが良いことなのか悪いことなのかは、僕には分からなかった。
「この屋上に僕以外の人間が現れることを考えていなかったから驚いたよ。しかも煙草吸ってるところを咎められるかもしれないと思ったらむしろ煙草をせがんできたんだからな。傍から見る分には冬麻さん、真面目そうな見た目をしているしここまで砕けた人だとは思ってなかった」
砕けた人、という言葉は正確なものではないかもしれないけれど、少なくとも学校をサボタージュすることに迷いがないくらいには融通の利く人ではあった。話していて心地よさを感じる人ではあった。そのせいで、僕の孤独の殻はいとも容易く壊されてしまったわけだけれども。
煙を吸い込んで、吐き出す。当たり前に行っていたその行為も意識的に行うと新鮮な感じがする。
煙草の先から伸びた灰がぽとりと花房のように落ちていく。冬の夜の、残酷なまでに冷たい空気を吸い込む。肺に世界の冷たさが染み付いたところで、僕は口を開く。
「今日、十二月十六日が終わるとともに世界が終わる。君はあの時そう言った。そして、それを君が救うとも」
冬麻さんの身体が、表情が、微かに揺れた。それでも大きく動揺しなかったのは、既に僕が居るという状況に慣れてある程度冷静になることが出来ていたからなのだろう。
「馬鹿馬鹿しい話だと思ったよ。実際、今でもそう思ってる。世界はそんな簡単に終わらない。機械仕掛けの悪魔が現れて突然何もかもが滅茶苦茶にされるなんて、フランツ・カフカの小説みたいな不条理はこの世界には起こらない。でも、この考えもまた、ひとつの信仰なんだろう。世界で最も広く膾炙している、明日も世界は変わらず存在しているという信仰」
奇を衒うことが良いことだなんて青臭い勘違いをしているわけではない。それでも、無条件で常識を受け入れて依存している僕たちはある意味で無自覚な信仰者なのだろうと思う。旧い宗教のように異端を裁くという点においても。
「冬麻さん。君は今でも世界の終わりが来るって信じてるのか?」
「……うん」
「そのために自分が世界を救うと?」
「うん」
「そのために……そのために君はここから飛び降りるつもりだと?」
冬麻さんは何も言わず、ただ僕の言葉を受け取った。それは、惨たらしい無言の肯定だった。
屋上で行う練習と言って、彼女は地面を見下ろしていた。それは、飛び降りる時の躊躇をなくすための練習だったのだろう。この屋上を訪れたのは言うまでもなくここから飛び降りるため。冬麻幸雄が外界の中でも僕を敵視していた理由も、こうなると見えてくる。つまり、僕と言う人間と関わり生きることに対して執着する可能性を恐れたのだろう。生きることは楽しくて、死ぬことが怖いと尻込むことを止めようとしたのだろう。
世界は当たり前のように明日も続いていく。けれど、終末を予言され、救世主の死を目の当たりにしたものからすればそこにはあるはずのない因果関係が生まれることになる。
死はグロテスクなものだ。そして、それと同時に紛れもなくセンセーショナルなものでもある。死体に野次馬がたかることを想像すれば分かるように、人は死を嫌悪しながらも惹かれる。死の影響力はそれだけ強い。
世界を救うための死。殉教。それはその宗教を信じているものにとってどれほど尊く、美しく映るだろうか。
それに、冬麻久々利は確かに冬麻久々利自身の意志で飛び降りる。学校での孤立、異質な家庭環境を省みればそこに異常な点は見つけられず、犯罪の欠片すら存在しない完璧な自殺。多少警察やマスメディアから睨まれることはあるかもしれないが、創天教という宗教の名前に傷がつくことはない。
それらの思惑の先に、彼女は死へと追い込まれている。例えば、狂信の末の行動であればまだ良かった。理解が出来た。けれど、論理で積み上げられた結果だからこそ、計算で導き出されたものだからこそ、その死はこれ以上なく醜悪なものになる。
僕はそれを止めなければいけない。何をもってしても、何を捨てることになったとしても。彼女に死んで欲しくない。
「君が死ななくても、世界は終わらない。錯覚をさせられているだけだ」
「……その議論、またするつもり? 確かに君からすれば終わらないのかもしれないけど、それでもその君の考えとは別に終わることは変わらないんだよ」
