3

 聞き慣れない名前の駅で降りると、そこは酷く静かな場所だった。無機質な人工物で囲われた雰囲気は僕の住んでいた場所とは異なるけれど、人の気配が充満する街ともまた違う、いやに寂しい場所。まばらに見える人が、むしろその空漠を強調しているように思えた。

「行こう」と言って歩き始める彼女は歩き始める。彼女の力強い歩みが虚勢によるものかは分からないけれど、それを本物にすることが出来るようにと、僕も並んで歩く。

 住宅街の中は死んだような気配がしていた。そうあるべきと用意されていたように静寂は美しく保たれていて、一種の不気味さを感じる。都会よりも自然は多いはずなのに、聞こえるのは遠いところで鳴いているひぐらしの声だけで、霊廟のような安定がここにはあった。

 僕たちの間に下りた沈黙は以前にあった不完全がゆえのものというよりも、完成されたものだからこその沈黙のように思えた。既に語ることはなくて、緊張を紛らわせるためのその場凌ぎすら必要ではない。心地よさすらあるような静謐の中を、薄氷を歩くようにして進んで行く。

 彼女が足を止めたのは真新しいマンションの前だった。確認をするように僕の方を振り返り、僕が頷いたことを確認してからゆっくりとマンションの中に這入っていく。ここが、引き返せる最後のタイミングだということを直感した。ただ、今更になって引き返す選択肢なんて、僕にはなかった。

 階段を上がり、二階の廊下を進む。上がった階段から最も遠い角の部屋が彼女の叔母の部屋のようだった。

 深呼吸をするわけでも、気を落ち着かせるために間を置くわけでもなく、躊躇なく彼女はインターフォンを押す。まるで世界に決められていたような動作だった。

『はい』という女性の声が聞こえる。ただでさえ他人の情報を把握するのは苦手なのに、機械越しの音声ではどのような人物なのかを想像することは出来ない。

『字です。聞きたいことがあって、来ました』

 遠羽がそう言うと、数秒の沈黙の後で『今出る』と短い返答の後でぷつりと応答が切れた音がする。そのまま繋がるようにして部屋の中から誰かが歩いて来る音がして、鍵を開けた音と殆ど同時にドアが開かれる。

 出て来た女性は薄いシャツの上に、夏にも関わらずパーカーを羽織っていた。夕暮時になっていることも相まって、昼間ほど暑いわけではない。ただ、夏場の恰好としては奇妙なものであるような気がして、ここは本当に僕が生きていた世界と地続きの場所なのだろうかと思う。

 彼女は遠羽を見た後で僕の方に軽く目をやった。ただ、見知らぬ男に対する驚きや戸惑いのようなものはまるでなかったようで再び遠羽に視線を戻すと「久しぶり、字」と言った。

「どうしたの」

「聞きたいことがあるんです、私の過去について。凪さんなら知ってると思って」

 凪さんと呼ばれた女性は視線を一度足下の方に落としてから、「分かった」と頷く。

「上がって話を聞こう。私も話せることは話すから」

 それだけ言うと彼女は踵を返し、部屋の中へと戻っていく。遠羽はドアを掴んで閉じるのを止めて、部屋の中へと這入っていく。僕が這入ることに若干躊躇していると「大丈夫だよ」と彼女は言った。僕はその言葉に導かれるようにして、薄暗い部屋の中へと這入っていく。

 パーカーを着ていたことから部屋の中には冷房がつけられているのだろうかと考えたけれど、そのようなこともなく外から続く夏の夕暮れらしい温度が部屋の中には満ちていた。それから、煙草の香りも。テーブルに置かれた吸い殻の溜まった灰皿からも分かる通り、喫煙者らしい。

 明かりのついていない、薄暗い部屋を進み、凪さんは三人分のグラスをローテーブルに並べてペットボトルから水を注いだ。彼女がひとつが並べられた方に座ったことを確認してから、僕たちは二つが並べられた方へと腰を下ろす。ローテーブルの周りにはソファーも座布団もなくて、フローリングの硬さと冷たさが伝わる。

