If Summer comes,

1

 待ち合わせの場所に決めたのは、最初に話をした公園だった。落ち着いたカフェのような場所よりも、僕たちにはこうした外れた場所の方が合っている気がしたのだ。

 持ってきていた本を読む気にはなれなくて、ベンチに座りながら空を眺める。目が明くほど青い空とじりじりと僕の中の何かを削っていくような陽射し。コンクリートに囲われた灰色の街でも蝉は健在で、耳からどろりと夏が這入って来る。

 遠羽字に対して話すことは山ほどあるのだろう。僕の仮定した現状を説明するだけでも複雑で、個人的な感情をそこに混ぜるとすれば有り余った僕の時間でも足りないかもしれない。ただ、何を言えばいいのかは今になっても何も決まっていなかった。ぼんやりと頭の中を支配するのは彼女と再び話すことが出来るということに対するひとまずの安堵だけで、それ以上の感情や言葉は未だ不定形なままで何にもなっていない。

 尤もらしい用意した言葉よりも、まとまっていない熱の籠った言葉の方が良い気がした。そうすることが、一種の誠実さであるような気がしたのだ。言葉が見つかっていないことを是とするのは、単なる怠慢に過ぎないのかもしれないけれど。

 今、僕は遠羽字をどう見るべきなのかが分からない。本に挟まっていた手紙から、僕たちが特別な関係だったことは確かなことだ。けれど、それは過ぎ去った時間の中においてことであり、僕にはその記憶すら存在していない。存在していた過去の影を見つめても、今の僕にとって彼女は突然現れ、僕のことを好きだと言った他人に過ぎない。

 取り戻すことの出来ない失ってしまったものに対して、人は何を思うべきなのだろうか。それが単なる欲求であれば祈りになるのかもしれないけれど、相手が人間である以上、何かを求められ、何かを差し出さなければいけない。僕は彼女に対して、虚しさ以外の何を与えることが出来るのだろうか。

「久しぶり」

 思考は、その五音によって途切れる。視線を空から落とすとそこには以前と変わらないような表情をした遠羽が居た。

 再び話すことが出来たことによる安堵、というわけではないのだろう。僕が送った文面は極めて簡素なもので、捉えようによってはこれが全ての終わりだとも思える。

 彼女は、哀しいほどに強いのだ。孤独は、一度でも隙が出来ればそれまで築いたものがどれほど強固なものであったとしても途端に瓦解する。だから、その隙をせめて他人に見せないように、世界に対して本当の感情を見せないようになる。孤独によって塗り固められた心は気丈に振る舞うことに慣れ過ぎている。

 ただ、その強さは見せかけのものに過ぎない。何があっても動じないような耐久性も、衝撃を受けてもすぐに立ち直ることが出来るしなやかさもない。ルパートの雫のようなものだ。美しく、強いものであることは確かだけれども、そのすぐ裏には脆さが隣接している。あるいは、それこそが本質なのだろう。

「ああ」と絞り出したように頷くと、遠羽は自然に僕の隣に座る。これから何を話されても構わないとでも言うように。波打ち際で垣間見せた彼女の感情を考えれば、そう思っているはずはないのに。

「君が通っていたと言っていた高校に行ったんだ。僕と君が会っていたと思えるような場所にも」

 その発言は彼女にとって予想をしていなかったもののようで、戸惑ったような表情をする。脈絡もなかったのだ、当然の反応だ。ただ、悠長に回りくどい話をするのは適したことではないように思えた。するべきは確認ではなくて、その先にあるものについてなのだろうから。

「僕はその高校について、そしてその周りの土地について、何も知らなかった。道も、名前も、一切」

「……それは、笛吹君が記憶を消したからでしょ」

「記憶の消去によって消すことが出来るのはエピソード記憶だけだ。意味記憶まで消すことは出来ない」

 彼女は静かに息を飲む。僕が言ったことの意味を理解したのだろう。意味記憶だけは残り続ける以上、駅の名前も道も、何もかも覚えていないということは有り得ないのだということを。