彼女の言う通り、この議論に関してはどこまでも交わることがなく平行線上を進んでいくことしか出来ない。仮に何十、何百のロジックを持ち出したところで、信仰という堅牢な檻の中に閉じこもった彼女を連れ出すことは出来ない。
だから、説得をするにしても見方を変えるべきだ。
「そもそも、世界はそんなに素晴らしいものなのかね」
シニカルな口調で僕は言う。
世界が終わるか、終わらないか、という議論を続けていても仕方がない。不毛なだけだ。ならば、世界が終わることを受け入れたうえで、それでも彼女を止めることを考えるべきだろう。幻の化け物が見えているのであれば、一緒になって空想の化け物から身を守る方法を考えてあげればいい。幻を否定するよりも、その人を落ち着かせるという意味では最も建設的だ。
「世界と自分。フィクションなんかではよく天秤にかけられることも多いこの二つで、大抵は前者の方が重たいものだとして、大切なものだとして判断されるけど、本当にそうなんだろうか。結局、世界がどうのこうのといったところで、それはただの現実の話であって現実的な話じゃない。地球の裏の餓死者の話をされて湧く憐憫が自己陶酔に過ぎないように、本当の世界というものは僕たちの見える範囲に広がる、手の取れる範囲のものでしかないだろう。世界はそれを観測する自分が居ることが前提で、世界のために自分を殺すのは本末転倒と言えるんじゃないかな」
「独我論? 古くないかな」
「独我論とは少し違うな。真の独我論者であれば意識を持たない君をそもそも止めようとなんて思わない。君を人間だと思ってるからこそ、意志を持った存在だと思っているからこそ、失ってはいけなくて止めようとしているんだ」
フィルターの部分を親指で叩いて灰を落とす。考えを纏めながら、一度だけ煙草に口をつけて、煙を吐き出す。
「独我論じゃなくて、現実的に考えればそうだろう。自分が死ぬ代わりに世界が救われるなんて命題を突き付けられて、「分かりました、はい死にます」なんて言える人間は普通じゃない。世界が滅べば確かに自分も死ぬのかもしれないけど、それでも最後まで醜く生に縋るのが人間だろ」
「……普通じゃない、か。そりゃそうだよ、私は普通じゃないから」
冬麻さんは自嘲的に笑う。その表情はどこまでも強く、そしてその代償としてどこまでも痛々しいほどに脆かった。
「君は死にたいと思ってる?」
「まさか」
「そう、誰も死にたいなんて思ってない。世界の終わりなんて、望んでない。それを避けるために私は私の命を捨てなければいけない。逆に言えば、私の命程度で世界の全員が救われるなら、それで十分じゃない?」
「十分じゃないだろ、それは。赤の他人と恋人、等しく他人で等しく人間だ。それでも、人はどちらかの命だけを助けられるかと問われれば迷うことなく恋人を選ぶ。間違いなく。結果だけを記号的に表せばその人の決断によって赤の他人は死んだわけで、つまりその人が殺したと言えるわけだが、それでも恋人を選んだという行いは悪と呼ばれるようなことじゃない。世界と自分の話も同じだろう、世界なんていうよく分からない曖昧な概念よりも、見ず知らずの何十億人もの命よりも、人は自分の命を優先する。当然のことだ」
「……ううん。違うよ、山名君。それはあくまでも一般論に過ぎない。普遍的で耐久力のある、一般論に過ぎない」
冬麻さんは煙草を消えていない火ごとくしゃりと握りつぶしてから地面に捨てた。掌に出来ているであろう火傷なんて気にしてないように、毅然とした態度を保ったままで。
「確かに世界は言葉ほどに重たいものじゃないんだと思う。結局地球全体とか宇宙丸ごとを世界だなんて捉えている人は居なくて、本当の意味での世界は個人的な範疇を過ぎない、自分を中心としたものなんだろうと思う」
でも、と冬麻さんは言葉を区切った。
「でも、言葉ほどの重みを持っていないものだったとしても、それよりも自分の価値が低ければ結局優先されるのは自分じゃなくて世界なんじゃないかな。いかに世界の価値が低いと嘯かれても、それよりも自分の価値が変わらず低いのであれば、何も変わらないんじゃないかな」
「そんなこと――」
あるはずがない、と思いたかった。誰だって、心の奥底では自分が中心で、我が身が可愛くて、そんな自己中心的な考え方は何もおかしなものでも悪しきものでもない、人間の本能として当然のことだ。僕に反駁するためだけの戯言に過ぎないのだと、否定したかった。
