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 電車は先日も訪れた方面へと進んで行く。彼女の通っていた高校があった場所に近い。ただ、今度は当てのない彷徨をしようとしているわけではない。明確に、向かうべき場所が定まっていた。

「高校に入って暫くして、通学の時間も考えてっていう理由で叔母の家で暮らすようになったんだ。高校の頃に何かがあったのだとするなら、あるいは中学の最後に何かがあったのだとすれば、何かを知っていると思う」

 僕には僕の過去を証明してくれるような人が居なかったけれど、遠羽には居たようで安心する。それで救われるほど人生は単純ではないけれど、自分を証明してくれる他人が居るということがどれほど幸福なことか、今の僕には痛感出来るようになっていた。

「その転居も、今になって考えれば不自然なことなのかもね。数時間の通学くらい、特別なことでもなんでもないんだから」

「それは牽強付会な考えだよ。数時間の通学は可能だろうけど、楽な方が良いに決まってる。そこに不自然さを見出すのは、結果を知っているからに過ぎない」

 作られた過去を、消された過去を、自らの力だけで見つけることは出来ない。自らの中に存在している過去は確かなものだとして進み続けなければ、人間は生きていくことなんて出来ないのだから。

「ねえ、笛吹君。あの手紙って、読んだよね」

「ああ」

「あー、やっぱりそうだよね」

 遠羽はどこか気恥ずかしそうに目線を逸らす。そう言えば、読んだとしてもそれを伝えないようにと、追伸に書いてあったことを思い出す。ただ、これに関しては彼女から聞いてきたのだし、不問としては貰えないだろうか。

「そんなに妙なことは書かれてなかったけど」

「別に、内容はどうでもいいの。いや、どうでもいいっていうか単に覚えてないだけなんだけど、あれを見られたっていう事実が私にとっては憂鬱なんだよ」

「どういうことだ?」

 内容ではなくて、手紙を書いたこと自体を後ろめたいと思っているようだけれども、手紙を書くこと自体は何らおかしな、隠し立てるようなことでもない。意味を把握し損ねていると遠羽は渋い顔をしながら、小さく嘆息した。

「若い頃の勢いに任せた過ちとか愚かさみたいなものって耐え難いものでしょ。そういうことだよ」

「訂正することの出来ない自分の過ちに嫌悪感を覚えることは分かるよ。ただ、別に手紙を書いて本に挟むことは恥じらうようなことじゃないだろう」

「手紙を書くっていう行為が問題なんじゃなくてさ、君に宛てた文章を改めて見られるっていうのが恥ずかしくて堪らないんだよ。どれだけなんてことのないことを書いたつもりであったとしても、感情ってそこに塗りたくられて嫌でも明らかになるんだから」

 昔の感情の痕跡を目の当たりにするのは確かにくすぐったいような感覚のするものだけれども、堪らないというほど恥じらうべきものだろうかと考えたところで「ああ」と小さく声を出し、納得する。彼女は、僕のことを好きだと言ってくれた。そのうえであの文面を見れば、というよりも異性から渡された手紙だと思って改めて向き合ってみれば、捻くれた恋文のように見える。

 好きだった相手に渡した手紙を掘り返されることは、確かに苦痛なのかもしれないと思う。ただ、その考えはあくまでもぼんやりとした想像の域を出なかった。誰かを好きになったような過去が、僕には存在しないのだから。

 遠羽と話をしていた頃の僕は、彼女のことが好きだったのだろうか。底のない虚のような孤独を埋めれくれた彼女のことを好きにならない方が不自然なことなのかもしれない。それなのに、互いに好意を抱いていたのに踏み出さなかったのは、僕らしい結果だったのだろう。かたちのあるものは終わってしまうのだから、せめてかたちにしないようにすることで留めようとした。

 その結果としてばらばらになった僕たちを繋ぎ留めるものはなく、失われてしまったことを考えれば、愚かなことだ。けれど、俯瞰的に過去として回想しているからこそ言えることであって、あの頃の僕にはそれが精いっぱいだったのだ。否定をするつもりはない。

 終えてしまったものに対して、既に僕の中には存在しないものに対して、僕は何が出来るのだろうかと考えていると遠羽の手が強く握られていることに気が付く。

「……大丈夫か?」

「大丈夫、ではないかも」

 遠羽は力なく笑う。先のらしくない、諧謔的な色を含む言い回しはもしかすれば彼女なりの鼓舞だったのかもしれない。緊張を誤魔化すために喋りながら、けれど不安を隠すように他の感情で覆い隠そうとする。それは弱みを見せないためという孤独によって作られたものであるとともに、もっと単純に自らを保つためのスタンスでもある。

