3

 目が覚めたのは、外が暗くなってからだった。どれくらい寝ていたのかは分からない。あるいは、寝ていなかったのかもしれない。ずっと眠っているような体勢のままで居ると意識と無意識の境目が曖昧になる。いつ眠り、いつから起きていたのか、自分でも分からなくなるほどに。酩酊の中で泥濘に沈むように眠ることが増えた最近では特にその傾向が深まっていた。

 外に出ようと思ったのは、鬱屈した部屋の空気に嫌気が差したからだった。今ここは、歪んだ人間が支配していた、あの家の空気に似ている。閉塞的な空間は閉塞的な思考を生み、思考を果てのないマイナスの螺旋へと誘うことになる。窓から入る夏の夜の風はいやに涼しく感じて、よれたカーディガンを洋服の山から抜き取って羽織り、外に出る。

 外を出て数歩歩いたところで、夜になれば静かになる街の中でいやに人の気配がすることに気が付く。道々ですれ違う人を見るにどうやら今日は祭りの日らしい。後ろ暗いことなんてないのに、僕は逃げるように人波の流れに逆らいながら反対方向へと歩き出した。人混みが嫌いという僕の性格以外にも、そのような場所に自分は居るべきではないような気がして。

 夜の匂いがする街を歩く。どこか冷たいような匂いのするこの時間が、僕は好きだった。思考をするにしても、反対に思考を止めるにしても、丁度いい温度。今僕にとって必要なのは明らかに後者であり、茫洋と空転を続ける思考を引き摺りながらひと気のない道を選択し続け、揺蕩うように進む。

 見たこともない道をなんとなく進み続ける。どこへ行き着くのかなんていうことは知らない。ただ、そうあるべき機械のようにして歩き続ける。ふと空を見ると、雲が覆い隠している中でも薄く月の光が透けて見えた。

 月には何があるのだろうかと、昔考えたことを思い出す。兎が居る、灰色の肌を持った異星人が居る、都市が建てられている、かぐや姫が居る。幼い頃に触れた言説は呆れるほどにばらばらで、だからこそ幼い頃、月に憧れていた。心躍らせていた。

 いつのことだっただろうか、現実にはそこに何も存在しないということを知ったのは。僕が生まれるとうの昔にはアポロ十一号が着陸をして、兎も異星人も都市もかぐや姫も居ないことが証明されていた。あらゆる幻想や期待はただの空想に過ぎないということを突き付けられた時のあの大きな失望だけは、いやに覚えている。

 現実を直視して真実と向き合うことはいいことばかりではないと、あの時僕は思った。鬱病は、自己欺瞞能力の欠如により起こるとも言われている。ひとつの嘘も混ぜずに現実と向かい合うことは、当たり前のように言われているほど自然なことではないし、するべきことではないのだ。

 憧憬の対象からただの岩ころへと変わっていた月は、好きになれるものではなかった。独りで居ることが出来る夜でさえも静かに僕を監視しているような気がして、見下されているような気がして。だからこそ、曇ってその姿を直視することが出来ない今夜は僕にとって心地よい夜だった。気分は、良い方ではないけれど。

 ひと気のない、街灯すらもまばらな道を進み続けていると、長い階段が見えた。上るのが億劫ではないと言ったら嘘になるけれど、引き返すことは身体が拒絶していて、踏み外さないように足下を見つめながら一段ずつ、階段を上っていく。

 ひどくうちのめされた人間のように、下を向きながら階段を上る。一段一段が低く、上っても、上っても頂上につかないような錯覚に陥る。まるで、重たい十字架を背負っているような感覚を引き摺りながら、それでも進んで行く。

 半分ほど上ったところでどん、と後方から音がした。遠くから聞こえる、微かな音。けれど、夜の沈黙を打ち破るには十分なもので、僕は半ば反射的に半身を翻して音の正体を確認する。

 瞬間、闇を切り裂いて鮮やかな色が空に開いた。花火だ、という理解はやけにゆっくりと頭の中を過った。

 何年振りに見たのだろうか。いや、何年振りという表現は正しくない気がする。幼い頃、母が連れて行ってくれた時、僕は音に怯えて耳を塞いでいた。世界に罅を入れようとしているような花火が恐ろしくて、顔を逸らした。もしかしたら、母はそれを諭して僕に花火を見せてくれたのかもしれない。ただ少なくとも、僕の記憶において空に上がった花火を見たことは、一度もなかった。