けれど、冬麻さんの言葉は重力を伴った、真剣なものだった。頭ごなしの反駁ではない、彼女の確固たる哲学を伴った言葉だった。
どうして僕はこれほどに簡単なことを考えなかったのかと思う。冬麻久々利に対して、ある宗教を妄信する者に、時として常識は通用しない。彼らは彼らの常識の中で生きていて、その中で育まれた、僕たちに想像することの出来ない価値観というものが存在するのだから。
考えてみれば、当たり前のことだ。僕が何を言おうと、きっと彼女の中で死の重さは変わらない。世界の重さは変わらない。救世主を殺すシナリオを思いついた時点で、冬麻幸雄はそうなるように教育しているはずなのだから。
「自分よりも見ず知らずの人間の方が大事だって言うのかよ」
「そうだよ。だって私は救世主だもん。キリストや釈迦が見返りを求めたことってあった? 無私の奉仕は、自分のためでもあるんだよ。それをすることによって私自身が救われるためでもある」
「君はキリストでも釈迦でもない! 救世主なんて大層な存在じゃなくて、ただの高校生だろ!」
「私は救世主だよ!」
思わず叫んだ言葉に対して、彼女もまた叫んだ。その宣言は慟哭だった。世界をずたずたにせずとも、聞いている人間の心をずたずたにするには十分なほどに切実な叫びだった。
「私は救世主なの! 世界を救うんだよ! 君が何を言おうと絶対に! そうじゃなきゃ……私が救世主じゃなきゃ私がここに居る意味って何なの! 生きてきた意味って、何なのよ!」
慟哭は吐血に似ている。血を見て恐れ、同情する僕なんかよりも、その言葉は何より彼女自身を傷つけていた。深く、深く、既に傷だらけになった身体を掻きむしり、癒えない傷を更に癒えないものにしているように見える。
「放っておいて! 近付かないで! このまま世界のために死なせてよ! なんで、なんであの時君は屋上に居たのよ!」
冬麻さんの頬を伝う何かが月に照らされた。彼女は泣いていた。血とともに、あらゆるものを身体の中から吐き出そうとするかの如く、静かに、激情の中で泣いていた。
「優しくしないで! 構わないで、付き合わないで! 頭のおかしい女が馬鹿なことしてるって笑い飛ばして! 見下げて! 独りにしておいてよ!」
世界からも見捨てられたような、僕たち以外存在しない屋上に彼女の叫びは虚しく響いた。身体の中にいつまでも残る残響が、残響すらなくなってしまった後の冷たさが、身体を引き裂きそうなほどに強く、痛く、僕の中に残る。
「どうして私なんかと一緒に居たの! もう、構わないでよ! 私から、生きている意味がなくなるから! 死なせてよ! お願いだから――」
彼女の声が小さくなっていったのは、涙に紛れたからだけではなかった。怒りや怨みだけの叫びには、いつの間にか哀切が入り混じっていて、真綿で首を絞めつけるように彼女の魂を苦しめている。
自らに不可分的に染み付いた死への義務と僅かに残った生への渇望の葛藤。今冬麻さんはその中で苦しんでいるのだ。
しかし逆に言えばその苦しみは彼女が生に対する希望を捨てていないことを示していた。それは、僕にとっての希望でもあった。
手を伸ばしていない人間を引き揚げることなど出来ない。必要なのは、僕の気持ちだけではなく彼女の意志でもあるのだ。だから、彼女の意志の揺らぎは僕が彼女に手を伸ばすことの出来る最後の可能性だった。
けれど、言葉は上手く出ない。もっともらしい理論武装は既に出尽くしていて、彼女を説得するための言葉はもう思いつかない。
どうすれば、彼女を助けることが出来る。あと少しなのに、僕は彼女を取り零すのだろうか。救えないのだろうか。
世界の終わりはもう手の届くところにある。煙草の火の熱が指に伝わり、フィルターギリギリまで短くなった煙草を捨てる。
時間はない。言葉もない。
それでも僕は、彼女を救いたかった。彼女と生きたかった。
どこでも良い、彼女の行きたい場所に行って、案外つまらなかったねと笑いあいたかった。思っていたよりも楽しかったと話をしたかった。
僕は彼女に死んで欲しくない。信仰とか主義とか倫理とか哲学とか、そういう何もかもはどうでも良くて、ただ彼女に死んで欲しくなかった。
もしも本当に終末が訪れるとして。悪魔が現れて世界をずたずたにするとしても。
「冬麻さん」