 ただ、それは独りだからこそするべきものであって、傍に誰かが居るのであれば寄り掛かるべきなのだ。記憶のない、過去を消した僕は、その誰かには足り得ないのだろうか。

「正直に言うと、怖いところがある。わざわざ一度消した過去なんだから、知って全く後悔をしないなんていうことはないんだろうし、なかったことにした過去なんて、本当は知るべきではないのかもしれない」

 それでも、と彼女は揺らぎのない瞳で僕の奥底を見た。

「知らないと、私は前に進めない気がするから。今度こそちゃんと前を見て進みたいんだ」

 遠羽の声に込められた強さは孤独を覆い隠すためのものではなくて、芯のある確かな強さがあった。

 彼女の言う通り、後悔をすることにはなるのだろう。どれほど自信を持っていた行動でも「もしも」は付き纏う。過去とはそういうものだ。人間とはそういう生き物だ。

 けれど、それを理解したうえで進もうとするのであれば、齎される結果は変わるのだろう。後悔をただ後ろめたいものだと思うのではなく、結果だと受け入れて進むことが出来るのであれば。

「君こそ、本当に良いの。過去を知りたいと思うのは私のエゴで、もしかしたら私よりも君にとって知りたくない事柄かもしれない。無理に付いて来る必要はないんだよ」

「過去を知りたいと思ってるのは僕も一緒だ。自分を裏切ることになったからこそ、どうしてそうなったのかを知らない限りにはまた自分を信じることは出来ない。それって、不幸なことだろう」

 自分すらも信じることが出来なくなれば、何も信じることなんて出来やしない。世界の全てが敵になる。自分を幾ら嫌っても良いだろうけれど、自分を疑い始めることは自殺に似ている。そこは先のない、底なしの地獄だ。

「でも、行ったとして本当に分かるものなのかな。原因が遠羽のものではなくて、僕の個人的な問題だったのだとすれば、君の叔母を訪ねても何も分からないだろう」

「君が原因となるような問題だったのだとすれば、君は記憶を消さなかったでしょ。記憶の改竄を恨んでいた以上、自分が起こした問題を抱える覚悟を持っていたんだろうから。君自身の力ではどうすることも出来なかった問題だからこそ、君は記憶を消すに至った。少なくとも、私はそう思ってる」

 遠羽の予測は正鵠を射ているような気がした。勿論、覚悟をしていても人間は自らの許容範囲を超えた過度な衝撃には耐えられない。いざ本当に辛く苦しい出来事に直面をすれば、原因の所在は関係なく僕は記憶を消すことになるのかもしれない。ただ、そのいざという時が来ないように、最善ではなくとも最悪だけを避けるような生き方をしている以上、そうした可能性は排して考えた方が分は良いのだろう。

 彼女は本当に、僕のことを知っているんだな、と思う。ただ話すような関係ではなくて、深い部分を触れ合うような関係でもなければ、そうした僕の傾向を考えることは出来ないのだろうから。

「それでも何もなかったら、また振り出しだね。何も分からないまま」

「そうなったら、また探せばいい。どこかに、欠片くらいは残されているはずなんだろうから」

「その時は、私も一緒に居ていいかな」

「居て欲しい。君がそれでいいなら」

 僕には一切、僕たちについての過去の記憶がない。だからこそ、失われた過去がどのようなものであったとしても映画を見るように俯瞰をして受け取ることが出来る。ただ、彼女にはそれがある。一定の時期を過ぎれば偽りのものになるとしても、確かな本物の過去が存在しているのだ。目を逸らしたくなるような事実を確認してより深い傷を負うことになるのは、彼女の方だろう。

 ただ、彼女は頷いた。既に、彼女の中に決意があることは分かっていて、杞憂だったかと思う。

「強いな、遠羽は」

「私は強くないよ。強くないから、今こうして君と一緒に居る。君と一緒なら、大丈夫だから。耐えられなくなったとしても、また立ち上がれるから」

 彼女の言葉には温かなものが込められていて、ああ、そうか、と気付く。記憶を失っても、彼女は僕を頼ってくれている。彼女なりに、他人に寄り掛かっている。

 期待を寄せられることは、好きではない。それが僕には未だ実感の湧かない幼馴染からのものだとすれば尚更、好きになれないはずなのだ。それなのに、どこか嬉しさのようなものを感じる。僕もまた彼女を信じることが出来たからこそ、信じられることが重荷ではなくなっていた。

 車窓の外の風景は止まることなく流れていく。夕陽の眩しさから目を逸らしながら、息を吸う。真実が曝されることは、明らかになることは、必ずしもいいことばかりではない。それでも僕たちは進んで行くのだ。

 高鳴る鼓動を抑えるように手を強く握った。掌に押し付けた指の腹はどくどくと脈打っていて、自分が生きていることを実感する。僕は僕が人間であることを、ようやく知る。

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