 綺麗だと、素直に思う。夏祭りというものに対して抵抗感を覚えていても、花火がそれとは不可分的に見える存在であったとしても、花火が綺麗なことには変わりがない。飽きずに何度も打ち上がる花火を階段の途中から僕は見る。

 この場所はきっと、花火を見るにしては遠すぎるのだろう。遠く見える花火は掌に簡単に収まりそうなほど小さくて、本来それが持っているべき迫力を感じることは出来ていない。ただ、初めて見たからか感動は一切損なわれることはなくて、独り静かな場所で夏の風の音を聞きながら見ることが出来ているというのはこれ以上ない環境だった。

 けれど、その美しさの中で何かが引っかかるような気がして、意識を立ち止まらせる。この既視感のような感覚は何なのだろう。一度も見たことがないはずの遠い花火が、少しだけ近く、鮮明に見えるような感覚は。

 暫く考えて、ようやく思い出した。この状況は、遠羽が語った過去に似ている。存在しない、偽りの過去に。あの話を聞いた時も僕は、実際にその場に居たことがあるような感覚を覚えた。有り得ない過去を幻視した。

 けれど、冷静に考えればおかしな話ではない。遊上の言っていた通り、偽りの記憶を錯覚させることはそう難しいことじゃないのだ。そういう過去が存在していたんだという確信に近い揺らぎを覚えさせるだけで、脳は簡単に騙される。ありもしなかった過去を、生々しい感触とともに想起させる。何も不思議なことじゃない。僕が花火を見るのは、紛れもなく初めてのことなのだ。

 存在しない感触を振り切るようにして僕は花火から目を逸らし、再び階段を上り始める。背を向けた途端、花火の音はやけに遠くに聞こえるようになった気がした。

 あてのない道を歩く。いっそ、このまま世界の果てまで行ってしまえればいいのにと思いながら、そんなことは有り得ないよな、と自らを嘲り笑いながら。

 何も考えずにただ歩き続けて、足の裏が痛くなり始めたところで頬を冷たい何かが掠めた。それが何かということに気が付くよりも先にぼつぼつという気味の悪い音が鳴り、頭や肩にまで冷たいそれは襲い掛かって来る。驟雨だ。夏場では、それほど珍しいことでもない。空はずっと曇っていたのだ、天気予報を見ていれば予測して然るべきことだったのかもしれない。ただ、当然のように僕は傘なんて持っていなくて、ただ雨に打たれるままにして身体は濡れてゆく。随分と惨めな恰好だなと思いながら、僕は身体を翻して来た道を遡っていくことにした。世界の果ては、あまりにも遠すぎる。

 昔から、雨は嫌いじゃない。冷たい空気。周期的な、しかし時折リズムの崩れる雨音。それに、外に居る時でさえも、傘を差していれば誰もが一人の世界に入ることになる。空は薄暗く、窓辺で煙草を吸っていると雨粒に濡れて火が消えることもある。それでも、僕は雨が好きだった。窓から眺めている時も、傘を打つ音を聞いている時も、突然の雨に濡れている時ですらも、好きだと思えた。晴れている世界よりも、僕が居るべき場所なような気がして。

 けれど、今は身体を濡らす雨がいやに痛いものに感じた。肌に貼り付くシャツが気持ち悪くて、靴に染み込む雨が不快だった。

 好きなはずの雨が嫌いになっている現状に、嫌気が差す。どうやら僕は相当参ってしまっているらしい。何にか。言うまでもない。遠羽字という人間に対してだ。

 彼女が例え偽りの幼馴染であったとしても、僕の心に大きな傷跡を残していったことには変わりがない。期待をしなければ、失望はない。だからこそ、僕はあらゆるものに対して期待をしていなかったのに、彼女は一瞬の揺らぎであったとしても僕にそれを見せつけ、触れさせた。最悪に、残酷な人間だ。割り切ろうとしても、捨て去ろうとしても、心の奥底には必ず何かが引っかかって抜けてくれない。