「僕と君は高校時代を一緒にしていなかったか、あるいは君が通っていた高校とは別の高校を僕に向けて提示したのか。いずれにしても君が嘘を吐いたという事実には変わりがない。そして、僕にとって嘘を吐かれるというのはとても致命的なことだったんだ。だから、拒絶をした」

 そうせざるを得なかった。

 彼女はゆっくりと僕の言葉を咀嚼する。理解をすることと受け入れることはイコールじゃない。世界の誤りの多くは理解が出来なかったことより、受け入れることが出来なかったがゆえに起こるものなのだから。

「私は、嘘を吐いているつもりはないよ」

「分かってる。嘘を吐いているつもりはないのかもしれない。ただ、真実を語っているつもりだったとしても、事実とは異なるものを騙っているケースはある。現実ではない、虚構を見つめている可能性はある。そうだろう?」

 世界の中で、事実はひとつだけだ。それは揺るがない。しかし、真実は世界を眺めた視点の数だけ存在する。

 ただ、認知している過去と現実の齟齬は世界に対する解釈の違いで済ませることが出来ない。異なる世界を見ていたとしか、有り得ない。

 異なる世界という空想的な表現も、今の時代であれば簡単に理解をすることが出来る。それはあまりにも広く、世界に広まっている。遠羽の表情が歪んだ。直視し難い現実を厭うように。

「君は記憶を作ったんじゃないか」

 大切に抱え込んでいたものを、それは偽物なんじゃないだろうかと突きつけるのは最低にグロテスクな行為だと思う。それでも騙し騙し現状を延長するのは先のない緩やかな自殺なのだ。

 高校時代を僕と共に過ごしたという存在しない過去を、彼女は自らの頭の中にだけ、作り出した。だから、現実との乖離が生まれる。彼女が語った街に僕が行ったことがないのは、僕の記憶の問題ではなくて行ったことがないのが事実だったからだ。

 その仮定を推し進めれば、ひとつの些細な問題にも解が与えられる。

 現実の人間を記憶の中に作ることは出来ない。それが記憶を作る際のルールだ。しかし、全ての人間の情報を管理することが不可能な以上、現実に存在している人間という境界線は曖昧で、不安定なルールであることも確かだった。

 最初に会った時、彼女が不自然に僕の名前の漢字の表記を間違えたのは、そういう風に設計したからなのだろう。笛吹冬司という人間は現実に存在しているから、偶然同じ名前だったという言い逃れをすることが出来るように音は同じで、けれど漢字の異なる碓氷という苗字として彼女の中では記録されることになったのだ。

「君が高校時代に会っていたと記憶している男は、本当に僕なのか。僕に似た、誰かじゃないのか」

 偽りの記憶を作ることが出来るほどに、人間の記憶には柔軟性がある。元々存在していた笛吹冬司という人間に似た人間を記憶の中に作り、限りなく等しいその二人を繋げることは、それほど不自然なことでもないだろう。

「そんなこと」

 ない、という否定の言葉はかたちにはならなかった。表情は気丈なままで、けれど短く漏れた言葉の端には硝子のような脆さがあった。

 偽りの記憶と認識の錯誤。明かされてしまえば単純でなんてことのない事実だけれども、誰もが自分の付けている認識のレンズに気が付くことはない。それを外すという考えに、思い至らないのだ。

 遠羽は僕の方を向いて自虐的に笑った。既に孤独の壁は決壊していて、今にも崩れそうな表情をしていた。

「なら、私の中にあった全部は嘘だったの? 私は、ありもしなかった記憶に縋って、話したこともなかった君に恋をしてたの?」

「それは違う」

 自分の不器用さが嫌になりながら、せめて彼女の言葉をすぐに否定する。順序立てて話をすることは論理的に誠実であるように思えるけれど、いたずらに不安にさせる必要はなかった。

 高校時代の彼女の記憶は、偽物だったのだとしよう。そうすれば、彼女の通っていた駅の周辺の記憶が全く欠落していることは理解をすることが出来る。しかし、それ以前の記憶はどうだろうか。彼女の語った高校以前の、笛吹冬司と遠羽字の記憶までも偽物なのだろうか。

