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 集中が切れ始めたのか、酩酊のせいか、半分より先になると読むペースが一気に落ちた。一度眠り、目を覚まして再び本を読み始める。

 記憶の中の結末は茫洋としていて、正確には覚えていなかった。何度も読み返したはずの小説なのに忘れているのは、この小説の掴みどころのない不思議な雰囲気が原因なのか、それとも単に僕の記憶力の問題なのか、どちらなんだろう。

 何度か読むのを中断して休みながら、物語はようやく結末へと至る。眠れぬ男は、夜の国へと辿り着く。

 ああ、そうだ、と妙な納得をする。この物語は、終わり方がいまひとつすっきりとしない部分があったのだ。ハッピーエンドというにも、バッドエンドというにも曖昧な終わり方。それはある種、読者任せで語り部としての仕事を放棄した行為のようにも思えるけれど、この男の旅の終着点はこれ以外にないものだと、再び読んでも思う。独り世界を流浪し続けた男の結末は、それが例え物語であったとしても規定されるべきものではないのだ、きっと。

 物語が終わると、訳者による解説が挟まれていた。基本的に僕は、解説は読まない。それは物語を読み終えた後はその余韻に浸っていたいという感傷的な趣味によるものでもあるし、個人的な感想を衒学的な言葉によって汚されたくないというくだらない拘りによるものでもある。ただ、今は不思議と解説を読みたい気分だった。それは、せめて世界に見つけられていないこの小説を語り合える人間が――時代を越えるとしても――居ることを確かめたかったからなのかもしれない。

 個人的に好感を持ったのは、この解説は物語の解説を放棄していたところだった。いかなる作家であるかという説明に終始をしていて、訳者の個人的な感情や見解は丁重に隠されているようにすら思える。あくまでも、自分はこの物語を伝えるための存在に過ぎず、それ以外のことを語るつもりはないという姿勢はどこか禁欲的とすら思えるものがあった。

 アメリカ出身のこの作家は、邦訳されていない幾つかの短編を除けば、この一篇の小説しか書き残さずにベトナム戦争の最中命を落としたらしい。ただ、生きていれば他にも小説を書いていたのかと問われるとそれはまた別の話で、死に急ぐように前線への配置を自ら志願したことを考えると、彼は死を望んでいたのかもしれない、と書かれていた。

 今まで、あらゆる人の死に現実感を覚えることはなかった。画面越しに数字として表される死は実感からあまりにも離れたものであったし、母の死に実感を覚えるには当時の僕は幼過ぎたうえに、父への憎悪によりその感情は濁り過ぎていた。

 ただ、長い小説を読み、同じ世界を共有していたからか、この作家の死に対してはどこか虚しさのようなものを感じる。死に対する感情は寂しさというよりも、虚しさと形容した方が正確なのかもしれない。

 簡素な解説を読み終えて本を閉じようとしたところでふと、最後の頁に何かが挟まれていることに気が付いた。栞というにはあまりにも大きく、そして厚い。それが挟まれた頁を開くと、そこには一枚の紙が折りたたまれた状態で閉じられていた。紙の裏から薄く、文字が連なっていることが分かる。

 最初は、古本を買ったタイミングで挟まっていたものだと思った。時折、古本には書き込みや手紙など、以前の所有者の名残が残っていることがある。以前も似たようなものが挟まっていたことがあったのだ。僕自身が何かを挟んだ記憶はなくて、消去法的にそのようなものだろうと決め込んでいた。けれど、何気なく開いたそれの冒頭に「笛吹君へ」という文字が書かれていて、動きを止めることになる。

 それは明確に僕に向けられた手紙だった。けれど、手紙を貰うような人間が居た記憶はない。仮に遊上や父が何かの悪戯で書き、挟んだのだとしても、彼らの筆跡とはあまりにもかけ離れているように見える。