 記憶を消して貰うべきだ。そう考えたのは、ある意味で自然なことのように思えた。

 そうだ、それは何もおかしなことではないし、不自然なことでもない。詐欺師の記憶を消してどうなる。彼女と話をして得たものはあったか? 一時的な安楽だけで、それも今となっては既に消え去っている。失うものなんて、ないじゃないか。

 むしろ、彼女に目をつけられたこと自体がイレギュラーな出来事だったのだ。本来、僕の人生には存在しなかった偶然。それを排して、何が悪いのだろうか。僕の人生を元のあるべき姿に是正するだけのことではないだろうか。

 急速に思考が回転する。頭の中に巣食うこの重みが全く綺麗になくなるという事実は、悪い側面の一切存在しない素晴らしいやり方のようで、思考は熱を帯びるような速度で回っていく。

 自然と足が早まる。月でさえも掴むことが出来そうな高揚感のようなものを覚える。行き詰まりのように見えた道の中で、自分にだけ見つけることが出来たとさえ思うような活路へと進んでいく。記憶を消せば、苦悩はなくなる。懊悩は消え去る。これほどシンプルで完全な回答はあるだろうか。何行も連なった数学の問題を美しい数文字の解に収めることが出来たような解放感が身体をどくどくと満たす。

 もう少しで消える記憶に悩んでいる自分が馬鹿らしくなってきた。記憶を消せば、苦悩はなくなる。いずれ消える問題を前にして、何を思っているのだろうか。どうせ、消されるのだ。どうせ、消えるのだ。どうせ、消すのだ。ならば――

 これこそが正解だという確信めいた希望は、何かが足を絡めとったところで消える。腕と身体が濡れ、痛みを覚えたところで、僕はようやく自分が雨に足を取られて転んだことに気が付いた。まるで、そんな都合のいいことがあるわけないだろうと、世界が諭すように。

 痛みと寒さというよりももっと単純に、身体が止まったことで熱を帯びていた思考は一気に冷却され、平静へと引き戻される。自分が考えていた事実を俯瞰的に見ることが出来るようになる。

 あれほど厭うていた記憶の削除を容易く受け入れている自分が、気持ち悪かった。お前は、拒絶をしていたはずだろう。嫌っていたはずだろう。それなのに、気の迷いのような一時的なものとはいえ、どうしてそこまでして簡単に受け入れることが出来たんだ。それは、僕が僕を否定しているようなものじゃないか。

 けれど、考えてみればおかしなことでもなんでもないのだ。僕が今まで記憶の改竄を否定することが出来ていたのは、父への恨みだけが理由ではない。自分には、消したい記憶も作りたい記憶もなかったからだ。

 経験は、やはり暴力的なものだと実感する。それは通過している途中の者にしか語ることが出来ない。通過していない者に限らず、通過した者にとっても過去の痛みは記憶の中に閉じ込められた幻想に過ぎないのだから。当事者しか、正確に問題に対して語ることが出来る者はいないのだ。

 記憶を消すことを、否定することが出来なくなる。僕自身も、その揺らぎの中に立ち止まることになったのだから、それもまたひとつの生き方なのだろうと認めることになる。けれど、それでも僕は記憶を消さないことを選ぶ。それは今まで持ち続けていた拘りを捨てたくないという意地にも似たようなものなのかもしれないけれど、それとは別に記憶に対する姿勢は変わらないままだったからだった。抱え続けるのがどれほど辛く、苦しいものであっても、それもまた僕の一部なのだ。僕は、僕を捨てたくはない。上等なものではないかもしれないし、自己嫌悪に苛まれることだって少なくはない。それでも、僕は僕なのだから。

 泥のついた身体を起こして、僕は歩き始める。花火は既に終わっていた。夏祭りは、この雨の中で続いているのだろうか。例え、中断をされることになったとしても、それすらも思い出になるのだろう。祭りというものはきっとそういうものなのだ。僕には掴むことの出来なかった、幸せな可能性の話。

 ひどい恰好をしていることを自覚する。傘も差さず、雨に打たれたままで泥のついた身体を引き摺って暗い道を進んで行く。人とすれ違えば、化け物か何かと見間違われるかもしれない。けれど、どこか気分が良かった。後悔や迷いはある。ただ、それを抱えるという覚悟を決めることが出来た。寒さや痛みを忘れて、今度こそ転ばないように一歩ずつ、確かに歩いて行く。