 目前で胡坐を掻く凪さんは慣れた動作で煙草を取り出し、火を点ける。ぼんやりと漂っていた紫煙の匂いが濃くなり、夏の匂いと混じり合った。

「それで、字は過去の何が知りたいの」

「私、記憶の改竄をしたことがあるでしょ。高校の辺りの記憶について」

「そうだね、したよ」

 拍子抜けするほどあっさりと、彼女は遠羽の疑問を首肯した。

「つまり、元の記憶を、本来の過去を知りたいってこと?」

「そう」

「そう、ね。やけに即答するんだ。一度なかったことにした過去なのに、それでも本当に知りたいと思うんだ」

「知らなきゃいけないと思ったから、知らないといつまでも何も変わらないから、どうしても知りたいの。知らなきゃ、いけないんだ」

 凪さんは返答の代わりのように紫煙を吐き出し、値踏みするように遠羽を見る。鋭い視線ではあるけれど、それは敵意というよりも優しさなのだろう。本当に目を背けようとしていた過去と向き合う覚悟はあるのかという、最後通牒。

 不意に彼女の視線が遠羽から僕の方へと移った。自らが向けられる立場になると、その視線の優しい冷酷さを痛感する。

「この人は?」

「私の過去に関係のある人」

「どんな過去かもまだ分からないのに聞かせるつもりなんだ」

「それでも、居て欲しいんだよ。そうするべきだと思ったし、そうしたいと思ったから」

 遠羽の言葉を聞いて、そのうえで彼女は再び僕のことを見る。

「あんたは、それでいいの? 他人の過去を知って良いことなんてありやしない。下手に首を突っ込めば引き摺り込まれることになる。呪いみたいに、いつまでも付いて回ることになるかもしれない。それでも、知りたいって思うの?」

「それでも、知りたいんです。現実からは速くて、いつまでも逃げ切れるものじゃないから、せめて自分の意志で見つめなければならないと思うんです」

「現実は確かに早いが、今なら目を背けることだって出来るでしょ。都合の悪い記憶は消せばいい。隠せばいい。醜悪な現実を見つめて何の意味があると思う?」

「……本当のものに意味は、ないんでしょう。真実に価値なんてない。得られたとしても、何かが起こるわけじゃない。それでも、意味がなかったとしても、それを求めることに、意味があるんじゃないでしょうか。それを求めようとした心に、何かは残るんじゃないでしょうか」

 理想論かもしれない。都合のいい夢物語かもしれない。けれど、何かを強く希望するということは、人間だけが持っている本質で、美しいことなんじゃないだろうか。

 凪さんは「そう」と小さく頷いて、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。夕闇が表情を隠し、代わりに輪郭を強調する。彼女の目は誠実に、しかし遠いどこかを見つめているように見えた。

「オーケー、なら話しましょう。自分の意志で、そして覚悟を持って聞いているのであれば私に答えない権利なんてありやしない。元々、私が知ってるのは字の記憶なんだから」

 ただ、と凪さんは言葉を区切る。

「期待はしない方がいい。これから話すのはどこかの小説や映画で描かれるような喜劇的な悲劇ではなくて、ただそこに存在していた過去のお話だ。同情的な物語も気持ちのいいカタルシスも鮮やかな構成も何も存在しない、極めて単純で気分の悪い話。そのうえで本当に聞きたいと思うかい」

「ええ、そのために私たちは来たんですから」

 遠羽の言葉を凪さんは静かに受け止め、ゆっくりとひと口分紫煙を吸い込み、吐き出してから口を開いた。

「高校に入って、あんたは虐められた。過去にあったのは、言ってしまえば、それだけの話だ。勿論、それだけだと言って終わる話じゃないけどさ」

「虐め、られたんですか。私が」

「実感ない?」

「……自分が学校というコミュニティに打ち解けることが出来ない種類の人だっていうことは分かっていて、虐められたという事実はそういうものなんだろうと理解することが出来ます。ただ、その記憶のない私からすると虐めという言葉はどこか遠いもののように感じて、そうですね、実感がないんだと思います」

 彼女は自分の中に残された何かがないかと考え込むように視線をテーブルに落としているけれど、その行為が無為なものであるということを僕は知っている。失われた記憶に対して実感を覚えることは、画面越しの悲劇に共感することが出来ないことと同じで出来ることではない。