 思考が止まった後で砂漠を彷徨していたものが水を求めるように文字を追い始める。考えても、後ろ暗い非生産的な思考しか生まれないことは分かっている。真実は、この手紙の中にあるのだ。急がなければ文字が消えるとでもいうように、僕は急いで手紙を読み始める。


 笛吹君へ

 取り敢えず筆を執ってみたけれど、手紙を書くこと自体が初めてなのでどのように書きだせばいいかが分からず、妙に堅苦しい始まりになってしまいました。本当は手紙なんて使わずに口頭で伝えればいいことなのかもしれないけれど、声では上手く伝えられないような気がして、こうして筆を執っています。そういう種類の物事って、世界に幾つかあると思うんです。

 相変わらず堅い、いつもの私らしくない書き始めだけれども、書こうとしていることはそんなに特別なことじゃありません。読まれなくても、何も問題なんてないくらい。だからこうして、本の一番後ろに挟みました。君は解説を読まないと言っていたから、もしかしたらこの手紙に気が付かないかもしれないし、それならそれで良いんです。言葉は勿論誰かに伝えられるためにあるものだけれども、伝わらなかったとしても表すことに意味があることもあると思います。祈ることに、意味はあるのだと思うのです。

 私は今まで、私以外にこの小説を読んだ人を見たことがありません。勿論、こうして出版されている以上世界のどこかに存在していることは確かなのだけれども、時折この小説を読んでいるのは私だけなんじゃないかと思うことがあります。それは、小さな優越感を生むと同時に、虚しさを感じるものです。美しいものを独りで抱え込むことは、秘密基地を作ることのように特別な嬉しさを生むものだと思いますが、何か綺麗なものを見た時にそれを共有したいと思える人の顔が思い浮かぶ以上の幸福ってないと思うんです。そして、この本を読み終えた時、真っ先に思い浮かんだのは笛吹君の顔でした。

 この小説は回りくどく、残酷で、好きじゃない人も多いのだと思います。素晴らしい作品として世界に傷痕を残すことが出来るのは内容以外に運が絡むものだとも思いますが、この作品が古本屋の隅で世界から忘れ去られたように埃を被っていたのは、そうした運によるものというよりも独特の世界観と文体によるものなんでしょう。

 私と君の小説の好みはよく似ています。だから、君も好きだと思って贈ることにしました。高いものではないし、もっと中学生らしい贈り物もあったのかもしれないけれど、私にとってこの小説は大切なもので、これ以上君に贈りたいと思えるものはなかったんです。

 もしかしたら、君はこの小説を嫌いだと言うかもしれません。それはごく自然なことだと思いますし、仕方のないことだと思います。ただ、君もこの小説を好きだと言ってくれるなら、私にとってこれ以上の幸せはありません。人と人が完全に世界を共有することは不可能でも、少しだけ重なることが出来ることがあって、私は少しでも君と同じ世界を見ることが出来たらと思うんです。

 ごめんなさい、何を書こうかとも決めずに書き始めた文章だから伝えたいことはばらばらになっているかもしれませんし、そもそも伝えたいことなんてなかったのかもしれません。私はただ、君に向けて手紙が書きたかっただけなのかもしれません。それでもいつか、この手紙を読んだ時に君に言葉にすることが出来なかったようなものが伝わればと思います。

 追伸

 この手紙を読んだとしても、そのことは私に伝えないで貰えると幸いです。文章だからと滲み出た私の心の切れ端みたいなものを直視するのは、多分耐えられることじゃないと思うので。


 その手紙には差出人の名前は書かれていなかった。ただ、重力が働くような自然な力学で、その人物が誰なのかということははっきりと直感することが出来る。これは、遠羽字が書いたものなのだろう。

 一気に動揺が身体の中を走る。僕は、遠羽字と関係があったのだろうか。しかし、ならばどうして僕は彼女と歩いたはずの場所に関する意味記憶が一切存在しなかったのか。あの場所で会っていなかったにも関わらず、彼女は嘘を吐いたのだろうか。そんな嘘を吐く意味が、どこにある。彼女は騙すつもりにしても、それが真実だったとしても、嘘を吐く必要なんて、ないはずだ。