 家に着いて身体を拭き、服を着替える。雨の匂いと身体の芯に纏わりついた寒気は拭えないままだったけれど、シャワーを浴びる気にはなれなくて、ベッドに寝転がる。

 ふと本棚が目に入り、手を伸ばした。趣味と呼べるようなものは読書くらいしかないはずなのに、随分と長い間本を読んでいないような気がする。小説は、現実から逃避するための空想を作ってくれる。けれど、それにも余裕が居る。本当に参っている時、現実に打ちのめされている時、人は空想に逃げるだけの余力すらもない。今までの僕は、そうだった。しかし、今の僕には本を読むだけの余裕がある。

 本棚に収められた本は全て読んだことのあるものだった。ただ、気に入っているという感想だけを携えて実家から持ってきたまま暫く読み返していない本というのも少なくはない。僕は収められている中で最も分厚い、辞書のような重さを持つ本を抜き取った。時間は有り余っているのだ。どうせなら、一番時間のかかるものを読もうと手に取り、硬い表紙を開く。

 古本屋に立ち寄った時に買った、紙は日に焼けてところどころ染みのついた、海外の小説。眠ることが出来なくなった男が夜の国を目指して旅をする物語。ただ、穏やかな粗筋とは異なり、人の命は極めてぞんざいに扱われ、グロテスクな描写もしばしば見受けられる。それでもこの場所に持ってくるほど気に入っていたのは、残酷な世界の中でも主人公は世界を美しいものだと見ていたからだった。

 非現実的な幻想風景が表されるわけではない。夜の国という抽象的な目的地とは対照的に、旅の途中で寄る場所はどれも現実的な自然風景だった。けれど、眠ることの出来ない男の視界を通して表される文章は、その美しさのせいで目が冴え、眠ることが出来なくなるほどに綺麗だったのだ。

 頁を捲り、連なる文章は思い出の劣化を受けていない、記憶のままの風景を目の前に表してくれる。唾を飲み込んで、ゆっくりと、しかしどこか気が急きながら、文字を追う。

 この小説について語っている人間を、僕は見たことがない。誰かが引用をした場面を見たこともなければ、作者の名前すらも見かけたことがない。昔読んでいた時、本当にこの本は世界に存在するものなのだろうかとさえ思ったことがある。僕が古本屋から買ったこの本こそが最後の一冊で、他には存在しないのか、あるいはそもそも世界において存在していなかったものを偶然掬い上げてしまったのか。未だに、僕はそのどちらかだろうと思っている。

 いつか、この本を読んだことがある人間と話すことが出来たら、と思う。美しいものを見た時、その感動を自らの中で大切に育むことは人間にとって必要なことだと思う。外界にばかり答えを求めていては、本当に大切なものを見失うことになるのだから。そして、その自らの中に生まれた感動を共有することが出来る相手がいるのは、これ以上ないことだ。

 けれど、仮にこの本が膾炙されたものであったとしても、僕にそのような人は居なかったのだろう。そこまで個人的な感情を吐露することが出来る関係の人間は遊上くらいしか居なかったし、彼は本を読まなかった。結局、読書という行為は孤独であり、その通りに僕は孤独を深めていくしかなかったのだろう。

 食べることを忘れて、けれど喉はやけに乾いてウィスキーをグラスに注いで飲み干す。数十頁進む度に煙草に火を点け、時折吸うことを忘れていつの間にか灰がだらしなく、長く伸びる。雨の音の中に沈んでいく。冷えた身体はいつまでも温まらないままだったけれど、そのおかげでいやに落ち着いた思考は意識をより深く、物語の中へと沈ませてくれる。

 優れた物語は、時間を忘れさせる。疲労を感じた目を休ませるためにスピンを挟みつつ面を上げると、いつの間にか雨は止んでいて、窓から見える遠い空には薄く朝日の切れ端が見える。それでも、小説はまだ半分ほど残っていた。

 窓から外へと顔を出すと、街は雨の匂いで満たされていた。深々とした空気が肌に染み込んで気持ちがいい。空腹がじくじくと胃を蝕んでいることが分かる。ただ、食欲は起こらないままで、誤魔化すように酒を飲む。すぐに軽い酩酊感が頭の中をぐるぐると回ったけれど、気にしないようにしたままで再び本を開く。男の前で人がひとり、死んだところだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る