「虐めっていうのは誇張をした表現じゃなくて本当に言葉通りの虐めだった。教科書とか体操服みたいな私物が壊されたり、汚されたり、暴力を振るわれることも少なくなかった、っていうのは聞いた話だけどね。でも痕を見ればそれが噂話じゃなくて本当のことだって分かった。今でも少し残ってるんじゃないの、傷痕」

 その言葉を聞いた遠羽の表情が、明らかに揺れた。それは服の下に過去の痕が残っていることの証明だった。

「勿論、今だと適当な怪我をした記憶、みたいなのに塗り替えられているか、あるいはさっぱり思い出せないかのどっちかなんだろうけど、その傷はそういう理由があって付いたものだった。それだけでも十分最低だけどさ、なまじっかあんたは強過ぎた。虐められても、それがなんてことのないことであるかのように振る舞うことに慣れ過ぎていた。だから、虐めはエスカレートして、事故が起こった」

「事故って――」

「あんた一回車に撥ねられて入院したことがあるでしょ。あれはその虐めの延長線にあったことだったの。それで、引っ越してここに来た。被害を受けた側が逃げるっていうのもおかしな話だけど、当事者はあんただけで、そのあんたに戦うだけの体力がもうなかった以上そうすることしか出来なかった」

 凪さんは淡々と、前もって言っていた通り極めて単純で気分の悪くなるような話をした。その話は、単純だったからこそ残酷で醜悪なものだったんだと思う。人の醜さは、何も大仰な動機や舞台を必要とはせずに日常の中に潜んでいるという気持ち悪さはあからさまなフィクションよりもずっと現実味を帯びているもののように感じた。

「事の顛末は、言ってしまえばそれだけ。学校を変えて暫くして、高校三年の夏だったかな。記憶を変えたいっていう風に言ったからその時期に記憶を変えることにしたんだったかな」

「ちょっと待ってください。高校生はまだ記憶の改竄を行えないはずなんじゃないですか」

「虐めっていうバックボーンと、塞ぎがちだった生活からの特例。元々記憶の改竄はそういう都合の悪い記憶を封じ込めるためにあったんだから自然なことでしょ」

 思わず口を挟むと、冷静に返される。彼女の言う通りだ。基本的なことを失念していたけれど、元はトラウマなどの克服のために作られた技術であり、虐めなどの記憶を消すために使われることは特別なことではない。むしろ、本来記憶の改竄とはそうあるべきだったのだろう。

 遠羽は固い表情で俯いていた。残酷な過去は、しかし彼女の中では実感を持たないままでどこか遠い存在として認識される。自覚をすることの出来ない過去に対して、彼女は何を思っているのだろうか。

「他に何か聞きたいことは?」

「……いや、何もないです。ありがとうございました」

 物足りなさすら感じる簡潔な事実だったけれど、凪さんの口調からするに本当にそれだけだったのだろう。だからこそ、これ以上に聞くべきことはなくて、遠羽は口を噤んだ。

 過去が剥き出しにされた部屋の中は夏の夕暮れがそのまま投影され、薄暗く僕たちを照らした。喉の渇きを自覚するけれどグラスに手を伸ばす気にはなれないままでいると凪さんは吸っていた煙草の火を消し、新しい煙草に火を点けた。

「行こうか」という声が僕に向けられたものだと気が付くのには、暫く時間がかかった。それほどに、彼女の声はいつも通りの、なんてことのないような声色だったのだ。

「ありがとうございました、急に押しかけて教えて貰って」

「礼を言われるほど大層なことは教えてないよ。あんたは今ようやくフラットな状態に戻っただけだ」

「ええ、そうですね」

 遠羽は哀しい音を立てて笑い、腰を上げた。僕もそれに倣い、立ち上がる。

 叔母と姪という関係ではあったけれど、血縁がゆえの緊密さのようなものを感じさせることもなく、引き留めるような言葉は聞かないままで玄関まで来た。ただ、それは僕と父の間にあるような不和というより、一般的ではないながらも成り立っている特別な均衡がゆえの関係なのだろうと思う。凪さんの言葉に同情や温情はなかったけれど、それこそが一種の同情だった。べたついた感情は、遠羽にとってはただ迷惑なだけなのだろうから。