 ならば、何の必要があったのだろうか。分からない。分からないけれど、問題が再び振り出しに戻ったのは確かだった。

 この手紙が大がかりな詐欺のためのマクガフィンでないのだとすれば、彼女と僕は本当に過去に会っていたことになる。けれど、彼女の言葉を信じるのだとすれば高校時代の僕は彼女と会っていない。真実と虚偽が同時に存在することは、有り得るのだろうか。そんな捻じれたような関係は、現実において許容されるはずがないのではないだろうか。

 彼女が嘘を吐いているのだとすれば、それにはどういう意図があるのか。そう、思考を始めて立ち止まる。行き詰った際、問題は反対の方向から見てみるべきだ。同じ事象でも、異なるアスペクトから覗けば解釈は全く異なり、そしてその異なる解釈の両方が真実となるのだから。

 彼女が本当のことを口にしていたとして、そのうえで現実と齟齬が起こる可能性は存在しているのか。彼女は嘘を騙っていたのではなく、真実だと思い込んだ、誤った事実を語っていたということは、有り得るのだろうか。

 昔であれば、そんなことはないと断言することになったのだろう。多少の認識のずれならともかく、ある時期、それも年単位の長い時間を誰かと共に過ごしたという記憶を取り違えることは、普通有り得ない。ただ、今となっては有り得ないとは言えない。そうした記憶の齟齬が生まれ得る技術を、僕は知っている。痛いほどに、経験してきている。

 かちり、とピースが嵌ったような感覚がする。空白ばかりだった過去にひとつの答えが埋められたことによって全体の像までも見えてくる。

 弾かれたようにスマートフォンを取る。ただ、急いで遠羽に連絡を取ろうとして、少しだけ思考を止める。急ぐべきではない。まだ、仮定に過ぎないのだ。何も証明をされていない、僕の空想の域に過ぎない。落ち着いて、息を吸って、吐いて、本当に目の前にあるものが確かなものなのかを確かめなければならない。偽りを受け入れてしまえば、今度こそ魂のようなものはばらばらに砕け散って、取り返しはつかなくなるのだろうから。

 ただ、手遅れになってしまう物事というのが、世界には存在している。運命というのはタイミングの言い換えに過ぎなくて、つまり一度でもタイミングを逃してしまえば二度と訪れない出来事がある。むしろ、世界なんてそんなものばかりなのかもしれない。

 他人から拒絶をされるというのは、人を絶望に貶めるには十分なことだろう。それが、自分が好意を向けている人間ならば尚更。

 彼女を拒絶したことを後悔をするつもりはない。あの時、僕は彼女を拒絶するほかになかったんだろうと思う。結局、人間の根底に染みついているのは利己性であって、生きている以上自分を大切に守っていくしかない。彼女が真実とは異なることを話していたのは確かなことで、僕は僕を守ることに必死だった。

 ただ、してしまった結果を踏まえてこれからのことを決めることが出来るということが、人間にとって大切なことなのだろう。

『会って話がしたい』と送るのが、僕にとっての精一杯だった。何を言えばいいのかも分からず拙い言葉を送ることしか出来なかった。

 僕に出来ることはもうなかった。あとは、タイミングが過ぎていないことを祈るだけだ。そう考えながら、手の届く場所にあった手紙の挟まっていた本を手に取る。

 誰も知らないと思っていたこの本は、僕以外にも読む人がいたのだ。いや、手紙を読むにむしろことは逆だったのだろう。彼女だけが知っていた本を、僕にくれたのだ。痛みを共有するように、孤独な世界を共有するために。

 固い表紙に纏わりつく冷たさは、しかし不思議とどこか柔らかいもののように感じた。

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