 全てが嘘なはずがない。僕たちは殺人を犯したように証拠を残さないようにしていたけれど、それでもひとつだけ、残されたものがあった。確かな証明が、世界に残されていた。

「この本、覚えているだろう」

 そう言って僕は鞄から厚い本を取り出す。それは、夜の国を目指す、独りの男の旅の物語だった。

 遠羽は表紙を見て、息を飲む。見覚えがない物に対する戸惑いではなく、現れるとは思っていなかった既知の物に対する驚き。その反応が、彼女もまたこの本を覚えていることの証左だった。

「その本、どうして――」

「気に入っていた本の何冊かは持ってきていたんだよ。この本も、そうして持ってきていたうちのひとつで、先日久しぶりに読み返したんだ。そうしたら、これが挟まっていた」

 そう言って僕は本の中から手紙を取り出し、彼女に示す。それを見た時の遠羽の表情は、率直に言うなら面白いものだった。驚きと、それから恥じらいが混じったような、良い意味で遠羽らしくない、人間らしい表情。昔、僕がこの本を貰った頃。彼女は今よりもこうした表情を見せていたのだろうか。

「私の、手紙」

「赤の他人から本を貰うなんて酔狂なことを、僕はしない。存在しない友人から手紙を受け取るなんていうことも有り得ない。僕たちの関係は確かに、存在していたんだよ」

 一部分が嘘だったからといって、全てが嘘になるとは限らない。高校時代、僕たちは一緒に居なかったのかもしれない。ただ、それ以前に僕たちの間には確かなものが存在していたのだ。美しい小説を読んだ後で、この人にも読んで欲しいと思って貰えるような関係が。

「でも、私の記憶は偽物なんでしょ」

「そうだ。嘘を吐いているわけではなくて、意味記憶の存在を考えれば僕に君との過去は存在しなかったものだと考える方が自然だろう。ただ、それもまた簡単なことだったんだよ」

 一度経験をしたつもりになっていても、それを認めることは僕にとって苦しいことだった。今度こそ疑念ではなく確信として、それも他人から言われるのではなく自らの思索の結果として、受け入れる。苦く、辛いことだ。

 それでも、現実を、過去を、あるがままに認めなければならない。そうしなければ再び、僕は僕を裏切ることになるのだから。

「君が記憶を作ったように、僕が記憶を消したこともまた、確かなことなんだよ。僕たちはある時期に出会い、別れ、僕は記憶を消し、君は記憶を作った。恐らくは、そういうことなんだ」

 だからこそ、過去と現実は交わらなかった。僕たちはそれぞれ、別の世界を見て、別の過去を生きていたのだから、交わるはずがなかったのだ。

 高校時代の記憶が偽りだとするのであれば、本来の別れは高校の卒業を機にではなく、中学生の時点で起こったことだったのだろう。その理由は、既に完全に分からない。過去を消した僕にも、過去を偽りの記憶で覆い隠した彼女にも、分かる術はない。

 遠羽は事実をゆっくりと噛み締めるように沈黙の中で遠く、空を眺める。僕も倣うようにして遠くに見える入道雲を見た。こうして並んで、僕たちは同じ景色を見ることが出来ているのだろうか。ただ確かに言えることは、見え方は異なるとしても、今の僕たちは同じ世界を見ているということなのだろう。

 ふと横を見ると夏の風が彼女の髪を揺らして、表情を覆い隠した。複雑に絡まったような現実に対して、彼女は何を思うのだろうか。

 風が凪いだ。夏に反響する蝉の声の中、透き通るような声で「笛吹君」と彼女は呟く。

「お願いがあるんだ」

「……僕に出来ることなら」

「一緒に付いて来て欲しい場所があるの。多分、そこに行けば、私が隠したかった過去が、私たちが別れた理由が、分かると思うから」

 孤独で誤魔化したような強さではなく、確かな覚悟と決意の色を込めて、彼女はそう言う。

 夏は何かが終わる匂いがする。静寂を破るように吹いた風を感じながら、そう思った。

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