 靴を履いてドアを潜ろうとしたところで「ねえ」と呼び掛けられる。それが遠羽ではなく僕に対しての声だということは何故だか響きから分かって、振り返った。

「あんた、名前はなんて言うの」

「笛吹です」

「うすい」

 彼女は何かを確認するように僕の名前を繰り返してからその逡巡を誤魔化すようにして再び口を開く。

「あんたの生き方は不器用で、生きづらいと思う」

「ええ、分かってます」

 手の届かないものを追い求め続けるのは果てしない徒労だ。もう少しなんてことないように生きた方が、生きやすいことは分かっている。

 躊躇のない僕の返答に凪さんは薄く笑った。

「分かっても尚進むなら、良いと思うよ。精々行けるところまで行ってみればいい。正しくはないのかもしれないけれど、個人的にそういう生き方は嫌いじゃないんだ」

 不思議な人だ、と改めて思う。僕とはまだ会って間もなくて、話すらろくにしてないのに見透かしたようなことを言う。虐められて、怪我をして、それでも尚一線を越えずに耐えることが出来たのは、遠羽の強さというよりこの人の強さのお陰なのかもしれないと思った。

「じゃあ」と遠羽が言うと凪さんは「ああ」とだけ返した。それだけの短い挨拶を終えて、遠羽は歩き始める。この二人にとっては、これでいいのだろう。大仰な別れは滑稽なだけで、これが二人にとっての完成された別れなのだ。

 マンションから出ると外は夕闇が支配するようになっていて、街灯がまばらな道は暗かった。けれど、彼女は確かな足取りで歩いて行く。

「ねえ、笛吹君」

「なんだ?」

「少し歩いてもいいかな。当てはないんだけどさ」

「いいよ。僕も歩きたい気分だった」

 消化不良のままのエネルギーは身体の中に押し留めておくにはあまりにも大きなもので、どこかへと、自らの足で行きたかった。どこへ行くのかが決まっていなかったとしても。

 夏の中を揺蕩うようにして、歩いて行く。見知らぬ土地の暗い道に対する不安は、隣を歩く遠羽のお陰で全くといっていいほどないものだった。今なら、どこへでも行けるような気がする。そんな感覚が錯覚に過ぎないことは分かっていても、そうした茫洋とした万能感が身体の中にはあった。

「なんとなく、分かった気がする。私たちがどうして別れることになったのか」

 彼女は思い出したように唐突に呟いた。

「あの話からか?」

「うん」

 凪さんの話していたことから、遠羽の消した過去を知ることは出来た。そして、それが過去の遠羽に決定的な影響を及ぼしたことも。ただ、その二つを繋ぎ合わせることは今の僕には不可能で、答えは保留にしておいたままだった。

「どうして分かったんだ?」

「消した過去であったとしても、私は私だから分かるんだよ。多分、私だったらそうするだろうし、もしそうしたら君との関係は途切れていただろうなって」

「僕には、分からない。君のことが大切だったなら、何があっても君のことを助けるべきだっただろう」

「そうだね、笛吹君は私のことを助けてくれようとしたんだと思う。ただ、きっと私がそれを拒絶したんだ」

「拒絶?」

 思ってもみなかった言葉が返されて、思わず反芻する。どうして、拒絶をする必要があるのだろうか。寄り掛かることが出来ないほどに、僕という人間は昔から頼りないままだったのだろうか。

 しかし、その懸念がかたちを持つよりも先にそれを感じ取った遠羽は「違う」と否定する。

「君が考えているように、君のせいということじゃない。これは、私が私を信じられなかったからなんだよ」

 どこか自罰的な色を帯びた言葉を紡ぎながら、それでも彼女は変わらない表情のままで話を続ける。蝉も眠り始めたのか、既に辺りは彼女の声と風の音がするだけで、他には何も響いていなかった。