彼女の方をじっと見つめる。彼女は何かに縋るように、あるいは突き放すような鋭さで、僕の目を見る。
狂いそうな感情のただ中で、僕は月の光に照らされた彼女のことを、美しいと思った。彼女のためなら、世界なんて惜しくないと思ったのだ。
「世界の終わりなんてどうでもいい。僕が死のうが、この街が滅びようが、宇宙が死滅しようが、そんなものは何もかもどうでもいいんだよ。僕は君に死んで欲しくない。君が死ぬくらいだったら、僕は君と一緒に世界の終わりを見ていたい。だから――だから、死なないでくれよ。頼むから」
悪魔なんて、来るなら来ればいいのだ。顔も知らない人間なんて、顔を知っている人間ですらも、世界とともに死んでしまえばいいのだ。僕はただ彼女とともに生きたい。死ぬなら、彼女とともに死にたい。
それがどこまでもエゴイスティックで、だからこそ嘘偽りのない僕の本心だった。世界を救うために、救世主として育てられた彼女からすれば愚かで惨めな意見なのかもしれないけど、それでもこう言うしかなかったのだ。
もう、何もなかった。あらゆる感情と言葉は出し尽くされて、出来ることは彼女を待つことだけだった。
時間が死んだような感覚がする。あらゆるものが制止しているのではないかと錯覚する。けれど星の微かな瞬きが、時間の死なんていうものはレトリックに過ぎず相変わらず世界が循環していることを知らせる。
何もすることが出来ない時間は既に何日も過ごしていたけれど、あの時のような焦燥は既になかった。凪のように僕はただ、彼女の選択を待っていた。
冬麻さんが蹌踉めいた。死んでいたような時の中での不安定な動きへの焦りは、身体に触れた柔らかさと温かさによって溶けていく。彼女の身体は冬の空の中に投げ出されることはなく、僕に触れてじっと動かなかった。
「……私、死にたくない。もっと遊びたいし、遠くへも行ってみたい。君と一緒に、居たいよ」
縋るように胸の中で泣きじゃくる彼女の背に僕は手を回した。彼女が生きていることを確かめたかった。彼女に彼女を求めている人間が居るということを証明したかった。
腕に触れる制服の温度は既に冬によって冷たくて、けれど確かに彼女の体温も仄かに感じることが出来る。救世主なんていう超常的な存在ではなくて、彼女は確かに一人の人間として生きているのだ。
背中に温かなものが回される。それは彼女が僕を受け入れてくれたことを表す温度だった。
世界が終わっても体温と痛みが残るように強く、僕たちはこの街で最も空に近い場所で抱き合った。今なら、世界が終わってもいいような気がした。
けれど、問題は未だ片付いていない。出来ることなら、この完成されたような時間の中でいつまでも揺蕩っていたかったけれど、それでは駄目なのだ。世界はこれからも続いていくのだから。
彼女の体温を惜しみながら、僕はするりと彼女から腕を解き抱擁から免れる。彼女は名残惜しそうな顔をしていて、胸の中に疼痛のようなものを覚えたけれどそれでも僕たちは進まなければいけないのだ。ここに留まっているわけにはいかないのだ。
「冬麻さん、僕たちはここから逃げないといけない」
「逃げる?」
「このデパートの周りには創天教の人間が何人か見張っているんだ。君の起こすはずだった奇跡を目の当たりにするため、という人も居るんだろうけれど、恐らく君が本当に飛び降りるのかを確認するための監視の意味合いでもあると思う。つまりもしも君が飛び降りなかったら、それを強制させるための人間がこの周りに居る」
さっと冬麻さんの表情が変わる。死ぬことしか考えていなかった彼女は気付いていなかったのか、あるいは気付いていてもどうでもいいと思っていたのかもしれないけれど、生きることを選んだ僕たちにとってそれらの人間は大きな障害だった。
もうすぐ零時になるような時間だ、ひと気はもう殆どない。逃げ込むことが出来るような店も、それに伴う灯りもない。捕まったら、その後のことは考えたくもないようなことになるのだろう。
それでも、進むと決めたのならば障害の大きさなんていうものは関係がなかった。僕たちはただ進むしかないのだから。
「行けるか?」
「行くよ」
冬麻さんは涙を拭ってマフラーを脱ぎ捨てた。
終わりからの逃避行が始まる。
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