「昔から、誰かに弱い部分を見せることが苦手だった。隙を見せればそこから自分が崩れていってしまいそうで、いつの間にか大丈夫な自分を作ることが上手くなっていたんだ。そういう自分を見せる必要がなかったからこそ、笛吹君との関係は気楽で、どうしようもなく嬉しかったんだけど、そういう癖みたいなものはやっぱり抜けないでしょ。だから、君に弱いところを見せないようにしていたんだと思う。虐められても平気な顔をして、なんてことないように振る舞って。でも事故に遭って、その演技にも限界が訪れて、だから君を拒絶した。君から拒絶されるのが怖かったから」

「拒絶されるって、するわけないだろ」

 僕には記憶がないけれど、そうした側面を知って拒絶をするわけがないということくらいは分かる。いや、僕に限った話ではなくて、一定以上の親密さを持った人間に対して、弱った部分を見て失望をする人間が居るとは思えない。仮にそういう感情を抱くのだとすれば、その関係は仮初のものなのだろう。

 しかし、遠羽は自嘲的に笑う。

「そうだね、拒絶はされなかったのかもしれない。でも、今まで君と仲良くしていたのは強く、自分を保って世界と戦い続けてる私で、くだらない現実の醜さに躓いた惨めな姿を好きな人の前に晒すことは、とても恐ろしいことだったんじゃないかな。今の私でも、同じことをする気がするから」

 僕は他人だからこそそんなことはないと軽々しく言えた。けれど、当事者からすれば、他人の感情なんて分からない。不安はどこまでも自分の中で肥大化して、制御をすることが出来なくなる。窓の内から見下ろしているだけの人には、嵐の中でたどたどしく歩きながら風に立ち向かう人間の苦痛は理解することが出来ないのだ。

「もしかしたら、少し経てば落ち着いたのかもしれない。君はそんなことをするはずがないって気付いたのかもしれない。でも、多分気付いた時には遅かったんだよ。既に君を決定的に拒絶してしまっていて、それはもうどうしようもないものだった」

 そうして、遠羽字は僕の前から姿を消した。

 僕からしてみれば、それは突然のことだったのだろう。今、彼女の話を聞いて、彼女の視点から見る世界を知って納得をすることが出来たけれど、暴力的にラジカルな現実と向き合った当時の僕がその事情を汲み取ることが出来たとは思えない。それは一種の裏切りとさえ思えて、ひどく傷付いたはずだ。

 そして、傷は深いほど忘れることが出来ない。形骸化した感情は呪いだ。別れらしい別れすら出来ずに離れてしまった幼馴染のことを想い続けることはきっと想像することすら出来ない苦痛で、僕は記憶の削除に手を伸ばした。それが自分を裏切ることになると分かっていても、そうでもしなければばらばらになってしまうと思ったから。

「それで自分の罪を背負って生きていければ良かったのかもしれないけど、私には君が必要だったんだ。私という機構において、笛吹冬司という人は欠かすことの出来ない歯車だった。だから、代替品で補おうとした。傍に居てくれなくてもせめて拠り所にすることが出来るように」

 それで自分を誤魔化して生きていくことが出来れば良かったのかもしれないけれど、僕にもまた彼女が必要だったのだ。例え届かなくても、理想に手を伸ばすことは祈りだ。けれど、取りこぼさずに済んだかもしれない可能性と向き合い続けるのは果てのない後悔で、地獄に似ている。だから、記憶を消したのだ。

 僕の中には既に存在しない出来事のはずなのに、感情はやけに生々しさを保ったまま僕の中に現れる。記憶は失われても、魂に染みついたものは拭えないのだろう。

「もっと私を、君を、信頼することが出来ていれば良かった。あるいは、いっそ軽傷だった時に折れることが出来てしまえれば良かった。私は、どうすれば良かったんだろうね」

「……どうすることも出来なかったさ。「もしも」も「けれど」も「あるいは」も、全ては過ぎ去ったものだからこそ与えられる言葉であって、振り落とされないよう必死に現実にしがみついているその時の自分からしてみれば、選択の可能性なんていうものはあるようでなかったんだよ」

 そうすることしか出来なかったのだから、現実なのだ。それ以外のものは全て空想に過ぎないのだと、後悔の痛みを覚えることが出来たからこそ僕は思う。

 月の光がやけに明るくて、夜が深まり始めた道の中でも彼女の横顔ははっきりと見ることが出来た。その表情は哀しみや強さのような、言葉にしやすいものではなくて、ただ疲れたような、複雑な人間らしい表情をしていた。それが、当然なのだ。直視した過去は目を背けたくなるようなものではあれど、彼女の中には実感が何もない。だからこそ、体温の籠った生の感情を発露することは出来なくて、残るのは情報の濁流に晒された後の虚しさと疲れだけだ。

「ねえ」と言って遠羽は立ち止まる。振り返って、僕の方を見た顔は月の光に照らされてよく見えるはずなのに、その表情の裏にどのような感情があるのかを読み取ることが出来ない。

「私たちはこれから、どこに向かえばいいのかな。いやそもそも、同じ道を歩いているのかな」

「同じ道は、歩けているさ。確かに、僕たちは今まで似たような風景の、けれど決定的に違う道を歩いていた。過程を共有することは、もう出来ないんだろう。ただ、再び会うことは出来た。ばらばらになった後でまた道は交差し、同じ道を歩いている」

 様々なものを通過して、得られた結果はそれだけだ。けれど、そのたったひとつの結果が大事なんじゃないだろうか。振り出しに戻っただけなのかもしれない。ようやく、これで何かが始められるという状態に過ぎなくて、誇れるようなことではないのかもしれない。それでも、マイナスからゼロに戻すのは途方もないことであり、他の人間が何を言おうと僕たちが為したことは素晴らしいことだった。意義のあることだった。

「でも、同じ道を歩いていても遠く離れていて、顔すら見えていないかもしれない。流れに流されるまま進んで、別の道を行くことはなくても、歩調は崩れてまたばらばらになるかもしれない。その時は――その時は本当の終わりなんじゃないかな」

 そうだろうと思う。別の道を通ったなら、また同じ道へ合流する点で交わることがあるのかもしれない。ただ、同じ道を異なる歩調で歩き続ければ、その乖離は決定的だ。いつかばらばらになって、もう二度と肩を並べて歩くことは出来なくなる。仮に奇跡と呼ばれるようなことが起こって再び顔を合わせることがあっても、その時に出会う二人は昔のままの二人ではなくて、違う二人なのだ。

「確かに別れは決定的なもので、哀しむべきものなのだろう。ただ、それは自然なことなんだ。僕たちが特別というわけじゃない。誰しもがいずれ別れることになる。別れないままで、一生同じ道を同じ歩速で進み続けることが出来る関係は特別なものなんだよ」

 別離だけが人生ではないけれど、人生に別離はあるべきものなのだ。何も変わらないままの関係というのは、虚構の中にしか存在しない歪なものなのだから。

 遠羽は終わりを肯定するような僕の言葉に、表情を歪める。哀しいほどに切実なそれは僕の心の深いところにまで落ちて、感情を揺らす。僕があっさりと終わりを肯定することが出来たのは、今までの僕たちの関係を知らないからであり、また、別れを経験していないからなのだろう。彼女の中にあった別れは虚構のものであっても、彼女にとっては真実だった。偽物であっても、痛みを確かに知っている僕と彼女では、別れに対する感覚は異なる。もしもその痛みを知っていたのであれば僕も残酷に言うことが出来なかったのかもしれない。

 ただ、だからこそ良かったのだと思う。終わりを受け入れなければ、現実を受け入れなければ、僕たちはきっとこれからも進めないままなのだろうから。

 人は痛みを覚えて、乗り越えて生きていく。突き詰めて言えば、生きるとは痛みを覚えるためにあるものだ。痛みの欠落した生に実感はなくて、空虚な快があるだけでは、生きているとは思えない。

「……終わりがあることは、揺るがない現実だよ。始まりがあるなら、終わりは受け入れて然るべきなんだ。何もかもが、いつまでも続くというのは夢物語に過ぎない。でも、だからといって、終わりが訪れるのだから何も始めてはいけないなんていうこともまた、馬鹿な話だろう」

 僕は終わりを求めているわけではない。ただ、あるものを受け入れるべきだと思っているだけなのだ。

 虚構に縋っていた今までの自分が嫌いだというわけではない。そうしなければ、生きていけない人間も居ることは、僕が一番分かっている。過ぎ去ったものだからと過去を軽んじて扱うことは、愚かなことだ。

 だから僕は過去の自分を認めたうえで、進んで行こうと思う。現実だけを見つめていては苦しくて生きていけないかもしれないけれど、あるものを否定することなく、しっかりと足下にあるものを踏みしめて進んで行くべきなのだ。足取りは遅いのかもしれない。それでも、転ぶことはないのだろうから。

「君が知っている過去のように、完成された関係に落ち着くことは出来ないのかもしれない。僕と君は一度決定的に分かたれてしまっていて、その傷は癒えないんだ。その罅が原因になって、簡単に崩れていってしまうかもしれない。なくなってしまうかもしれない。ただ、そうじゃないかもしれない。昔のようにはいかなくても、また新しい僕たちだけの関係が作られるかもしれない」

 悲劇的な可能性は目を惹く。果てがなく、その方が現実味を帯びているように錯覚させられるからだ。けれど、過度な悲観は過度な楽観と同じように現実味のないものだということを、人は往々にして忘れる。悲劇の可能性と同じだけ、喜劇の可能性もまた存在しているのだ。

「君には過去があって、僕には過去がない。その差は歪んだもので、互いに傷付くことがあるのかもしれない。それでもいいのなら、また新しく一緒に歩き始めれば良い。その先に何があるのかは分からないけれど、少なくとも一歩目は足を揃えることも出来るだろうから」

 失われてしまったものを取り戻すことは出来ない。ただ、その欠落を埋めることは出来る。そうして出来上がったものは、以前と同じではないのかもしれないけれど、それもまた完成されたものなのだ。

 遠羽は静かに僕の言葉を聞いてから、俯くように顔を逸らして「うん」と頷いた。

「昔の通りじゃなくてもいいから、傷付いてもいいから、私は君の傍に居たい」

「ああ、なら新しく始めよう。昔の続きではなくて、今ここに居る僕たちの関係を」

 彼女の表情は髪で見えないままで、けれど小さく頷いたことが分かる。僕は彼女の手を取って、握った。確かにここに居るということを証明するように、離れることがないように。

「君の強いところは尊敬しているけど、僕は君の弱いところの方が好きだよ」

「何それ。意味が分かんない」

「そうかな」

 強く振る舞うことが出来る気高さは美しいものだ。けれど、弱くても立とうとする強かさは、代え難く素晴らしきものなのだろう。無機質な美しさよりも、人間的な素晴らしさの方が、僕は好きだ。

 遠羽が顔を上げると、涙を流しているのが分かる。それは、彼女が嫌い、隠して来た弱さの象徴なのかもしれないけれど、月の下に流される涙は誰にも知られていない星のように綺麗だった。

「夏祭りの話をしたこと、覚えてる?」

「ああ、遠くから花火を見たっていう話だろう」

「あの時、私たちはまだ中学生だったんだ」

 その言葉が意味することは、その夏の記憶は偽りではない、本物の過去だったということだった。僕たちは共に、夏祭りから逃れ、花火を見たのだ。

 僕があの時感じたものは偽物ではなくて、本当に心の奥底に染みついた思い出の欠片だったのかもしれない。記憶を消しても拭えない、魂にこびりついた大切なもの。そう考えても、誰も失うものはないのだから、信じることにする。

「ねえ笛吹君。私さっき、向日葵が咲いているのを見つけたんだ」

「向日葵か」

「うん。小さなものだったけど、月明かりに照らされて強かに立っていた」

 遠羽の涙は既に枯れていて、頬に痕が残っているだけだった。その痕も、寂しさや弱さを象徴するものではなく、人間らしい強さを証明している。

「夏が死ぬにはまだ少し早いみたいだから、今度花火を見に行こう」

 夜の向日葵のように彼女は笑った。人が恋に落ちるのだとすれば、このようなタイミングなのかもしれない。ただ、今安易にそれを口に出すことは陳腐な気がして、「ああ、行こう」と言って誤魔化すように空を見上げる。

 美しく輝く月にも、今なら手が届くかもしれない。過ぎゆく夏の中で、そう思った。

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